41 黒のドラゴン1
テラスに立った黒竜王ディオニスは、胸のペンダントから黒い鱗を一枚引きちぎった。手のひらにのせると、青い炎がちりちりと鱗を焼き始めた。紫色の煙が、細くたなびく。
ディオニスはその手を高く突き上げ、炎を空に捧げた。
「異界を統べる黒きドラゴンの王よ。今、再び我の前に現れよ」
煙が流れていった前方の空に、突如、垂直に亀裂が入った。
何も無いはずの空間にできた裂け目が、徐々に広がっていく。その隙間から、この世とは違う異世界が、不気味に顔をのぞかせている。ゴウっと生ぬるい風が、ディオニスに吹き付けてきた。
裂け目から巨大な鉤爪が出てきた。そして、自ら裂け目を左右に押し広げてゆく。
ゴゴゴゴ…………
亀裂が広がり、鉤爪の奥にギラリと光る双眸が見えた。低い唸り声が聞こえてくる。そして、紙を破るように空間を裂いて、真っ黒なドラゴンが一気にその姿を現した。
ギチギチと牙を鳴らし、鮮血のように赤く光る目でディオニスを見下ろした。
「わしを呼んだのはお前か……いいだろう、契約を果たそう。力を使わせてやる。しかし、二度目はただでは済まぬやもしれんぞ。わしに精神を喰らわれて死ぬ覚悟はあるのか」
「喰わせはしない。今度こそ、あなたを使役してみせる!」
ディオニスは言い放った。
覚悟ならある。しかしそれは死の覚悟などではない。生きて必ず目的を果たす覚悟だ。無様に這いつくばっても誰からも認められなくても、己の信じることを貫き通す、その覚悟だった。
今度こそドラゴンを制し、この窮地を打開せねばならない。そして、王としての責務を果たさねばならない。生きて、国を再建させてこそ、この責任は果たされるのだ。
目の前の一事の為に、ドラゴンに喰われても良いなどという考えは、彼にとっては唾棄すべきものだった。そんなものは覚悟ではないと考えていた。
ドラゴンは哄笑する。それは雷鳴のようだった。
「恐れを知らぬ小さき人間よ。面白い。やってみろ」
ディオニスがゴクリと唾を飲んだ。
そして、ドラゴンに向かって両手を広げた。
「我を受け入れよ!」
ドラゴンが目をカッと見開くと、白い光がディオニスを包み込んだ。
王のあごが仰け反る。苦しげな呻きが唇からこぼれた。そして人形のように崩折れた。
背後に控えていたアインシルトが、さっと王を受け止める。
ドラゴンはザンっと翼を広げ、舞い上がっていった。
疾風を残し、ドラゴンは空を駆け登る。
アインシルト、ニコ、ベイブ、三人は一斉にドラゴンを見上げた。
ニコは、テオから受け取ったペンダントトップを、慌ててポケットから取り出した。これはあのドラゴンの鱗だったのだ。道理で強い力を持っているはずだと、納得した。
と、ギラリと鱗が光った。思わず、ぎゅっと握りしめる。
熱い。
途端、ニコの頭の中に、幾つものイメージが洪水のように流れこんできた。
火を噴くドラゴン、魔法使いと近衛隊の激闘、横たわる美しい女、天使のような少女が毒々しく笑い、ディオニスが王を刺し殺す、アインシルトが叫び、黒い男が少年を抱えて走る、町が燃え上がり、魔女を追ってリッケンと部下たちが走る、そして焼けた町を馬で駆けるテオ。
様々なシーンが一斉に、頭の中で再生される。たまらずニコは頭を抱えてしゃがみこんだ。何がなんだか解らない。一度にあまりに多すぎる情報を流し込まれ、処理しきれずに思わず悲鳴がこぼれた。
上空に浮かぶ、黒い竜を見上げて魔女は叫んだ。
「ああ、ついに来たのね! でも、もう遅い! ペンタゴンが王宮を囲んでしまったわ! 私の勝ちよ!」
魔女アンゲリキはふわりと舞い上がり、氷の笑みを浮かべる。
ドラゴンは怒号を上げて魔女に迫った。鋭い爪が風を引き裂き、獲物に食らい付こうとする。
するりと交わしたアンゲリキは、ペンタゴンに最後の呪文をかけた。唇を大きく動かしているが、何も聞こえては来ない。人の耳には感知できない、高周波で発せられた呪いの言葉だった。
ドラゴンの口から、渦巻く烈火が吐き出される。炎は何匹もの竜となって、魔女の逃げ場を奪い喰らいつく。魔女に巻き付きその体を焼いた。
ドラゴンの羽ばたきが、さらに炎を燃え立たせる。
ギャッと悲鳴をあげるも、即座に魔女は炎の竜を解き逃げ出してしまった。ニタリと笑う。そしてドラゴンの鼻の上に飛び乗ってきた。
「もう、おしまいなのよ」
黒い点のような魔女の瞳が、更に縮んでいく。
常軌を逸した笑いを放った。
「うはははは!!」
高笑う魔女をドラゴンは振り落とし、ひと呑みにしようと牙をむく。
ドラゴンの鼻先で、稲妻がスパークした。
「来たわ! もう、すぐそこまで!」
おおおおおおおおおお…………
不気味な声が地の底から沸き上がってくる。
ドラゴンは空高く舞い上がった。
うおおおおおおおおお…………
血を凍らせる、地獄の亡者の声が町に響き渡った。
ベイブは突然うずくまったニコに驚き、その肩を揺すった。
「どうしたの?」
「……ん、大丈夫だよ」
今、自分に起こったことを説明しようとしても、どう言っていいのか解らないし、くどくど話している暇もなさそうだ。
ニコはベイブに心配かけないようにと、微笑んだ。まだ頭がガンガンと鳴っていたが、立ち上がりベイブと一緒にテラスに出た。
「……これドラゴンの鱗だったんだね。だからお守りだって言ったんだ。たった鱗一枚……でも、ものすごい力を僕に貸してくれたんだ。あのドラゴンは」
ニコは空を見上げた。炎を吐く黒い龍の姿がくっきりと見えた。しばし三人はそれに見とれていた。
縦横に飛び回るドラゴンにアインシルトは頷き、そして倒れたディオニスを広間に運び入れはじめた。ニコもそれを手伝う。
ディオニスはピクリとも動かなかった。呼吸さえも止まっている。
「……一体、どうなっているんですか?」
「陛下は、今ドラゴンの中におられる。その力を借りるためにな」
「ドラゴンに乗り移っていると?」
「そのようなものじゃ。あの魔女めも、何者かの巨大な魔力を借りておるようじゃし、ドラゴンでなければ倒せるものではない」
アインシルトは丁寧に、王を横たえた。
「精神を喰われるとか……言ってましたが」
「ドラゴンを使役するのは容易なことではないからのお。以前の失敗を繰り返さぬように、体を置いていきなさった。完全に一体となるためにの。今の陛下ならば、きっと大丈夫じゃ。ドラゴンの凶暴な精神に負けることはないと、わしは信じておる」
王の両手をその胸の上に置き、自分の手を重ねた。
以前の失敗。六年前の事変を指しているのだろう。ドラゴンと共に町を焼いたのは、彼の本意では無かったということなのだろうか。力及ばず、支配するはずが反対にドラゴンに飲まれてしまった結果の惨事だったと。
ニコは、アインシルトの言葉にじっと耳を傾けた。
「結界は王と王宮そのものを守る為のものであると同時に、ドラゴンを召喚する事態になった時、抜け殻になった無防備な体を守る為にも必要じゃった。陛下はそれすら不要と考えてらしたが……まったく、わしの老婆心じゃの」
トントンと優しく、王の手を叩いた。
「結界は不要だと言って、なかなか聞き入れてくれなんだ……じゃが、ようやく受け入れてくださった。逃げ隠れするためではなく、存分に戦うための結界じゃとな。できるものなら、わしが代わりたかったがの」
ベイブが、アインシルトの肩に手を置いた。ローブが裂け、痛々しい傷が見えていた。
「治してあげるわ」
「すまんの。わしゃ、自分の怪我だけは治せんのじゃ」
「テオの苦手は、お師匠譲りだったのね」
ベイブは笑みを見せたが、形だけだった。
「……あたし、少し誤解してたのかしら。少なくとも王は、臆病者でも卑怯者でもないみたいね。もっと独善的で冷酷な人間だと思ってた。……テオをただの道具として利用してるんじゃないって、信じるわ」
「無論じゃ」
ベイブは無言で、老師の目に彼は何処にいるのと問いかけた。
しかし彼女の心中を察しても、アインシルトは困ったような笑みを浮かべることしかできなかった。
「感謝するぞ。……もう痛みがなくなったわい」
アインシルトが立ち上がった時、足元を震わせてまた忌まわしい声が沸き起こってきた。
おおおおおおおおおお…………
聞く者をみな総毛立たせる、陰惨な声だった。
「なんじゃこれは?! この魔力……この結界だけでは持たんかもしれん!」
アインシルトが叫んだ。
ドラゴンが王宮に向けて降下する。
地底からおぞましい何者かが、這い上がってくる。
〈させるか!〉
なおも降下する。
魔女が狂ったように嬌声を上げている。
「来たわ! 来たわ! 来たわ! 来たわーー!!」
うううおおおおおおお…………
裂け目から、白いもやが噴き出してきた。
ドラゴンは王宮の周りをグルグルと飛び回った。
正面のテラスに出てきた、数人の人影を認めた。
〈アインシルト! 守れるか?!〉
ドラゴンの咆哮が、響き渡る。
何度も王宮の周りを飛ぶうちに、光の渦が巻き起こった。
渦は徐々に王宮を包み込んでゆく。
おおおああああああああいいいいい…………!
地下の魔物が吠え叫ぶ。
ドラゴンはなおも王宮の周囲を飛び続け、光の渦は一層輝きを増していた。そして、ついに王宮が巨大な光の球体に包まれた。
ドラゴンが球体の上で翼を広げる。力強く羽ばたく度にその翼は炎に変じ、大きく引き伸ばされていった。一際鋭く、ゴウッと雄叫びを上げてドラゴンが羽ばたく。二度、三度。
そして、持ち上げた――――。
球体は建物の立つ地面を丸く削りとり、王宮をすっぽり包みこんでいる。
それをまるごと持ち上げたのだ。
地響きをあげ、地底からは真っ白なもやが激しく噴き出してきた。
「なにをする!」
魔女の叫びは怒りに満ちていた。再び大蛇に身を変えて、ドラゴンに向かって飛び上がってきた。
ドラゴンがなおも羽ばたく。足の爪はしっかりと球体を掴み、どんどんと上昇していった。
地を離れた王宮が、空に浮かぶ。