38 炎の魔物2
ニコの体は傷だらけになり、肩で荒い息をしていた。しかし、しっかりと地面を踏みしめて立っていた。クレイブの援護のおかげもあって、ニコはベイブをしっかり守っていたのだ。
対してスーツの男は片膝をつき苦しげにあえいでいる。その頭からは、不気味な白い煙が立ち上っていた。
「勘違いするなよ……お前など簡単にひねりつぶせる」
そう言いながらも、男は崩折れるように四つんばいになった。
「こ……こんなひ弱な器でさえなければ……!」
カッと見開いた男の眼から炎が吹き出した。
口からも、鼻からも。
驚愕に息を呑むニコとベイブに対し、クレイブは激高した。
「またか! 貴様がフリッツを殺したんだな! 人の体を乗っ取って何を企んでいる!?」
男が大きく口を開けて笑う。
するとその口から黒煙が勢い良く吐き出された。
「ははは。我に見合う強い魔力をもった器を狙っておるのよ!」
そして、男の全身が燃え上がった。
火柱が立ち、男の体は黒焦げになって横たわった。その炎の中に顔が浮かび上がる。先ほどの男とは全く違う、美しい顔だった。少女と見紛う可憐な美しさだった。あまりに美しいがゆえに、恐怖を感じる。
クレイブの言った通り、コレがスーツの男に取り付いていたのだと、ニコは理解した。ゴクリと唾を飲み、そしてベイブ守るように彼女の前に立ちふさがる。
「ゴブリンをよこせ」
炎の魔物が微笑みかけた。
天使のように愛くるしいが、背筋を凍らせる笑みだった。
「ダメだ。絶対に」
ニコは決然と答え、負けじとにらみ返す。そして、テオのペンダントトップを握りしめた。
突然、ニコの体が強張る。ドクンドクンと荒ぶる力が濁流のように激しく流れ込んできた。
おおお! と天を仰いだ。
体が熱い。目がくらむ。体の奥底から、ゴツン! と凶暴なものが突き上げてくる。強すぎる力がドゴンドガンと湧き上がってくるのだ。
何も考えることなく、がむしゃらに暴力を振るいたい衝動にかられた。
殴り、蹴り、引き倒し、突き刺し、踏み潰す。
顔を殴る。頭を殴る。腹を殴る。何度でも殴る。
目、喉、鳩尾、脇腹、股間、急所だけを狙え。
苦しみ悶える獲物を更に苛烈に殴り続ける。そんな妄想が脳裏に浮かんだ。
ペンダントが薄暗い声でニコを誘う。
誰でもいい……さあ、喰え。
生きた肉を引き裂き、骨を砕き、臓腑をぶちまけて喰ってしまえ……。
おぞましく甘美な誘惑。
ゴクリと、口の中に溜まった大量の唾液を飲み込む。
震えが止まらない。
ギョロギョロと瞳は獲物を探し始めた。
ニコは咄嗟に目を閉じる。唇をガリリと噛んだ。こみ上げる暗い欲望に耐えようと、頭をふりたくる。
ペンダントトップを離し、ポケットから震える手を抜き出した。この誘惑に身を任してはいけない、引き返せなくなると、本能的に察知していたのだ。
自分にはやるべきことがある。絶対に守らなければならない約束がある。ペンダントの魔力に負けるわけにはいかない。
ぐはあぁぁ、と大きく息を吐き、目を開けた。
歯を食いしばり、炎の魔物をにらみつけた。
彼の目に濁りは無い。
「ほお、力が増してきたか」
炎が大きく揺れ動く。ニタニタと笑っている。
ニコの魔力がますます増幅されていると知っても、動じるどころか歓びの表情さえ浮かべている。
「貴様を器にするのも、面白いかもしれんな」
三人に緊張が走る。
クレイブが、サッとニコの前に飛び出して身構えた。
彼の顔は青ざめ腕が震えていたが、それは恐怖のためではなく怒りのせいだった。
「私の目の前で、同じことを三度も繰り返させるものか……。お前は何者だ!」
「我を知らぬのか? まあ、仕方があるまい。ようやっと姉上に封印を解いてもろうたばかりだからなあ。先々代のインフィニード王に封じられた魔法使い、そう言えば解るかな?」
「……アンゲロス!?」
クレイブは、忌まわしげにその名を吐き出した。
「生きていたとは……」
「……ん?! これは!」
今にも襲いかかってこようとしていた魔物は、突然小さな火の玉になり、上空に舞い上がった。
そして王宮の方角を見つめた。
今までとは違うに、低い地鳴りが聞こえてきた。
「はっ! はっは! ついに来た! 始まった! 復讐の序曲が聞こえる!」
甲高い歓喜の声をあげ、バチバチと火花を散らした。
最早ニコら三人に興味はないといった風に、高らかに笑い続ける。
「いや、お前たちとっては、終曲か」
アンゲロスはちらりと足元を見下ろし、憐れみ蔑むようにつぶやく。そして空高く上昇し、またたく間に不気味に渦巻く黒雲の中に消えていった。
呆然と三人はそれを見送った。へなへなとベイブが腰をついた。
その彼らからは見えない、屋根の上でも炎の魔物を見上げているものがいた。黒猫のキャットだった。
キャットはおもむろに立ち上がると、軽々と屋根を飛び越えて王宮に向かっていった。
***
アンゲリキは変化を解き、王宮正面の広場に舞い降りた。
ついにペンタゴンが王宮を捕らえた。赤い光の線が王宮をぐるりと囲んでいたのだ。
魔女は高笑い、最後の仕上げにとりかかる。
「あはははは! もう、お終いよ!」
魔女の瞳が黒い点のように、きゅうぅぅと縮んでいく。
「見なさい! ほぉら……来るわっ!」
王宮を取り囲んだ五角形の線が、紫に燃え上がった。地から湧き出るオーロラのようだ。
ドガガガガッ!
大地が裂ける。
美しい五角形を保ったまま、大地が垂直に深く裂けてゆくのだ。
耳をつんざく衝撃音を発しながら、裂け目が広がってゆく。
魔女を追って来たジノス達は、目の前の光景に驚愕した。
これから何が起ころうとしているというのか。
大地は深く切り裂かれ、王宮は周囲から完全に切り離されていた。
おおおおおおおおおお…………
不気味な声が地の底から沸き上がって来た。
「全てを地の底に引きずり込んでやる」
魔女は両手を広げ地に向かって、人間の可聴域を超えた呪文を叫ぶ。
すると地底からの声が、ますます大きくなってきた。
おおお……おおおおおおおお…………
背筋の寒くなる亡者のうめき声が、町に響き渡った。
***
炎が突然去ったあと、辺りはしんと静まり返っていた。
「アンゲロスとは、何者なんですか?」
ニコは、クレイブに尋ねた。
アンゲロスという名の、人の体を奪い取る炎の魔物。恐ろしい相手だった。ふっと力の抜けたニコは、よろよろとベイブの隣に座り込んだ。
つい今しがたの闘いを振り返り身震いした。よく生きていられたものだと思う。アレが、自分から去ってくれて本当に助かった。そうでなければ、自分はペンダントの力を借りるより他なかったと思う。
しかし、あの力を使いこなせる自信などなかった。自分の中に流れこんできた力は、むごたらしい暴力への渇望を含んでいた。力を使っていたら、その欲に飲まれて、自分を失ってしまっていただろう。
ニコはペンダントを見つめて、まるで諸刃の剣だなと思った。
「……アンゲリキは元々双子の魔法使いだった。アンゲロスは、その弟の方だ」
クレイブは魔物が消えた空を見上げたまま、答えた。
「元はただの魔法使いだったらしいがな、魔道に身を落してからは邪悪な力を振るうようになった。……奴らは我が国だけでなく近隣の国々をまたいで、悪虐の限りを尽くしていた。それを三十年ほど前、当時のインフィニード国王が滅ぼしたらしい。まさかまだ生きていたとはな……体は失ったようだが」
彼の話を、ベイブは膝を抱えて聞いていた。
敵はアンゲリキだけではなかったのだ。あの森で死ねばよかったのに、そう言った男の顔が頭に焼きついて離れない。
ゾクリとニコの背筋が震えた。
しかしベイブを守り通すことができた。テオとの約束を守れた。そのことが誇らしい。もちろん約束など無くてもそうしたはずだが、テオの期待に応えられたことが嬉しかった。
陰鬱な声で語っていたクレイブだったが、ニコに視線を移すと思わず口の端が上がった。服は裂け満身創痍だったが、晴れやかな顔をしている少年を好ましげに見つめた。
「半人前のわりには良くやったな。あのいかさま師に師事するのは止めたほうが、お前の為にはいいだろう。素質は良いものを持っている」
「でも、僕はそのいかさま師が好きなんです。あ、クレイブさんもカッコ良かったですよ」
ひねくれた褒め言葉に、困ったようにニコは笑った。
クレイブはふんと鼻を鳴らす。
「それにしても気になるのは、奴が誰かの体を狙っているということだ。魔力の強い器と言った」
顎をつまんで考えこむ。
最も魔力の強い者と言って、思い浮かぶのは数名しかいない。アインシルトとその数名の高弟だ。その中には黒竜王も含まれる。
「アインシルト様のことでしょうか」
ニコが言った。
「それとも黒竜王……」
続けてベイブがポツリとつぶやく。
クレイブはベイブをじっと見すえる。
「あり得るな。しかし、なぜ奴はお前を狙った?」
「……し、知らないわ」
「すぐにでも魔力の強い体が必要なら、お前よりも私かその小僧の方が適当だろうに、なぜお前を狙ったのか……」
クレイブは疑わしげに、ベイブを観察していた。
「お前は一体、何者なのだ」
刺すような詰問にベイブは震えた。
答えられるものなら答えたい。しかし、呪いをかけられた身ではどうすることもできなかった。
***
腹の底から湧き上がる恐怖をぐっとこらえる。
呪文を一心に唱え続ける魔女の背後から、ジノスは光の矢を放った。矢は見事に命中した。
魔女の体がぐらりと揺れる。即座に騎士達が取り囲み、魔女を押し倒した。
「おのれ! 貴様ら!」
悪鬼の形相で魔女が叫ぶ。と同時に、ジノスと騎士らは数十メートルも吹き飛ばされていた。
激しく石畳に頭を打ち付け、転がった。
「……後でゆっくり殺してやるから、そこで大人しく待っていなさい……」
ギラギラと怒りに燃える目で魔女がにらみつけている。
今すぐ殺さないのは、中断させられた呪文を早く完成させたいが為だろう。地の底から響く得体のしれない声の主を、地上へと召喚するために。
ジノスは、全身に嫌な汗をかいていた。魔女は恐ろしい何かを呼びだそうとしている。止めなければならない。しかしどうすればいいというのか。
「チキショウ。バケモノめ……」
ジノスは歯をギリギリと噛み、立ち上がった。
突然、ゴウッと火柱が立った。
騎士団の直ぐ後だ。ジノスが振り返ると、燃え上がる炎がグルグルと蛇のようにうねり、彼らを取り囲もうとしていた。
炎の中の美しい顔が、いやらしく笑っている。魔女とそっくり同じ顔。それが喋った。
「姉上の邪魔してもらっては困るな」
ジノスの呼吸が止まる。
殺される、頭の中にはその思いしかなかった。それでも咄嗟に飛びのき、数名の部下がそれに続く。
「逃げろ!」
遅れた三人の騎士が悲鳴を上げ、炎に取り込まれた。
巨大な蛇がとぐろをまいて、獲物を締め付けているようだった。
「ブリザード!」
ジノスが叫ぶと、氷点下の風がゴウゴウと吹き荒れた。
白い氷の粒を含んだ暴風が、炎に襲いかかる。しかし、炎の勢いを止めることは出来なかった。炎が何匹もの蛇に分かれ、白い嵐を貫き飛びかかってきた。
騎士団は飛竜を駆り、散り散りに逃げ出す。また何人かの騎士が、炎に取り込まれた。
無様だ、そう思いながらも、ジノスは敗走するよりほか無かった。