34 五芒星1
夜明けと同時にそれは始まった。
大地に赤い線が走ったのだ。魔力を持つ者にだけ見える、光の線だった。
アソーギの西端の農村、消失事件が最初に起こった農夫の家を起点に、その線は真っ直ぐに伸びてゆく。東の方角、ゴーガシャーの第二現場に向かって。続いて、第三第四の地点へと線は伸びてゆくことだろう。
大地に巨大な五芒星が描き出されてゆく。
ついにアンゲリキの呪いの魔法陣が発動したのだ。
ガガガガガ!!! ゴゴゴゴゴゴ!!!!
突然、地面が揺れ始めた。
小さな横ゆれが、不意にドカンと強い縦揺れに変わった。積み重ねられた本の山が崩れ、飾り戸棚のガラスがビリビリと不気味な悲鳴を上げた。
窓際に立って空を見つめていたテオが、サッとうす青色のカーテンを開け放った。ベイブがクーファンの中で、四つの目をパチパチと瞬かせて固まっている。テオはさっと彼女を抱きかかえた。
「テオ! 何これ!? ただの地震じゃないわ!」
「そうだな」
ドアノブをガチャガチャと回すが、扉はびくともしない。
テオはガンガンと思い切り蹴りを入る。三度目の蹴りで、バキンと大きな音を立てて扉は勢い良く開いた。
そして部屋を飛び出すと、青と黄色のローブを翻して、階下へと飛び降りた。
「ニコ、テーブルの下に隠れろ!」
テオが叫んだ時、ちょどニコが自分の部屋から転がり出てきた。その脇を、全身の毛を逆立てたキャットが慌ててすり抜けていく。
家がギシギシと大きな音をたててきしみ、天井からほこりが降ってくる。ガタガタと家中の物が揺れ動き転倒し、ガラスの割れる音が響いた。隣家や近所の家からも、大きな物音と悲鳴がいくつも聞こえてきた。
「こ、こんな激しい地震なんて……」
テーブルの下に三人と一匹が身を寄せた。
テオはキッと天井を見上げ、見えない何かを睨みつけていた。
「邪悪な魔法の匂いが充満している……。解るか? ニコ」
「……なんとなく」
かすれた声で、ニコは答える。
テオの片耳の紫水晶が熱を帯びて、キラリと光った。
「テオ。水晶が光ってる」
ベイブが目ざとく気づいた。
「ああ、アンゲリキの魔力に反応してるんだ。このイヤリングは、前に魔女の強い魔力を受けたことがあるんだ。魔女感知器みたいになってるからな。……これは、君が身に着けていたイヤリングだったんだろう?」
目を輝かせてベイブはテオの手を握った。
「そうよ。気づいてくれたのね!」
「キャットが運んできたガラクタは全部、君にまつわるものばかりだった。違うかい?」
「そう! そうなのよ! ああ、テオ、嬉しいわ! 気づいてくれるのを待ってたのよ!」
彼女の声が弾んだ。ようやく希望が見えてきた。
今まで彼女なりになんとか身の上を伝えようと努力したものだが、なかなか上手くゆかず、焦りが募っていたのだ。どう足掻いても名前さえ言うことのできないもどかしさが、もう辛くてたまらなかったのだ。
しかしテオは自分につながる手がかりに気づいてくれた。
「……ああ、そんなに期待を込めてオレを見るのはやめてくれよ」
テオは、ガリガリと頭を掻いた。
「君が本当は人間の女の子だってことは分かってたんだ。でもそれが分かっただけじゃ、まだ呪いは解けない」
「かまわないわ。今すぐ解けなくったって。いつか必ず解いてくれるって信じているから!」
自分がゴブリンなどではなく、人間の娘だと気づいてくれたことに喜びを感じた。元の姿に戻れる日は、きっと近いのだとベイブは思った。
呪いが解けたら、話したい事がたくさんある。どうしても聞いて欲しいお願いもある。ああ、それよりも何よりも、本当の自分を見たら彼は何と言うだろう。敬遠するだろうか、変わらずにいてくれるだろうか。
ベイブは不安を感じたが、それ以上に今は期待感の方が強かった。
「ありがとう、テオ」
ベイブは頬を紅潮させてテオの首に抱きついた。するとテオは困ったなあと、助けを求めるようにニコを見た。
クスリと笑って、知りませんよとニコは肩をすくめる。
ガシャンとまた食器が棚から滑り落ちてくる。地震は収まる気配もない。
「まあ、この件については落ち着いてからまた話そう。これからが大変だ。」
******
突然の激しい揺れに、王宮のあちらこちらで悲鳴が起こっていた。衛兵たちや廷臣らは右往左往し、使用人の女達の中には泣き出す者もいた。
彼らを押しのけ、上級大将リッケンは王宮内を走っていた。強い揺れの中をフラつき、対向者とぶつかりながらなおも進む。
「陛下! 無作法お許しを!」
彼は、黒竜王ディオニスの自室の扉を勢い良く開けた。
王は背中を向けて立っていた。
激しい揺れをものともせずに真っ直ぐに立ち、窓の外を見ている。
「ご無事でございましたか」
その姿に、リッケンは安堵した。
揺れはまだ続いている。ふらつきながら、リッケンは黒竜王ディオニスに近づいた。そして、その横顔を目にし驚愕した。
左の頬に一筋、血が滴っていた。
「陛下! それは……」
「アンゲリキの呪いが、本格的に動き始めた。私を滅ぼうそうとな」
その口元に豪胆な笑みが浮かんだ。
「魔法騎士団に城の揺れを止めさせろ。そして守りの護符を強化させよ」
リッケンは敬礼し、即座に命令に従った。
******
インフィニードの大地に、巨大な五芒星が刻み込まれた。
星の中の五角形の部分が、激震に襲われている。アソーギのほぼ全域が五角形の中に含まれる。首都もろともに、王宮を破壊しようというのだろうか。
揺れは一向に鎮まらない。それどころか激しさを増している。逃げようにも、揺れる地面の上では立っていることもままならず、人々は恐怖におののき町は混乱に陥った。悲鳴と怒声が、途絶えることはなかった。
「この家は、まだしばらくはもつだろうが……しかしこれは異常だ。あのアンゲリキにこれほどの力があったのか?」
テオは悔しそうに歯噛みする。
これ程激しく大地を揺るがす力を、魔女はどうやって得たというのか。じっとりと嫌な汗をかいていた。
「……う!」
テオは急に左目を押さえた。苦痛に頬がゆがむ。
「どうしたの?」
「目の奥が痛い……」
ベイブが下から見上げている。その時、ドカンと地面が突き上げられ、三人は床にはいつくばった。
テオは左目を掻きむしり、床をガンと殴った。
ベイブは起き上がり、優しく彼の肩をさすった。
「ねえテオ。この地震を引き起こしている魔法と関係あるのね? その痛み。ごまかしはダメよ。秘密の場所に預けてるって言ってたわね。それって魔女のことでしょう?」
ベイブが注意深く言った。
背を丸めたテオは俯いたまま、無言だった。
しかし、揺れにベイブがふらついて床に叩きつけられそうになると、さっと手を伸ばしてその体を支えた。ベイブも、無言のまま彼を見つめている。
ああと息を吐き出して、テオは観念したように言った。
「……鋭いね。そうさ、アンゲリキの魔力の影響を受けている。オレは六年前、魔女に左目を奪われたんだ。アイツの魔力に触れると古傷が痛む」
淡々と話すテオだったが、ニコの顔には恐怖が浮かんだ。
震える声だった。
「その左目、魔女のせいだったなんて……。それって、魔力を奪われたってことじゃないですか」
「ほんの一部だ、たいしたことはない。痛みもおさまった」
テオはゆっくり顔を上げた。表情は険しい。
ニコは首を振った。充分大変なことだ。
――精霊は他者に真実の名を知られた時、絶対的な拘束力でその者に支配され服従する。
テオからデュークの話を聞いた後、ニコはもっと詳しく知りたくて幾つもの魔法書を読みあさった。そして知ったのだ。
精霊を支配するように、魔法使い同士の間でも相手を支配することが可能であると。ただし、強い魔力をもった魔法使いに限られた話なのだが。
精霊のように完全に支配下に置ける訳ではないが、相手の体の一部を奪うことで、魔力を部分的に奪ったり魔法の効力を無効にしたりできるというのだ。
つまり、左目を奪われたテオの魔法は、彼を支配するアンゲリキには通じないということだ。極めて不利で、危険な状態にあるのだ。
「バカ! あんたそれなのに魔女を嗅ぎまわってたの? 殺されるわよ!」
「見くびるなよ」
テオはニヤリと笑う。
「借りは必ず返すさ」
ゾクリとさせる笑みだった。
ベイブは、テオの顔に怖いものを感じた。彼はいつも仮面を被っている。本当の自分をなかなか見せようとはしない。素のテオは、自分の知らない顔を持っているのかもしれない。ベイブは、不安が膨れ上がっていくのを感じた。
「無茶苦茶だ……」
ニコは青ざめた顔でつぶやいた。




