29 黒竜王
ビオラが人形の処分を終えた頃、王宮ではアインシルトが魔女への警戒について国王に進言しようと、その執務室を訪れていた。もう一時間近く待たされている。アインシルトは眼を閉じ、静かに部屋の真ん中に立って待っていた。
ムラト・リッケン上級大将を含む重臣が四名、部屋の脇に控えている。
ジノス・ファンデル大佐の姿もあった。本来なら経歴も浅く若輩者である彼は入室を許されることはないのだが、アインシルトの随行者としてゴリ押ししたのだ。内大臣に特別に許可もらい、扉近くに控えていた。
ジノスは黒竜王に顔を見知って貰い、魔法騎士団と自分をアピールしたかったのだ。活躍の場を得て、さらに上を目指す意欲に燃えていた。
ギイイイと重い音をたてて、奥の扉がゆっくり開いた。
黒竜王だ。
ようやく現れた王は黒くいかめしい仮面をつけ、えりの詰まった軍服の上に黒いマントを羽織っていた。
近衛隊と同じデザインだが、彼らの濃紺とは違い漆黒の軍服だった。
全身黒ずくめの大柄な男。黒い壁のようだった。
彼が姿を表した途端に、部屋の空気が一変した。ピンと張り詰め、重い固まりになってしまった気さえした。
王の顔の上半分は仮面に隠れ、口元しか見えない。王位についてからずっと仮面で顔を隠している。二目と見られぬ醜い顔を隠していると噂されていた。元々、公の場に出ることが無かったため、その素顔を知るものは殆どいない。
そのドラゴンの意匠の仮面は、先の戦いでの彼の猛々しさを思い出させる。そして表情が読み取れないことも、黒竜王に対する恐れを増幅させる原因となっていた。
ジノスは、ゴクリとつばを飲んだ。
「話とは何だ、アインシルト」
その低い声に、重臣たちは深々と頭を下げる。
王は悠然と椅子に腰掛けた。肘置きに腕を置き足を組む。座っていても、小柄なアインシルトを見下ろしているようだった。
アインシルトはうやうやしくお辞儀をした。
「ディオニス陛下、お待ちしておりました」
「仔細を聞こう」
「はい。先ほど我が弟子より、最後の呪いの人形を破壊し魔法陣の完成を阻止したとの報告がございました」
リッケンが一歩進みでた。
「では、魔女の企ては挫いたのですね」
「表面上は……」
「どういうことですかな?」
「油断ならぬと言うことです」
アインシルトは王に向き直った。
「……陛下もご承知の通り、王宮の結界はまだ完全ではございません。陛下をお守りするためにも、是非とも陛下にお願いしたいことがございます」
もう一度、深々と頭を下げた。
王がニヤリと笑う。
「私に、また黒きドラゴンを呼び出せとでも言うか?」
「いえ! そうではなく!」
アインシルトの声が大きくなる。
「テオドールをここにお呼び下され! さすれば、結界を完全なものにできるのです」
「必要ない」
「お願いにございます。御身大切に」
アインシルトの額に粟粒のような汗が浮かぶ。
王は、胸の前で指をこすり合わせた。イライラとしているように見える。
「指図を受けるのは好のまぬ」
「お願いにございます」
「黙れ」
「お願いにございます」
アインシルトは、王の眼を見据えて繰り返した。
リッケン他、重臣達の間に緊張が走った。黒竜王の逆鱗に触れれば、ただでは済まされないのだ。
王はゆっくりと足を組み替え、上体をそらせて尊大に椅子の背に持たれると、小さく笑った。
「無用な結界に気を取られるよりも、大事があるであろう。あの五芒星の魔法陣は本当に破ったのか? 隠された意図はないのか?」
「その可能性もございますゆえ、結界の完成を急いでおりまする」
大臣の一人が大きく息を吸い込んだ。
「陛下、アインシルト殿は陛下の為を思い、万が一の事を考えて申されております。どうかお聞き届け下さいますよう」
「口出し無用!」
一喝され、青くなった大臣は黙礼し一歩下がった。ジノスや他の大臣までギクリと固まってしまった。
王はアインシルトを睨みつけていた。
「結界など要らぬ。お前の仕事はただ一つだ。私の前にアンゲリキを引きずり出せ」
「無論にございます。その為にもテオドールをお呼びください。我が弟子は、臆病風にふかれるような腰抜けでございましょうか?」
老魔法使いはひるまず、食い下がった。挑発の響きさえある。
「……何度も言わせるな、結界は必要ない!」
ドンと肘置きを拳で殴った。
「ふざけるなよ、アインシルト。オレは腰抜けじゃない」
ギリギリと奥歯を噛む音が聞こえてきた。
王の一人称が変わったことは、その怒りの激しさを示している。それに気づいたリッケンは、さっと大臣達を見回した。
皆うつむき凍りついている。身動き一つしなかった。アインシルトが王の怒りを受けて、罰せられると想像しているのだろう。
しかし当の本人は真っ直ぐに王を見上げ、淀みなく語り続けていた。
「陛下のことを、その様に申し上げてはおりませぬぞ。弟子は陛下お一人ではありませぬゆえ。私はひとえに、救国の為にお願い申し上げている次第でございまする」
「…………」
最早、王は言葉を発することを止め、ただアインシルトを見下ろしていた。
アインシルトも沈黙し王を見つめ返す。
二人のにらみ合いが続き、執務室の中になおも緊迫した空気が溢れた。
緊張し固くなりながらも、ジノスは内心首をひねる。アインシルトの言わんとしていることが、よく解らなかったのだ。対する王の反応も。
結界を完全なものにするためにテオドールを呼んでくれというアインシルトに対し、王は必要ないという。そして、テオドールは役に立たない腰抜けですかと問うアインシルトの言葉を、自分への侮辱と受け取った黒竜王。
いや違う、アインシルトの言う「我が弟子」とは、テオドールではなく最初から王を指していたのだろう。
テオドールを呼びだす、そんな簡単なことも出来ないのかと。
だとしたらこのような暴言、首が飛ぶのは確実ではないのか? ジノスは肌が粟立つのを感じた。
しかし老師は、なぜ王を腰抜け呼ばわりするのか。結界は必要ないと拒否することは、臆病な腰抜けとは正反対のように思える。
ジノスは、何か意味を取り違えているのだろうかと、理解に苦しんだ。
カチカチと柱時計が時を刻む音が、やけに大きく聞こえてくる。
アインシルトは静かに王を見つめ続け、王もまた老師をにらみつけるのを止めない。しんと静まり返る中、リッケンは口を一文字に結び眼を閉じた。
この意地の張り合いはいつまで続くのか。自分が口をはさむ余地はないように思えた。
この状況の下では他の者達も口出しは出来ないまいが、先ほどのアインシルトの物言いに、後で余計な詮索をする者が出てくるのではないかと案じていた。
現にもう、ジノスが不審な表情を浮かべている。
何か悩み事でも? という、先日のテオの涼しげな声が不意に思い出された。全く山ほどある。今また目の前に。リッケンの胃がキリキリと悲鳴を上げ始めていた。
その時、チッと小さな舌打ちが聞こえた。
「……あの者が承知するならな」
ようやく王が口を開いた。
サッと立ち上がるとマントをひるがえし、奥の扉の向こうに立ち去って行った。大臣らは一様に驚いた表情をうかべて、それを見送った。
黒竜王が折れたのだ。
「ありがとうござます。ディオニス陛下」
アインシルトはゆっくりと頭を下げた。
大きく息を吐き、リッケンは胸をなでおろした。肩の力が抜けてようやく全身が緊張していたことに気づいた。
ジノスは一礼して退室する。すごい場面に立ち会ってしまったと、頬を紅潮させていた。
さすがは王国一の魔法使いと言われるだけのことはあると、改めてアインシルトの偉大さを感じていた。一時はどうなることかと思ったが、あの黒竜王を説き伏せたのだから。王が、老師を処罰することも無さそうだ。
王と廷臣、弟子と師匠。二人の間には、それ以外に何か深い繋がりがあるように感じた。
アインシルトは、完全な結界の完成にテオドールが必要であると言っていた。それはテオドール・シェーキー、あのブロンズ通りの魔法使いのことだろう。
これはどういうことだろうかと黙考する。アインシルトの弟子とは言え、彼のことは落ちこぼれの二流魔法使いだと思っていた。が、どうもその見解には誤りがあったようだ。
結界の鍵となり得るのならば、かなりの魔力を持つ魔法使いであるのだろう。しかも、黒竜王さえもその存在を認知している。
テオドール・シェーキーとは一体何者かと、ジノスは思いあぐねた。