28 左目の記憶
テオは膝を抱えて顔を埋めたまま、石像のように固まりピクリとも動かなかった。呼吸すらしていないように見える。
部屋の中はしんと静まり返り、通りをゆく通行人の話し声や荷馬車が石畳を走ってゆく音が、いつも以上に大きく響いていた。
しかし、テオの耳には別のものが聞こえていた。実際には発せられていない声。過去の記憶の中の声だった。
*
揺れている。
壁が右に左に揺れ動き、一瞬も止まらない。
ぐるりと天井が回った。天と地がひっくり返る。
何もない空間に放り出されたような気がした。
なんだこれは? 建物が揺れているのか。
「どうしましたか?」
黒いローブの男が呼びかけてきた。
ああ、揺れているのは自分だ。自分の目が回っていたのだ。
頭と、背中がズキズキと痛んだ。
そうだった、壁に思い切り打ち付けられたのだった。
床に手をつき、よろよろと立ち上がる。
甲冑が擦れて、ガシャガシャと音をたてた。
「この先は北の尖塔ですよ。王后陛下のお許し無く、立ち入ることは禁じられています……」
男が下からにらみ上げている。
それがなんだ。オレはそこに用があるんだ。いや、あった。
左顔面がズキリと痛む。頭がくらくらとする。
まともに立っていられない。
「……左目を、どうかされましたか?」
ああ、そうだ。左目だ。左目を……。
男がニタリと笑っている。嫌な顔だ。
その目が脈動している。
瞳孔が拡張と収縮を繰り返し、白眼が茶色く濁っていた。
魔に憑かれた目だ。
この男は最早、人とは呼べぬものに変えられているのだ。
ローブの男はいやらしい笑みをたたえて槍を構えた。
変わり果てた姿だが見覚えがある。大臣の一人だったはずだ。
国王一家の生活全般を取り仕切っていたのではなかったか。
そっと腰に手をやり、剣を探った。
「えぐれていますねぇ……」
その言葉に、細く白い指を思い出す。
美しい指が頬に触れた。
それだけで動けなくなった。
その指は容赦なく、まぶたの奥に突き刺さった。
「痛いですかぁ……?」
ふざけるな。
気味の悪いその目を閉じろ!
剣を構えた。だが、体が斜めにかしいでいる。
ヒッヒッヒ、と男が嗤う。
しかし、突然その笑いは止まった。
「……こ、殺してくれ……」
男の目の脈動が止まていた。
「わ、私が……、私でいられるうちに……」
ぶるぶると槍を握る腕が震えている。まだ、元の意識が残っていたのか。
男と向かい合う。澄んだ瞳が必死に願っている。
ああ、お前はオレに殺せというのか。
魔となって生きるよりも、人として死にたいと。
苦しい。息ができない。
腰を落とし、剣を構えなおす。
苦しい。吐き気がこみ上げる。
ゆっくりと振り上げる。
苦しい。オレはお前を……。
「はあああぁぁぁ!!!!!」
全力で剣を振り下ろした。
男の黒いローブに真っ赤な線が斜めに走り、ザクリと裂けた肉が見えた。
彼はドスンと膝をついた。
ドクドクと溢れだした血が床を染る。
広がってゆく血溜まりの中に、彼はうつ伏せに倒れこむ。
そして動かなくなった。
剣を握り直すと、ゾクゾクと武者震いがおこった。
「……アンゲリキ……」
呟くと、またもゾクリと冷たいものが背骨を駆け上ってきた。
「アンゲリキーーーー!!」
ぷちんと何かが弾けた。
*
「何を繊細ぶってるんですかねぇ」
煙のようにフワフワと伸び縮みしながら、半透明のデュークが揺らめいている。ひょろひょろの体がますます細長く見える。チェストの上に置かれていた手鏡から、勝手に出てきたようだ。
「キヒヒ……」
いやらしい笑い声を上げた。
次第に精霊の姿がハッキリとした形を取り、床に足を着けた。
テオは椅子に腰掛け、前かがみにうなだれている。かなりの時間を要したが、いくらか持ちなおした。だが、まだ平常のように振る舞う気力は無いようだった。
デュークはその周りをコツコツと音を立ててゆっくりと回った。上品なスーツを着こなし、いつもあごをつまむような気取った仕草をする。
自分を見ようともしない主人に、嘲るように彼は語り続ける。
「忘れられないんでしょう? ああ、あの夜は実に素晴らしかった! ゾクゾクしましたよ。狂おしい激情、身を焼きつくすような憎悪、怨念、殺意、哀哭……美しい光景でした。たまらなく興奮したんでしょう? 下劣な悦びを感じたんでしょう? アレを忘れられるはずがない」
ふわりと浮かび上がり、テオの頭上から逆さになって彼をのぞきこんだ。
「……だまれ、クソッタレ……」
「クソッタレはお互い様。悔いたフリなんて辞めることですね。堕ちてしまえばいいんです。ヒヒヒ」
テオの手がサッと伸び、デュークの首を掴んだ。
空気がぴんと張り詰める。室温が一気に二、三度下がったような気さえした。
「殺すぞ」
精霊の背がゾクゾクと震えた。それは恐怖ではなかった。
彼の主人は、爪が白くなるほど指をめり込ませギリギリと締め上げた。そして、ドカンと彼を床に叩きつけた。
「おお! それでこそ我が主。その顔、魔王の顔だ。私は好きですよ。……滅しますか? 私を」
デュークは紫の瞳を大きく見開き、顔を歪めて嗤った。
ちぎれる程に締められても、からかうことを止めなかった。
テオはギリリと歯噛みする。
「……まだだ」
*
夕刻、金髪の美しい女が郊外の丘陵地帯を歩いていた。
ビオラだ。
町の喧騒を離れたこの場所で、ビオラは最後の人形を焼き払ったのだ。アインシルトに指示された通りの地点に、その人形はあった。念のため郊外にでて呪いの人形を無事に処分し、彼女はホッとしていた。
ビオラとジノスがそれぞれ処分した二体の人形は、人の多く集まる場所に仕掛けてあり、もしも呪いが発動していたら、とんでもない大惨事となっていただろう。
五つの人形が仕掛けられた五つの地点を線で結ぶと、インフィニード王国の大地に巨大な星の形が浮かび上がる。
中心に位置するのは、国王の住まう王宮だった。
「アンゲリキの魔法陣……王を消滅させようと狙っていた?」
ビオラはつぶやいた。
ひとまず、魔女の企みは退けることができただろう。魔法陣が完成する前に、それを阻止したのだから。しかし、これで本当に呪いを破ったのだろうか。ビオラは不安だった。
「アインシルト様は警戒を解いていらっしゃらないし、王宮を守る結界の要が、まだ揃っていないと嘆いていらした……。テオは協力してくれるのかしら」
空を仰いだ。
深い藍色が、西に向かって燃えるような赤に変わっていく。
真っ赤な太陽が沈んでいくところだった。まるで血が滴っているようだと、ビオラは思った。