25 呪いの人形1
翌朝、テオは猛烈な吐き気に襲われて、バスルームに駆け込んだ。
ニコが心配してドア越しに声を掛けるが、返事はない。苦しそうなうめき声が聞こえてくるだけだった。
「ほっときなさいよ。自業自得よ。飲み過ぎなの」
ベイブが白けた顔で冷たく言う。
「まあ、そうかもしれないけど。ねえベイブ、二日酔いって治せないの」
「治してあげない」
速攻、拒否した。
「だってテオったら、目が覚めてあたしの顔見るなり『ゲェー、気持ちわる!』って言ったのよ!」
「それはベイブのことじゃないでしょ……怒らないでよ、そんなことで」
ニコは肩をすくめてみせるも、ベイブにぷいと横を向かれてしまった。よくも毎日ケンカの種が見つかるものだと、返って感心してしまう。
それにしても、なんだってこんなになるまで飲んだのだろうとニコは首をひねる。レオニードの店で飲んで帰って来る時だって、少々ごきげんになる程度で二日酔いになどなった試しがない。
ベイブに何かあったのか尋ねると、そんなことあたしが知る訳ないじゃないと、返された。その通りだと、肩をすくめるニコだった。
ようやくバスルームから出てきたテオの顔はまだ青ざめていた。テーブルの上に立ったベイブは腰に手をあてて、彼に説教する。
「これに懲りて、お酒はほどほどにすることね」
「もう、金輪際二度と飲まない」
「うそ。明日になったら、また飲むわよ」
ベイブがクスリと笑うと、テーブルにあごを乗せてだらしなく座るテオも、ニヤリと笑い返した。
コンコンと玄関をノックする音が聞こえた。
ニコがドアを開けると、いつも薬草を買いに来る少女と、深刻な顔をした三十代半ばの男が立っていた。
「いらっしゃいませ、どんなご用件でしょう。おはよう、ジルはまた薬草だね?」
ニコは愛想よく男に会釈し、少女にたずねた。
ジルは微笑んで肯いた。彼女の後ろに立っていた男は驚いた顔をしている。
「君が、魔法使い?」
「え? いえ、僕は見習いでここの主人は奥に……」
ニコが振り返ると、いつの間にかテオはシャンと座っていた。
そうかと男はホッとしたように、苦笑いを浮かべた。そしてまた表情を曇らせた。
「とても困っていて、力になってもらいたいんだ」
早口で掠れた声で言う。切羽詰まった様子だった。
もう一度振り返ると、テオがうなずいていた。
ニコから薬草を受け取ったジルは、ちょっと名残惜しそうに部屋の中をのぞいた。彼女はどうやら薬草を買うついでに、男をここへ案内して来たようだ。
男が部屋の中に入って行くのを見て、この場に残りたそうな顔をしている。しかし、ぐっとこらえてニコに問いかけた。
「また今度、お話しに来てもいい?」
ジルに見つめられて、どぎまぎしながらニコは肯いた。すると彼女はニッコリと笑い、大きく手を振って帰っていった。あとで、この件がどうなったか根堀り葉掘り聞かれるのかな? とニコは困り顔に笑みを浮かべた。
男はテオに勧められて席についた。ゴブリンが珍しいのか、テーブルの端で足をぶらぶらとさせているベイブをチラチラと見ている。男はベルマンと名乗った。
「……お若いんですね。姪がすごい魔法使いだというんで、勝手に年寄りだと思ってました。いえ、失礼しました。若いとダメだっていってるんじゃないんです」
「いや。お気になさらず」
テオは、まだ気分が悪いようで、水をチビチビ飲みながらベルマンと向き合った。
「で、ご用件は?」
「……人形のことなんです。うちの四つになる息子が、えらく気に入っている人形があるんですが……それが……」
彼の話はこうだった。
一週間ほど前、息子が見慣れない人形で遊んでいるのに気づいた。妻もその人形に心当たりはないという。たずねると庭の花壇の中に落ちていたと答えた。
それは木彫りの人形で、派手な色彩で顔や衣服が描かれていた。目がぎょろりとしていて歯をむいて笑っておりなんだか薄気味悪く、お世辞にもかわいいと呼べる代物ではなかった。
しかし子どもはすっかり気に入った様子で、離そうとしない。そして一日、二日と経つうちに、子どもはまったく笑わなくなった。
いつも庭で飛び跳ねていたピクシーたちもいなくなり、ベルマンは心配になった。人形のせいのような気がして取り上げようとしたら、子どもが恐ろしい形相で噛みついてきたという。
彼の腕には、まだハッキリと歯型が残っていた。
不安にかられた夫婦は魔法使いに相談してみようと考え、アソーギに居る親戚つまりジルの家族に連絡を取りここを紹介されたという事だった。
テオは、じっくりとベルマンの話に耳を傾けていた。
「ところで、あなたのお宅はどちらに?」
「となり町のゴーグです」
「……ゴーグか」
テオは、ペンダントトップをこすりながら考えこんだ。
ややあって、ポケットから鏡を取り出した。
「その人形っていうのは、こんなのかな?」
鏡面を一なですると、不気味な人形が写しだされた。
ベルマンは立ち上がって叫んだ。
「そう! これです!」
「なら、急いだほうがいいな。今からあなたの家に行こう」
テオも立ち上がった。
ベルマンは不安げな顔で聞いた。
「なんで、その人形を知ってるんですか? ……やっぱり何か恐ろしいことに巻き込まれてるんでしょうか」
「……ま、とにかく行ってみるさ。話はそれからだ」
テオは青と黄色のローブに手を通す。本当に今すぐ行くつもりのようだ。慌てて、ニコも立ち上がった。
「お前たちは留守番だ。いいな」
「僕も行きたいです! テオさんの仕事を、もっと間近で見たいんです!」
「留守番だと言ってるだろう。さあ、ベルマンさん行きましょう」
ベルマンを促し、玄関へと向かった。
ニコはムスッとふくれた。ベイブがこっそり、ニコをつついてウインクする。
「黙って付いて行けばいいの」
ドキリとしてベイブを振り返り、そんなことをしていいのかとニコが迷っている間に、テオはドアを開けた。
片手をポケットに入れて、鏡をいじっているようだ。また、あの移動の魔法を使っているのだ。
ベルマンがドアの向こうの景色に驚いて、一瞬立ち止まる。テオはそっと彼の背を押して、向こう側に一歩足を踏み込んだ。
その瞬間、今よとベイブがどんとニコに体当たりした。そして、どっと二人がテオの背中に突っ込んでくる。
「おわあぁーー!?」
不意打ちを喰らって、テオは見事に顔面を床に打ちつけた。背中の上に、ニコとベイブが座っている。
ベルマンとその妻があっけにとられて、ぽかんと見ていた。そこは、ベルマンの家のリビングだった。突然、夫と妙な連中がどっと押し寄せてきて、妻は声も出せない。場を取り繕うように、ベルマンが妻に言った。
「あ、紹介するよ。魔法使いのシェーキーさんとそのお弟子さんだ」
「……ども、見習いのニコです」
「ベイブです」
二人はペコリとお辞儀をした。テオの背中の上で。
「早く降りろ! この間抜け!」
テオは鼻をさすりながら怒鳴る。どっちが間抜けだかわからない。
妻は、ぎろりと夫をにらんだ。
「大丈夫なの?」
ベルマンは腕を組んで、黙り込んだ。
*
ベルマンはゴーグの片田舎で牧場経営をしていた。広い牧草地で羊を育てている。周りを緑に囲まれた静かなこの場所で、今日まで親子三人で幸せに暮らしていた。
庭に案内されて出てみると、手入れの行き届いた花壇に美しい花が咲き乱れていた。その片隅で少年がぽつんと座っている。手にはあの人形を持ち、じっと見つめていた。全く表情がない。
「このごろずっとあんな調子なんです。話しかけても返事もしないし……」
母親は涙ぐんだ。頬が少しこけ隈もできている。子どもを心配するあまり、夜も眠れないのだろう。
少年を見つめるテオの口角がかすかに上がる。
「アンゲリキ……」
ベイブは一瞬、彼の目が冷たいガラス玉になってしまったように思った。
あのデュークの紫の瞳のように見えた。陽の光を浴びて紫水晶も怪しい光りを灯している。
魔法使いのつぶやきに、母親が不安げな顔をみせる。
「え?」
「いや、何も……。坊や、その人形を少し見せてくれるかな」
テオは少年に歩み寄った。返事はない。
膝をついて少年の肩に手を置くと、何事か呪文を唱える。と、少年がガッと大きく目を剥いて立ち上がった。その額をトンと指で突くと、テオの腕の中にがっくりと力なく倒れこんだ。
母親がかけ寄る。
「クリス!」
「大丈夫、眠らせただけだから」
テオは少年の手から人形を取り上げた。
触れた瞬間、ビビビと指先から腕、肩、そして脳天に冷たい電流が走った。
ピクリと頬が引きつる。奥歯を噛み締め、人形を握りしめた。
見た目よりもずっしりと重い。粗い彫刻、毒々しい彩色、悪意の固まりのように見えた。
ニコも人形を覗きこむ。その肩の上からベイブも、見下ろしていた。
「本当に、不気味な人形ですね……」
「コイツは、たちが悪い。坊やはコイツの毒気に当てられていたようだ。勝手に移動させられたり捨てられたりしないように、自分を見つけた人間の意識に取り憑いたようだ」
夫婦が青い顔を見合わせる。
「取り憑かれてたって……もう大丈夫なんですか?」
「これを処分してしまえば、どうということはない」
テオはニッコリと笑う。
そしてすぐに真顔になると、もう一度ぐっと人形を握った。
早く処分しなければならない。
と、再びバリバリと電流が走った。殴られたような衝撃だ。
テオの体がビクンと痙攣する。さっきとは比べ物にならない苦痛を堪えて、両手で人形を握りしめた。思わずギリリと爪を立てる。
すると凶々しい瘴気が、ブオオォォと人形から吹き上がってきた。
ざわりと、一気にテオの肌が粟立った。
そして、人形がカッと大きく目を見開き、口を開いた。
『十……』
地を這うような低い声。
人形が、喋った。
その場にいた全員が凍りついた。
人形は、いやらしい笑みまで浮べている。
十とは何なのか、ニコが考えあぐねていると、テオが叫んだ。
「まずい! カウントダウンだ! 呪いが発動した!」
人形を農場に向かって思い切り投げた。
くるくると回転しながら放物線を描いて、人形は草地へと飛んでゆく。
「逃げるんだ! 人形から遠ざかれ! ニコ、ベイブ! 来い!」
テオは少年を肩に担いで、人形とは反対の農道に向かって猛然と走りだす。
人形が牧草の中に落下した。
『九……』
ニコはベイブを背負ったまま、すぐに後を追った。
懸命に走った。
「デューク! その二人を頼む!」
ポケットから、するすると煙のようにデュークが滑りだしてきた。
軽く敬礼してニヤリと笑う。
『八……』
「どうなんているんだー!」
ベルマンが叫ぶ。
テオは柵につないであった馬に向かって走っていた。
到着するとすぐに、綱に手をかけた。
解けない。
引きちぎる。
『七……』
その背に飛び乗る。
そして追いついたニコを引っ張りあげ、馬の腹をけった。
馬はいななきをあげて、走りだす。
激しく土を跳ね上げ、まっしぐらに農道を駆けてゆく。
『六……』
デュークはベルマン夫妻を両脇に抱えて、浮かび上がった。
妻が悲鳴を上げている。
ベイブはニコの首にしがみつき、金切り声をあげた。
「なんなのよー!」
テオが何事かつぶやき、さらに馬の腹を蹴った。
馬の足がキラリと輝き、速度を上げる。
『五……』
「何がおこったんですか!」
「ゴーガシャーと同じ事が起こる! もっと前に詰めろ!」
ニコは顔をこわばらせ、疾走する馬のたてがみに、必死に捕まった。
テオはニコと自分の間に、少年を挟むように座らせて片腕で抱く。
『四……』
「早く離れないと生き物は全て消滅する!」
再び呪文を唱える。
ゴウウウ!
激しい追い風が吹いた。
テオのローブがまくり上がる。
馬の速度がさらにあがった。
『三……』
「なんで、あのドア使わないよー!」
ベイブが吹き飛ばされそうになりながら、怒鳴る。
「使えないんだ!」
怒鳴り返した。
デュークが二人の人間をつかみあげて、グングンと空高く飛び上がる。
『二……』
上空で、ベルマン夫妻が半狂乱になっている。
さらに上昇すると、妻は気を失った。
「疾走ってくれ!!」
テオが歯をむいて絶叫する。
髪が逆立つ。
風が唸る。
「もっと早く!」
馬上の四人に粟が立つ。
『一……』