24 月の夜の出来事
「夕食ですよ」
テオが自室に戻ってしばらくしてから、ニコは彼を呼びに行った。
ノックをし中に入ると、開いた窓のそばでテオが手紙を読んでいた。茶色いふくろうがその肩に止まっている。
手紙をヒラヒラさせて、ニタッと笑った。
「オレはいい。今から出かける。ビオラちゃんからお誘いの手紙だ」
「へ?」
ニコは目を丸くした。ビオラと言えば、今日アインシルトのところでテオを捕らえるために攻撃してきた、あの魔法使いの女性ではないのか。
テオはウキウキと、モスグリーンとオレンジのブロック柄のローブを羽織る。
「すぐに行くって、伝えておくれ」
囁きかけると、ふくろうはすぐさまバサバサと飛んでいった。
「あのぉ、ビオラって、アインシルト様と一緒にいた?」
「そうさ。他に誰がいる」
鏡に向かって髪をなで付けている。すこぶるごきげんだ。さっきまでむっつりと、顔を曇らせていたくせに。
「……また捕まっちゃたりしませんか?」
「大丈夫。アインシルトは関係ない。ビオラちゃんがプライベートでオレに会いたいんだそうだ」
やたらにプライベートを強調している。
テオが彼女の太ももに鼻の下を伸ばしていたの思い出すと、付け込まれてるんじゃないのかなあ、とニコは首を捻った。
大体、お茶に誘って速攻フラれてたくせに、向こうから誘ってくるなんておかしいとは思わないだろうか。
「美女からのお誘いは外せない。だろ?」
「…………はぁ……だったら、そのローブは着ない方がいいんじゃないかと思いますけど」
「どうして?」
無邪気に問いかけられると、ニコは返事ができなくなった。悪趣味がすぎるとは、口が避けても言えそうにない。
テオは、上機嫌でふんふんと鼻歌を歌いながら、階段を降りていった。
「や! ベイブ、出かけてくるよ」
満面の笑顔でピラピラと手を振り、あっという間に出て行った。
「何? アレ」
遅れて降りてきたニコに問いかけた。
「ビオラさんと会うんだって」
「はあ? あの金髪ムチムチ魔女と? なんかの罠じゃないの?」
「僕もちょっとそう思うよ。でも、舞い上がっちゃってるから、言ってもムダみたい」
「あきれたわね。男ってホント、バカ。アイツは特に」
「ははは……テオさん美人に弱いんだよ」
「ただのドスケベじゃない」
ベイブは口を尖らせて、フンと鼻を鳴らした。
妬いてるのかな。ニコは、ベイブに見つからないようにクスクスと笑った。
この日も、日付が変わってもテオは帰って来なかった。
*
完全に道を失ってしまった。
今自分がどこにいるのかまったく解らない。何者かの気配に気を取られているうちに、仲間とはぐれてしまった。ほんの数秒のことだったのに、白い霧の中に一人取り残されてしまっていた。
動揺が走る。
声を上げるが返答はない。こういう事態に陥った時のために、用意していた連絡用の魔法も何故か作動しない。必死に道を探したが、数歩先も見えぬ中では無謀な試みだった。焦れば焦るほど森の深みにはまっていくようだった。
ここは迷霧の森だ。
闇雲に歩きまわることは避けるべきだ。そう判断してから、もう何時間も経っている。もうすっかり日は暮れてしまっていた。
疲労の蓄積した体を、冷たい霧が取り囲む。
アインシルトの命を受けて霧迷の森の探査に来た魔法使いは、一人膝を抱えて寒さに震えながらひたすら夜が明けるのを待っていた。
一分一秒がとてつもなく永く感じられる。
老師から聞かされた黒い獣のことを考えると、ゾクリと冷たいものが背骨を突き抜けた。何人もの行方不明はその獣が原因なのだろう。
仲間とはぐれた時に感じた気配は、その獣のものかもしれないという疑念が彼を落ち着かせない。今もどこかから自分を見ているのではないかと、うそ寒い恐怖がまといつく。早く日が昇らないかと彼は焦れていた。
ガサリ。
突然、頭上で梢を大きく揺らす音がした。
一瞬で魔法使いが跳ねた。
風など吹いていない。まさかと息を飲む。恐る恐る、音のした方向を睨み上げる。黄色く光る、双眸がじっと彼を見つめていた。
これは悪い夢か。
*
ベイブは、目が冴えてなかなか寝付けないでいた。
昼間ひどい目にあったくせに、手紙一枚であんなに嬉しそうに出かけて行くテオの顔を思い出すとなんだかむしゃくしゃする。
別に彼が誰と会おうが恋しようが、自分には関係ない。でも、アインシルトと一緒に自分を捕まえた相手にホイホイ会いにいく、テオの気がしれないと呆れてしまうのだ。なんてバカなんだろうと、腹立たしく思う。
布団から飛び出し、ベイブは窓枠に腰掛けて月を眺めた。
「そうよ。あたしの知ったことじゃないわ」
声に出してつぶやくと、ベイブはなんだか寂しい気持ちになった。
知ったことじゃないのは、テオの方も同じだろうと思う。自分が眠れずにいようが寂しくなろうが、彼の関知するところではないのだ。
はあっと大きく息を吐き出した。窓枠にもたれて空を見上げる彼女を、月は変わらず煌々と照らしだしていた。
ギギーっと、ドアが開いた。
ドキッとして振り返る。大きな黒い人影があった。テオだ。
「はれぇぇ? まら起きてらの」
スットンキョウな声をあげた。
少々ろれつも回っていない。
「もひかして、オレの帰りを待っててくれた?」
「ただ、寝付けなかっただけよ」
テオは足元がおぼつかない。ヨロヨロと近づいてくる。
暗い部屋の中で顔はよく見えなかったが、かなり酔っているようだ。
「飲み過ぎなんじゃないの。お酒くさいわ」
「君も飲むかい?」
ベイブの言葉の意味が頭に届いていないらしい。
テオはフラフラと本棚の扉を開けると、ブランデーの瓶とグラスを取り出した。
「いらないわよ。あんたまだ飲む気なの?」
「そうさ」
ゆらりと本棚によりかかり、テオはグラスになみなみと注いだ。まるで水でも飲むように一気に飲み干してしまう。続けてまたブランデーを注ぐ。
ベイブは眉をしかめた。
「悪いお酒ね。体にもよくないわ」
「ニコには内緒だ」
グラスを掲げてウインクをする。二杯目もあっという間に、無くなってしまった。
ようやく人心地が付いたというように、テオはベッドに腰掛けた。サイドテーブルに瓶とグラスを置くと、ペンダントをいじりながらボウっと天井を見上げた。
美女と楽しいひとときを過ごしてきた割には冴えない顔をしている。
ベイブは、その様子を見ているうちにだんだん腹立たしくなってきた。
どうしたのか聞いたって、どうせはぐらかすに決まっている。聞くだけムダだと思うと、ふうっとため息がでた。
「眠れないなら、君も少し飲めばいい」
「結構よ」
テオは薄ぼんやりした笑いを浮かべた。そして、またブランデーに手を伸ばす。
ベイブは、窓枠からポンと飛ぶ降りるとブランデーの前に立ちふさがった。
「もう、やめなさい」
「なぜ? オレがオレの酒をどう飲もうが勝手さ。君に止める権利はない。余計なお世話だよ」
小さな彼女を押しやって、ブランデーの瓶を掴むとまた一杯ついだ。
ベイブはカッとして怒鳴った。
「甘えないで!」
テオの手の中のグラスを思い切り蹴りあげた。
琥珀色の液体が床に飛び散り、グラスはコロコロと転がっていった。
ああ、と残念そうな声を上げてテオはグラスを見送る。
「本当はとめて欲しいんでしょう!? これみよがしに無茶な飲み方して、気を引きたいだけじゃない。子どもみたい! どうしても飲みたいなら、誰も見ていないとこで飲むのね!」
「…………」
大きく目を見開いてベイブを見つめていた。口まであんぐりと開いている。そして頭をガリガリと掻いた。
「ああ、まったくだ。君の言うとおりだ。……もう止めるよ」
しょんぼりと答える。大きくため息をついてうなだれた。
ベイブは困惑した。甘えてなんかないと否定すると思ったのに、全面肯定されて、返って拍子抜けしてしまう。
すっかりしおれてしまったテオは、チャリチャリと音を鳴らして胸のペンダントをもてあそんでいる。
「どうしたのよ。何かあったの?」
聞かないでおこうと思ったのに、シュンと縮こまる姿につい声をかけてしまった。
ビオラにフラれたやけ酒なら、ざまぁみろだけどなんだかちょっと違う気もする。ベイブは、テオの顔をのぞき込んだ。どうせ返事は決まっているのだろう。
「何でもないさ……」
ほらやっぱり、とベイブは肩をすくめた。でも、このふさぎ込み様は、なんでもないようには見えない。
と、急にテオが大声を上げた。
「ああーーー! チキショウ。目が回る。おまけにベイブが二人いる! いや三人か? ……悪夢だ。こんなおせっかいなゴブリンが何人も増えたら、オレの居場所がなくなっちまう」
「何よそれ。この酔っぱらい!」
噛み付いてやろうかと近づくと、ふいにその腕に絡め取られてしまった。
テオはハハハと笑い、抱きしめて頬ずりをしてくる。
「うっそさー。かわいいベイブ。これからも、おせっかい焼いておくれ。ね。ね」
「や・め・て!」
ベイブは真っ赤になって、テオの顔を押しやる。
しかし、もがいても逃げられない。彼はお構いなしに、スリスリと何度も頬を擦りつけてきた。満足気にクスクス笑う小さな声が耳元で聞こえる。
なんだか小さな子が、お気にいりのぬいぐるみを離さいない時のようだなと、ベイブは思った。では、自分はテディベアという訳だ。これでは、怒る気にもなれない。
ふと、抱きしめる力が抜けた。見上げるとテオがとろりとした目で、自分を見つめている。
「……どうしたの?」
「あぁ、どうしたんだろう……。ダメだ。君がものすごい美人に見えるんだ」
テオはぼうっとした顔で、見つめ続けている。
艶やかな黒い髪。透き通った肌。潤んだグレーの瞳。そしてツンと尖った桜色の唇。
「君はこんな顔をしていたか? ……これは相当酔ってるな。うーん、末期的だ。……なんて綺麗なんだ、ベイブ……キスしても?」
テオの顔が近づいてくる。
「ばか! 何言ってんのよ、この酔っぱらい! いやー! 絶対だめー!」
耳まで赤くなった小さな四つ目のゴブリンは、思い切り叫んだ。
「ああ……フラれた」
バタリとテオはベッドに倒れ込んだ。そしてベイブをぎゅっと抱きしめたまま、寝息を立て始めた。
逃れようともがいていたベイブだったが、少しすると諦めてしまった。
テオの胸に耳を当てると、彼の鼓動が聞こえた。規則正しいその音を聞いていると、だんだん気持ちが穏やかになってきた。
窓から月あかりが柔らかく差し込んでいる。
その光に照らされたテオの寝顔は、ますます子どものように見えた。
「何よ、私をテディベアの代わりにして……。テオなんて、大嫌い……」
ベイブは悔しそうに微笑むと、目をつむった。
*
魔法使いは、もつれる足で必死に走った。が、暗闇の中では直ぐに木にぶつかり、根に足を取られ転倒してしまう。体の傷よりも、呼吸のままならない胸が苦しい。それでも立ち上がり駆け出す。
獣の足音が、つかず離れず背後に聞こえる。
今にも追いつかれると、恐慌をきたして無様な逃走を続ける魔法使いを、いたぶるように獣はいつまでも追走を続けているのだった。
魔法使いは目を血走らせ、喘ぐように息を吐く。心臓が破裂しそうだった。頭がズキズキと痛み、もはや一歩も足は動かない。
ガサリと、下生えの草が鳴る。
背中に獣の息がかかった。
ドクリと、大きく心臓がなる。
首筋に生暖かい涎液がしたたり、彼の発した絶叫は不意に途切れた。