23 隠された男
「ベイブ、もう突かないほうがいいよ」
「でも、テオは恐怖政治だって言ったけど、みんな自由に生活しているように見えるけど?」
ザーザーと勢い良く水の流れる音が聞こえてきた。テオがいつもより、派手にお湯を使っている。そのお陰で、小声の会話なら外に漏れる心配はないな、とニコは安心し話しはじめた。
「……うん。粛清はクーデター直後の一時期のことだし、恐怖政治っていうのとは違うかな。むしろ、常識的な政治が戻ってきた感じがするよ。前王の時に改悪された法律も元に戻されたしね。壊れた町の再建も進んでるし、なにより僕達一般市民は変わりなく暮らしている。……ただ、やっぱり正当に王位を継承したわけじゃないし、当時の冷酷さを知っているからみんな王様のことは恐れてるんだ。逆らえば、また処刑されたり、投獄されるんじゃないかって」
ニコは、一度だけ黒竜王を見たことがある。
漆黒の甲冑に身を包み、巨大なドラゴンの頭上で仁王立ちしたディオニスを見た。空を焼く紅蓮の炎と、鬼神の如く怒号し狂乱するディオニスを忘れることは出来ない。
ニコは身震いした。
「黒竜王ってどんな人なの?」
ベイブはテオにしたのと同じ質問を繰り返した。
「インフィニードの王子は一人だと聞いていたのに、もう一人いたなんて……。いきなり彼が現れて、クーデターを起こして王様になっちゃったんだもん。驚いたわ」
「そうだね、驚くよね。……それにしても、ゴブリンの国でも話題になったんだ」
ニコは、ほおおと驚嘆する。
ゴブリンも人間世界の動向には、気を払っているようだ。
「……まあね。大事件だったもの」
「僕も黒竜王のことは全然知らなかったよ。っていうか、知ってる人なんていたのかなあ? 王子なのに生まれた時から存在を隠されちゃうなんて、なんでだろう」
「クーデター起こしちゃうような危険人物だからでしょ?」
ぺろりと舌を出す。
「ベイブ、それじゃ理由を後付けしてるじゃないか」
はははと、ニコは笑った。でもある意味その通りなのかもしれないとも思った。
クーデターは予測し得なかったとしても、何かしら災いをもたらす者として世間から隠されていたのかもしれない。
黒竜王ことディオニスは、父王に疎んじられていたのか、その人格又は能力に問題があったのか定かではないが、嫡男であるにも関わらず皇太子にすえられることは無く、要職につけられることも無かった。公の場に出ることも皆無で、国民の多くはその存在を知らなかったのだ。
ディオニスを産んだ后は、若くして病死している。その死後、国王は新しい后を迎え第二王子が生まれると、その五歳の誕生日に幼い王子を当然のように皇太子に据えた。それは、黒竜王の乱の二年前のことだった。
ディオニスの存在は完全に無視されていたのだ。
「王の子供が世間から隠される理由……そうねえ、まずひとつは不義の子説。ふふふ、あるかもよー。それから何かの病気や障がいを持っている説。まあ、とんでもなく大暴れしたらしいから、これはなさそうね。それと、迷信説も有りかも」
「迷信?」
「そう。生まれた日が悪いとか、占いの結果が悪かったとか、予言とか双子とかいろいろあるじゃない。迷信がもとで、忌み嫌われる」
「そんなの昔の話だろ? 今は信じてる人なんていないと思うよ。」
「そうでもないわよ。古くから続く名家なんかでは、家訓と称した迷信が今も生きてる。廃嫡なんてまだ良いほうよ」
「っていうと?」
「生まれてすぐに殺されたり……」
「え……」
なんだが、モヤモヤと胸の辺りが気持ち悪くなるのを感じた。
馬鹿げた迷信が、一人の人間の人生を狂わせてしまうなんて恐ろしい話だ。
「でも、私は不義の子説を推すわ! だって、面白いじゃない? ドキドキしちゃうわ!」
ベイブは何故か自信たっぷりだった。力強く言い放つ。
「お妃に浮気されちゃって、王様は腹がたったのよ! 自分の子だと信じられなくて、お城の奥に閉じ込めちゃったのよ」
「…………」
それはどうかと思ったが、否定する材料をニコが持っているわけもなく、力なく頷くのみだった。なんで女性はゴシップ好きなんだろうと苦笑する。
「だから愛されずに育った子どもは、大人になって凶暴化したの」
愛されずに育った子ども……それはそうかもしれない、と思った。
あの夜の怒り狂うディオニスの姿は、愛という言葉とは無縁に見えた。
「確かに恐ろしげな人だよね。……でも黒竜王がいなかったら今頃、この国は魔女に支配されていただろうし、やり方はどうあれ、国を守ったことには違いないんだろうな。一概に非難できないのはその為だよ」
ニコは、やるせなく笑みをつくった。
ディオニスが決起する二年前には、すでに前王ヴァシリスは魔女に魅入られ、操られていたと思われる。ヴァシリスは人が変わったように自堕落な浪費を初め、怪しげな魔法使いを幾人も召抱えて政治を任せ、放蕩三昧の日々をおくるようになっていた。
それまで、ディオニスに対する冷酷を除けば、良き為政者として高く支持されていたものが、その評価は百八十度変わってしまったのだ。
第二王子を皇太子に据えたのも、魔女の使嗾によるものかも知れない。
王の無気力を良いことに、魔女の息のかかった廷臣や魔法使い達は権力を自由に振りかざした。彼らは欲望の為に法を変え、国民から搾取した利益を貪った。それは国を傾けるほどの事態となっていった。
それに業を煮やしたのか、ディオニスは突然と反旗を翻したのだ。影の存在であった彼が、この国の歴史の表舞台に飛び出してきた瞬間だった。
しかし、ディオニスは魔に支配された王と魔女アンゲリキから純粋に国を守ろうとしたのか、冷遇に対する恨みを晴らそうとしたのか、彼の真意は今もって解らないままだ。
魔女に対抗したのは事実だが、父や弟である幼い皇太子をも手にかけた理由の説明がつかなかったからだ。
今もって、件についてディオニスは沈黙を守っている。
「国を守った……か」
ベイブは小声でつぶやいた。
「でも、国民には英雄視されてないわね。むしろ、その反対かしら?」
「……うーん。それは少し言いすぎかも。王を支持する人は結構いるらしいよ。ただ、このアソーギで人気が無いのは確かだけど」
「親殺しの大罪を犯し町を焼いたから?」
「そうだね、多くの人死にを出したから……」
ニコは目を伏せてふうと大きく息を吐いた。
ドラゴンと王の姿が、また目の前に現れてきた。なぜ彼はあそこまでしなければならなかったのだろう。
「あの夜、僕の両親も死んだんだ」
うつむくニコの手をベイブが優しく握った。
「テオさんが僕を助けてくれたんだ。一人ぼっちになった僕を保護施設に連れていってくれた。ううん、そんなことより、大丈夫って言って抱きしめてくれたから、僕は救われたんだ。大きくて暖かい手が父さんや母さんみたいで……。何を考えてるのかよくわからないところもあるけど、本当はとても優しい人なんだ。あの日、焼けた町を見ながら……泣いていたんだ」
「そう」
ベイブは、静かにニコに寄り添った。
自分は知らないその光景を、ベイブには鮮やかに想像することができた。
テオがくしゃくしゃとニコの髪をかき回すようにして撫でている。そして幼い彼を抱きしめながら、自分も涙をこぼす。そして、焦げ臭い匂いが立ち込める中を静かに二人は歩いていったのだと。
ニコの言うように、ディオニスの即位後、新政府は王はインフィーニードを守ったのだと盛んに喧伝した。その効果もあって、クーデターについても好意的な解釈がなされるようにもなった。
が、アンゲリキの悪行は彼が王位を奪取するための格好の口実であったのだと、密かにささやく者は今もって存在している。町を焼かれ肉親を失った市民は多い。彼を憎み恐れている者は、決して少なくなかった。
「テオも、王を憎んでいるの?」
「……分からないけど、そうなのかも。あんな風に言うくらいだからね。僕だって本当の事を言えば……嫌いだ」
ニコがそうつぶやいた時、バスルームのドアが開きテオが出てきた。
濡れた髪をバサバサとふきながら二人をちらりと見ると、黙って二階に上がっていった。
ベイブは彼を見送りドアの閉まる音を聞いた後、つぶやいた。
「黒竜王か……一度見てみたいわ」
テオはベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。
ペンダントを握り締める。
「弱み……か」
天井をぼんやりと見つめる。
「僕だって本当の事を言えば、嫌いだ」
今しがた聞いたニコの言葉を静かに繰り返した。