表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
147/148

バラの咲く庭で 第三話 テオ

 テオは庭をゆっくりと歩きまわり、中央あたりにあるバラのアーチの前で立ち止まった。可憐な薄橙の小バラが咲き乱れるそのアーチを背に、二人掛けのベンチが置いてある。テオはそこに腰掛け庭を眺めた。


 ここからなら、丘の下に広がる港町の景色とそこから続く広い海がよく見える。折よくバラも盛りで、天気もいい。久しぶりの屋外での昼食にはもってこいだ。

 このベンチの前にテーブルと椅子を置けば、海の景色も庭も楽しめて丁度いい。


 ニコとの約束の時間までにはまだ一時間程あるが、そろそろテーブルを運んでおこう。

 今朝、彼の部屋を訪問というか不法侵入した時に、絶対に遅れるなよと念を押しておいた。すると、即座に時間を守らないのはあなたでしょう、と切り返されたのは若干不本意だったが、あの調子なら必ず少し早め来ることだろう。

 テオはニッと笑みを浮かべる。

 遅れるのは論外だが、早めであろうとも丁度に来なければ、時間を守っているとは言えないぞ、と意趣返しする気満々だった。




 自分と並ぶ程にニコの背が伸び、年々少年ぽさが薄れてゆくことに、テオは感慨を深くする。

 出会ったころは本当に小さな少年だった。それが今はもう一人前の男として、この国未来のために働いているのだ。

 あの日、両親を失くして呆然とする彼を放って置けなくて、孤児の収容施設へと連れて行ってやった。彼の為にしてやれることはそれくらいしかなかった。

 だが、ニコはたったそれだけのことに恩義を感じて、自分を慕いずっと側にいてくれた。孤独な心を救ったのは自分ではなく、むしろニコの方だと思う。あの日救われたのは自分だったと、テオは思うのだった。


 彼に手を差し伸べたのは、多くの孤児を生み出してしまった罪悪感からだったし、この程度で罪滅ぼしになるはずもないのに、偽善行為で現実から目を逸らそうとしていただけだった。それでも彼は、何の打算もなく慕い続けてくれたのだ。

 本当の強さだとか優しさは、ニコが見せてくれたものだった。


 だから、ニコにならベイブを託せると思った。

 ニコにどうしても彼女を守ると確約してもらいたかった。無論、自分が頼まずとも彼がベイブを放って置くなどないだろうが、言葉で確認しておきたいという最後の我がままだった。

 他に心から信じ、頼れる者はいないのだから。


 例えば、彼女の兄ならばどうか。

 妹に困難が降りかかるとなれば、確かにフィリップは万難排して彼女と子どもたちを守ろうとするだろう。しかしそれは、ミリアルド王家の庇護下に入ることであり、そうなれば子どもたちの出自について伏せることも難しくなるはずだ。

 そして、折角市井に降りたというのに、王政復古の一派に子どもたちが利用される事態も起きかねない。いくら彼らが少数派で可能性は低いとあっても、ゼロではないのだ。

 既に時勢は変わり自分は旧態となった。再びディオニスの名が表立っては国の乱れの元になるだけであろうし、自分たちはごく普通の民草として生きていくことを望んでいるのだから。


 では、アインシルトならどうか。

 彼ならば信頼できるし、いずれリタの魔法の師になってもらいたいところではある。だがいかんせん、年寄りだ。妖怪じみてまだまだ死にそうにないが、それでもベイブより長生きするとは思えない。


 リッケンは堅物すぎる、シュミットは辛気臭い。ジノス……論外だ、彼女に近づこうものならぶっ殺してやりたくなる。


 要するにニコしかいないのだ。いや、ニコがいいのだ。ニコでなければだめなのだ。

 ただ、今朝の話はまずかった。ニコの恋情を知りながら、それに付けこんだことを後悔している。彼の言う通り、我ながら酷いやり口だった。

 それに、再婚などと口にしたのは更に悪手だった。余計に彼の思いを控えさせてしまった。本音だったが、だからこそ言うべきでは無かったのだ。


 自分よりも、ニコの方が彼女と似合いなのではないかと思っている。ニコの方が幸せにできるのではないかと思っている。

 これは嫉妬だろうか。

 意地の悪いことを言ってしまったのは、自分が中途退場しなければならない悔しさのせいだろうか。

 自分勝手な感情で彼を傷つけた。

 それなのにニコは……。


――そんな辛さ……テオさんが、テオさんがいなくなることに比べたら……


 ニコの言葉が、泣きたくなるほど嬉しくてたまらなかった。

 自分がここまでバカで欲深いとは知らなかった。

 

 本当は謝ろうと思ったのに、出てきた言葉は「ありがとう」だけだった。

 そんな自分を、ニコはまた笑って許してくれた。

 やはり本当に強くて優しいのは、ニコだと思う。


「……オレが女だったら、絶対惚れてるな……うん」


 真顔で呟いてから、プッと吹き出した。

 さわさわと吹く風が、物憂い気分をそっと掃いてゆく。

 さてと膝を叩いて立ち上がり、テオはテーブルと運びに家へと戻っていった。









 テーブルをどんと置き、さて次は椅子を運ぼうと玄関を見ると、ユリアンが顔を真っ赤にして椅子を抱えていた。

 懸命に運んでくる息子に微笑み、テオは近づいていった。


「パパ! 僕も手伝うね!」

「助かるよ。でも無理すんなよ?」

「大丈夫だよ、これくらい」


 ユリアンは元気よく答えたものの、よろよろと足元は振らいついている。

 テオはハハハっと笑って立ち止まる。息子から椅子を受け取ろうと思っていたが、やめた。彼に任せよう。


「じゃあテーブルまで運んでくれ」

「うん!」


 嬉しそうに答えるユリアンの後ろから、チョコチョコと歩いてきたリタが顔をだした。そして椅子を運ぶ兄を珍しそうに眺めながら、くるくると周り歩き始める。


「もう、リタどいてよ! 邪魔だよぉ!」


 兄に怒鳴られても、リタは一向に離れようとせず、むしろまとわりついてゆく。

 あぁあとテオはため息をつき、リタに注意する。


「リタ、ダメだ。離れるんだ。今兄ちゃんは椅子を運んでるんだから」

「や! リタもいしゅもちゅのんよー」

「あっち行けって!!」


 イラついたユリアンが大きな声を上げると、口を尖らせたリタが椅子の足をぐいと引っ張った。

 途端に兄の身体がバランスを崩す。そして椅子の重みを支えきれず、手を放してしまった。落下してゆく先には小さなリタ。

 テオは息を飲み、矢のように駆け出した。


「リターー!」


 椅子はリタの頭に当たる直前に、ぴたりと動きを止めていた。そしてそのまま空中に浮かんでいる。


「何やってるんだ! 危ないじゃないか!」


 思わず大声で怒鳴りつけ、彼女を抱き上げた。

 少々のいたずらなら、いつも大目に見てやるしきつく叱ることもない。まして怒鳴ることなどなかった。だが今のような、ケガにつながる事は決して見逃すわけにはいかなかった。

 父に怒鳴られて驚いたリタは、目をまん丸にして表情を失くしている。しかし、カッと頭に血が上ったテオはまだ怒鳴り続けた。


「椅子を引っ張っただろう! ダメだ、あんなことしちゃ。ケガするところだったんだぞ!」

「……ふ、ふえ……」

「いいか、リタ! パパやママ、兄ちゃんがダメだって言ったら絶対ダメなんだ! ちゃんということを聞け!いいな!」

「いひゃぁぁぁ」

「イヤじゃない! ハイだ!!」

「ひゃ、ひゃいぃぃ……ふえ……ふえええええーーーん!!」


 ついに堪えきれなくなったリタが大声で泣き始めた。

 テオは、娘をぎゅっと抱きしめてようやく肩の力を抜いた。

 ユリアンがポカンと口を開けて見上げている。彼も怒鳴る父を見て、随分と驚いているようだった。それに、自分が叱られたわけでもないのに、なぜだか目にうっすらと涙さえ浮かべているのだ。


「びっくりしたのか?」

「……うん。それに……手を離しちゃって……ごめんなさい」

「今のは仕方ない。気にしなくていい」

「はい」


 片手でリタを抱いたまま、ユリアンの頭を撫でてやった。

 テオが兄を慰めるのを聞いて、リタは張り合う様に泣き喚く。まるで自分は悪くないと主張しているかのようだ。


「びえええええええええええんん!!!」


 テオの肩を両手で押す様にしてそっくりかえるものだから、落とすまいとテオは慌てて抱きかかえた。 

 盛大に泣きわめくリタを宥めながら、指をパチンと鳴らすと、椅子はすとんと地面着地した。


 リタはただ椅子を引っ張っただけではなかった。浮遊の魔法で兄から椅子を奪い、自分が運ぼうとしていたのだ。しかも、彼女の咄嗟の魔法は上手く発動せず、椅子が大暴れしそうになるのを、テオが止めたのだ。放っておいたら、子どもたちが大怪我をしていたことだろう。


 はあ、とテオは大きくため息をつく。魔法を使うなと言っても聞かないし、彼女はいつの間にか勝手に新しい魔法を使えるようになっている。才能は認めるが厄介なことだった。

 それにしても、今のは少しきつく言い過ぎたかなと後悔したのだか、テオはすぐに撤回することにした。


「でおの、ぶあぁがぁぁぁ!!!」


 リタはテオにしがみつきながら、悪態をついていた。こいつは厳しく躾けないと大変なことになる、と心底思った。


「まったくこいつは、誰に似たんだ…………」


 なんでもやりたがるが自分の思い通りにできないとすぐに機嫌が悪くなって、素直にごめんなさいが言えなくて、叱られると余計に天邪鬼になって……。

 アインシルトが、子どものころの自分をそう評していたなと、ふと思い出す。


「……やっぱ、オレか」


 ブツブツとこぼしていると、ベイブが慌てて家から飛び出してきた。


「ちょっと! 一体なんの騒ぎなの!?」

「おいベイブ走るなよ。転んだらどうする」

「大声出してどうしたのよ?!」

「……リタだよ、例によってやらかしてくれた」


 テオは肩をすくめてリタをベイブの腕に渡した。母の声を聴いた途端、彼女はテオに蹴りを入れて向こうに行くんだと暴れ出していたのだ。

 そして、ベイブに抱かれると急におとなしくなるのだった。

 テオの頬が思わずひきつる。どんなに頑張っても父親なんてこんなもんかと、情けない気分だ。リタを叱る回数が多いのも厳しいのもベイブの方だというのに、この扱いはなんだと思ってしまう。


「……また、魔法を?」

「ああ、困ったもんだ」

「ぶえええ!! でおがおごっだのんよーー!」


 ベイブは、こら、止めなさいと彼女を叱りながら家に戻ってゆく。

 その後ろ姿を眺めながら、がっくりと肩を落とす。あれは絶対に反省していないなと確信するのだった。


 何を怒られたかは分かっているだろうが、なぜいけないかは分かっていないのだろう。

 魔法の使い方、魔力の抑え方をきっちり教えなければならない。アインシルトのところに通わせることを、そろそろ真剣に考える時がきたようだ。


 と、小さな温かい手がテオの小指をそっとつかんできた。

 ユリアンが見上げている。そしてにっこりと微笑みかけてくる。


「パパの魔法すごいね!」


 さっき椅子を止めたことだろうか。

 そんな些細なことを褒められるとは思わなかった。キラキラと光る瞳に見つめられて、テオの胸がジンと熱くなる。

 ああ、なんて可愛いんだろうと、心から思う。……いや、リタが可愛くないわけでは決してない。断じてない。二人には別種の可愛らしさがあるのだから。

 とはいえ、素直に慕ってくれると嬉しくてたまらなくなる。だらしなく目じりを下げてしまうのだった。

 テオは息子の肩を引き寄せた。そして不格好に肩を組んで、ニッと笑う。


「椅子、運ぼうか」

「うん!」






 テーブルクロスを広げ花を飾り、セッティングを終了すると、テオは椅子に腰かけた。

 子どもたちは家の中に戻り、彼は一人静かに海を眺める。


 なだらかな坂の下のこじんまりとした港町と、穏やかに凪ぐ海の景色。子どものころオルガを訪ねてここに来た時は、なんてつまらない町だろうと思ったものだ。毎日が同じことの繰り返しで、華やかさの欠片もなく、心騒ぐような出来事もない、しみったれた町だと思っていた。

 それが今は、故郷に帰ってきたかのような安らぎを与えてくれる。懐かしいオルガの微笑みに、いつも包まれているように思える。


 この場所を選んでよかった。ベイブもここを気に入ってくれたのが、テオには本当に嬉しかった。

 元王女のベイブを、こんな田舎町に連れてきて大丈夫なのかとアインシルトは心配していた。だが、ゴブリンとしてブロンズ通りでの生活を乗り切った彼女だ、老人の心配は杞憂におわった。彼女はシェーキー魔法店の女主人として町の人々にすっかりなじんでいるのだ。


 そう、店の主はベイブなのだ。

 当初はもちろんテオが店をきりもりするつもりだったのだ。で、手始めに新しい魔法使いが町にきたぞと宣伝を始めた。だが、あまり相手にされず客が全くこない日々が続いたのだった。

 ブロンズ通りの頃なら、客が来ずとも全く気にも留めなかったが、妻とやがてうまれてくる子どものことを思うとそうも言っていられない。喰いぶちに困って双方の実家・・を頼る、なんて真似は絶対にできないのだ。


 少々焦りはじめたテオが、この町でもで有名だったオルガの名前を出すと、途端にわんさか客が集まった。悪い予感がした。そしてその予想通り、彼ら求めていたものは治癒魔法だったのだ。

 こうなるとテオに出番はない。今ではおとなしく部屋の隅でのお札作りに励み、時折くる迷いペットの捜索や落とし物探しの依頼を受けるくらいしかやることがなかった。

 いつしか、店の主人はベイブにとって代わられていたのだった。


 くすりとテオは笑う。

 まるでヒモだなと思うものの、彼女が早々に町の人々に受け入れられたことは幸運だったと思う。自分がいなくなった後の心配が一つ減ったのだから、甲斐性のない旦那だと笑われてもどうってことはなかった。つつましやかに暮らしていければ、それでいいのだから。


 思い出の残る家とバラの咲く庭、ここで妻と子どもたちに囲まれて暮らす。これ以上の幸せはないと思う。だから多くを望みすぎてはいけない。欲を出せば、不満も出る。それは幸せが薄れるだけで、何の益もないように思うのだ。

 それなのに昨夜は……と、テオは苦い笑みを浮かべる。


 もっと生きていたい。


 それは偽らざる思いだった。彼らとともに、もっと生きていたいのだ。死にたくないのだ。

 自らが選択したことでありながら、浅ましくも生き続けたいと願ってしまう。願ったところで叶いはしないことも、よく分かっている。そして、生きたいと望めば望むほど苦しくなって、幸せから目が逸れてしまうことも分かっているのに、とうとう口に出してしまった。


 そしてそれをベイブに見られてしまった。

 また彼女を泣かせてしまった――――。





 ごめんな、ベイブ。それから、約束してくれてありがとう。

 君に泣かれると、オレは苦しくてたまらなくなるから、できればずっと笑っていてくれないかな。


 でも一つ白状すると、本当は嬉しかったんだ。君がオレの為に泣いてるんだと思うと、ゾクゾクしたんだ。だって君をあんな風に泣かせられるのは、オレだけだろう?

 ああ、君のおかげかな、今日はすごく気分がいいんだ。こういうのを羽が生えたようっていうのか、身体も軽いいし頭もすっきりとしている。

 君は朝まで眠れなかっただろうに、オレだけ気分爽快だなんて、なんというか……ごめん。


 ベイブ……。


 なんで君なんだろう。なんで君に惹かれたんだろう。

 四つ目の醜いゴブリンだったっていうのに。余りにヘンテコで、物珍しかったからかな、なんて言ったらまた殴るかい。

 でも多分、ゴブリンだったからっていうのは、ある意味本当だと思う。ヴァレリアとしての君と出会っていたら、今オレたちはこうしていなかったと思うんだ。


 呪いをかけられていたのに、君の目はいつも生き生きしてて、へこたれなくて、何だかいい匂いがしてて、太陽みたいに笑っていた。見た目とのギャップが大き過ぎて、面白くて飽きなかったよ。

 それに胸の中は不安でいっぱいなくせに、助けてとは一度も言わなかった。芯の強いヤツなんだって、すぐに分かった。

 君の何もかもが好ましいと思った。


 素顔も事情も何も知らないのに、何もかもなんていうのは変な話だよな。でもオレの目に映る君が、オレにとっては全てだったから。ゴブリンであることさえ、好ましかった。

 きっと、君が君でありさえすれば、姿なんてなんでも良かったんだ。


 そりゃ、人間であるとこに越したことはないし、そのおかげで子どもたちが生まれたんだから、ゴブリンのままでいて欲しかったなんて言わないけどね。チビのゴブリンとじゃ、子づくりは物理的に不可能で生き地獄に……止めとこう、これを言って殴られたんだった。

 でも、スケベ心の為だけに呪いを解いたんじゃない、ってのは分かってくれてる……よな?


 覚えてるか? オレが黒竜王として初めて君の前に立った時「私のテオを返して」って叫んだこと。

 あれはゾクゾクしたよ。驚いたし、嬉しいというかなんというか、怖かった。あんなふうに告白されるなんて普通ないもんな。

 オレなんか誰にも愛されない、っていじけ根性の塊だったから、あれは衝撃的だった。

 もうあの時、君に心を持っていかれてたんだ。


 君に出会えて本当に良かった。





 テオは目を細めて海を眺めながら小さく笑った。


「何を急に感傷に浸ってるんだ、オレは……」


 自嘲した後に、気持ちを切り替えるように勢いよく立ち上がる。

 すると、不意に強い立ちくらみを覚えた。


 グラリと視界が揺れ身体が傾いだ。いきなり脚が萎えて倒れそうになり、慌ててテーブルにつかまる。だが立つことは叶わず、ドスンと椅子に引き戻されていた。

 一体なんだと思う間もなく、次の瞬間には更に驚くべきことが起きていた。


 身体の前面に強烈な風の圧力を感じていた。テオはものすごい勢いで、上空に吸い上げられていたのだ。

 雲を突き抜けてどんどんと、昇ってゆく。視界一面に真っ青な空しか見えない。

 このまま空の青に溶けてゆくような気がした。


「待ってくれ!」


 テオは思い切り叫んでいた。だか、その声は広い空に拡散してゆくだけだ。もとより、誰に何を待ってくれというのか。


「ベイブ!」


 もう一度だけ、彼女の顔が見たい。子どもたちを見たい。

 テオは懸命に身体を捻り、下方に目を向ける。だが靄でかすみ、何も見えない。それでもかすむ視界の中に、必死に我が家を、家族の姿を求めた。

 すると、映写機が映し出す映像のように、靄に住み慣れた家が写しだされた。上昇は止まっていた。

 テオは、ほっと息をつき手を伸ばす。無論届くはずもないが、そうせずにはいられなかった。


 これでもう彼らとお別れなのだろうか。これが死なのだろうか。

 恐ろしさは欠片もなかったが、無性に寂しくてならなかった。

 家の中が見たいと、映像に近づこうとテオはもがいた。すると望みは叶い、徐々に家がズームアップしてくる。


 そして、玄関が開いた。長めのゆったりとしたスカートが揺れ、愛しい女性が出てくる。続いて、二人の子どもたち。

 テオの目にじんわりと、涙がにじんだ。彼らを見つめながら逝けるのなら、もう何も言うことはなかった。

 と、もう一人誰かが出てきた。くるぶしまで届く長いローブを着た男、それはテオ(・・)だった。


「オレが?」


 テオは目を瞬いた。次の瞬間、映像は、キュルキュルと早回しになる。

 子どもたちは庭を走り回り、テオ(・・)とベイブがおいかける。きれいに広げたテーブルクロスをリタがくしゃりと歪め、ユリアンが椅子の上で飛び跳ねる。

 その光景は更に早回しなり、テオ(・・)が逃げ回る子ども達をようやく捕まえ、両脇に抱えて玄関の前に移動してきたところで、映像は通常に戻った。

 ローブを着たテオ(・・)は家の前でベイブの肩を抱き、リタを肩車しユリアンと手を握っている。何事か語り合い笑いあっているのだ。


「これは、なんだ……」


 こんな出来事は記憶になかった。あのテーブルクロスは、ついさっき自分が広げだものだ。だが、子どもたちと追いかけっこなどしてはいない。

 これは、願望が見せた幻だろうか。不思議な気分で、テオは家族とともにいるもう一人の自分を観察した。

 は、そっとリタを下ろすと手を振った。微笑みながら、丘の麓の何かを見ている。

 テオがその視線の先を探ろうとした時、は不意に背を丸め、胸を掻きむしった。


――きたのか?!


 テオの頭の中に、の声が響いた。

 はドスンと膝から崩れ落ち、仰け反るように倒れてゆく。それを、ベイブが慌てて支えた。


『テオ?! テオ!』

『パパ、どうしたの?』

『ておー?』

『いや! 待って! まだダメよ、テオォ!』


 ベイブの悲鳴。そして映像がズームする。

 食い入るように、テオはそれに見いった。ドキドキと鼓動が早まる。

 血の気を失ったの顔をじっと見据え、そして今の自分はまだ(・・)死んでいないことを悟った。


 の心臓が止まった。はぁっと、唇から大量の呼気がもれる。


――ああ、早く伝えないと…


 再び、声が頭に響く。そうだな、早く伝えた方がいいとテオは頷く。


――なんて幸せなんだろう。君の腕に抱かれて、見守られて……みんな側にいてくれて……


 多幸感に酔いしれる声。はもう息ができない。肺に僅かに残っていた空気に、言葉を乗せて懸命に吐き出す。


『ベイ……ブ…………笑っ……て』

――愛してる。


 後半は声にならず、唇の動きだけだった。


――幸せだ。


『テオ……』


 彼女の声は悲痛だった。たが、薄れゆく意識の中で、は確かに彼女の微笑みを見たはずだ。

 テオが愛した明るく輝くような笑みでは無かったが、慈愛に満ちた笑みだったことだろう。

 動かなくなったの頬を、ベイブの涙が濡らした。


『…………あ、安心して、テオ……。私、絶対にまたちゃんと笑えるようになるから……約束守るから……だから、今は泣かせてね……』









 トントンと肩を叩かれ、テオは我に返りバッと顔を上げた。

 天地がひっくり返るようなひどいめまいを感じた。身体がぐらりと揺れるのを誰かに支えられ、ようやく自分が椅子に座っていることに気が付いた。すぐ目の前にテーブルクロスの布地が見える。いつの間にか、テーブルに突っ伏していたらしい。

 ヒュウと風が髪を撫でてゆくと、首筋がひんやりとした。じっとりと全身に汗をかいていた。

 動悸がする胸を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。


「どうしますぅ? まあ予測未来はだいたいこんな感じですけど」


 隣に座ったデュークが、気だるげに頬杖をついてテオを見ていた。

 まだ少しくらくらとめまいがしていたが、テオは状況をすぐに把握した。


「お前の仕業か……」

「ご感想は?」


 ぶっきらぼうな質問に、テオは苦笑を浮かべた。

 いきなり脅かしやがってこのやろうと思ったが、たいして怒りは無かった。それにしても、自分の死に顔を見せられて、感想を求められるとは思わなかった。

 デュークが何をしたいのかさっぱり分からなかったが、余計なことをしてくれたとは思わない。ベイブに見せる最後の顔が、穏やかなものだと分かって安心できたのだから。


「……そうだな、あっさり逝ったな」

「ですね」

「拍子抜けするくらい、あっけなかった」

「意外でしたか?」

「ああ」


 どういう死に方をするかなど分かりはしなかったが、それでももっと苦しんで死ぬものとばかり思っていた。

 だから、できれば誰も見ていないときに死ねたらいいと思っていたのだ。自分が苦しんでいるところを、ベイブにも子どもたちにも見せたくはなかった。


「両手足もがれて、頭潰されて死ぬ方がお好みですか?」

「……あのなあ。でも、そのくらいの苦痛は与えられるのかと思ってたよ。あのドラゴンのすることだからな」

「彼は死を与えた訳ではありません。あなたが差し出した命を受け取っただけですよ。だから、ろうそくが自然に燃え尽きるように、あなたも……」

「なるほどね」


 テオはふっと笑った。そういうものかと納得した。

 だが、黒龍王がこんな安らかに逝っていいのだろうかとも思う。


「いいんですよ。苦しもうが安らかだろうが、インフィニード国民には関係ないし分かりゃしないんですから」

「おい、オレの頭の中をのぞいてるだろう。やめろ」

「そんな技もってませんよ。あなた、顔に出やすいんです」


 デュークはぷいと目を逸らし、物憂いため息をついた。

 テオは、この精霊にしては珍しい態度に目を丸くしていた。この五年で、こいつも随分変わったもんだなと感心した。


「私はお邪魔でしょうから、もう退散させて頂きますよ。……最後に……気の利いたセリフの一つでも遺してみますか? そのくらいの時間はあるでしょうから」


 未来を見たいかと問われれば断っていたかもしれない。だが見た後の気分としては、後悔はなかった。満ちたりた自分自身の顔を見て、己の幸せを再確認できたのだから、文句もなかった。


「そうだな、それじゃあ一つ遺しておくか…………色々ありがとうな、デューク」


 テオがしれっと言うと、デュークの頬杖がカクンと外れた。

 途端に精霊の顔が朱に染まる。


「な! 何をふざけたこと言ってんですか?!」

「いや、お前が言えって……」

「そういうことじゃねえ! てめぇの家族に……」


 口を数度パクパクさせて、それからムッとつぐんだ。何か悪態をつこうとして止めたらしい。

 テオはニヤっと笑って手を差し出す。

 それをうさん臭げに見やってから、デュークはテオの手を握った。初めての握手だった。


「もうすぐ解放されるんだ、清々するだろ?」

「ええ、ホント清々しますよ!」


 苦々しい顔をして、デュークは握った手をぐいと引っ張った。


「おい……なにを」


 抵抗する間もなく、テオは彼の腕の中に納まる。

 一瞬だけ強くテオを抱きしめ、デュークの姿は煙のように消えてしまった。


――全く、あなたというお人は……


 ふわりと風が揺れ、精霊の黒い羽が一本ひらひらとテオの前に舞い降りてきた。

 それはペンのように立ち上がり、テーブルの上に文字をしたため始めた。書かれた端から消えてゆく文字を、テオはしっかりと瞳に刻む。あの紫の目の精霊には、口が裂けても言えないだろうその短い言葉を。


 そして羽が最後の文字と共に消え失せると、テオは微笑み、また同じ言葉を繰り返した。


「ありがとう、デューク」







 テオが家に足を踏み入れると、子どもたちがお腹すいたと騒いでいた。出来上がったばかりのサンドイッチをくれとせがんでいる。

 もう少し我慢しなさいとベイブに言われると、今度はテオにニコはまだ来ないのかと尋ね始めた。


「もうすぐ来るさ」


 ちらりと時計を見て、テオはよしよしと二人の頭を撫で、ベイブにそっと歩み寄る。

 飲み物の用意をしていた彼女を、不意に後ろから抱きしめた。


「え? 何?」


 驚く彼女のお腹を撫でまわし、首筋にキスをする。

 何を言おうか考えるが纏まらない。くさいセリフは既に何回も言ったような気がする。

 デュークがくれたラストチャンスだったが、もう飾った言葉は必要ない気がした。

 彼女の甘い香りに、テオはうっとりと囁く。


「ありがとう、ベイブ」

「……どうしたのよ、急に」

「うん……旨そうだなって思ってさ」


 出来上がったサンドイッチの皿を見てにこりと笑うと、ベイブもふふっと得意そうな笑顔になる。


「ね、おいしそうでしょ。食べたいなあ」

「たべたいのんよー!」


 また子ども達が騒ぎ始めた。

 テオが一切れずつ渡してやると、わっと歓声を上げてその後は黙々と食べ始めた。


「もうテオったら!」

「まあいいじゃないか、少しくらい」


 テオは笑って、壁にかけてあったローブに手を伸ばす。

 最近はあまり着ることのなくなった魔法使いのローブ。ニコを笑わせる為だけに注文したそれは、ウルトラマリンとレモンイエローの極太ストライプというキワモノだった。


「さあ! ニコを迎えに行こう。もう麓まで来ているはずだから」


 そのローブをさっと羽織ると、ベイブが呆れたように笑った。


「やだ、並んで歩きたくないわ」

「そう言うなよ」


 ブンブンと頭を振って、彼女は先に玄関を出た。

 眩しい日の光を浴びて輝くベイブ。その後を追いかける子どもたち。

 テオの胸がいっぱいになる。今心にあるのは感謝の気持ちばかりだった。


「ありがとうな……ずっと、愛してる……」


 小さな声で呟いて、真昼の輝きのもとにいる家族のもとへと、テオは歩き出した。








〈了〉

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ