バラの咲く庭で 第一話 ニコ
さっとカーテンを引き、窓を大きく開け放った。
初夏のさわやかな風がすうっと部屋に流れ込んでくると、思わずテオの頬が緩む。
まだ夜が明けてから一時間ほどで、あたりはしんと静まり返っている。ちちっと小鳥のさえずりが心地よく耳に滑り込んでくるばかりだ。
テオは続けて隣の窓も開けた。そして隣室のドアも開け放つと、ドカドカと中へ入ってゆく。
ちらりとベッドに横たわるこの部屋の主を見てから、また窓を開け始めた。朝の光がゆるくベッドに差し込む。だが、シーツをかぶって丸まっている人物は、心地よさげな寝息を立てるばかりで起きる気配がない。
テオは、腰に手を当てて苦笑する。
「無防備すぎだろ。オレが賊だったらお前大変なことになってんだぞ」
勝手に人の部屋に侵入していることは、思い切り棚に上げて呆れかえっている。
ベッドに近づきシーツをはぎ取ると、眠る耳元で大声をはりあげた。
「おい! 起きろ、ニコ! 朝だ……」
「うわぁぁぁ!!」
ガツ!
驚いて飛び上がったニコの頭が、思い切りテオの鼻に激突していた。
「うぐぅ…」
二人ともそれぞれ頭と鼻を押さえて、うずくまる。
何が起こったのか訳がわからないのはニコで、情けない声で「なにが? なんで?」とつぶやいている。
僅かに目に涙を浮かべてテオが立ち上がった。
「お、お前、痛いじゃねーか! いきなり起き上がるな!」
「……う、うへ? テオさん……」
「オレの高い鼻がつぶれたらどうしてくれる!」
「すみません…………ってか、なんでテオさんがいるんですか!」
おでこをさすり心臓をバクバクいわせながら、テオを見上げた。
なぜ、彼が自分の部屋にいるのかわからない。おまけに不法侵入して脅かしたくせに、理不尽な文句を言うとは、相変わらずのオレ様ぶりだなと思うのだった。
この頃は随分と落ち着いたように感じていたのだが、単に見せかけだけだったということだろうか。
「昨日も一昨日も来たけど居ないから、朝なら絶対捕まると思ったんだよ。いつもどこほっつき歩いてんだ?」
不満げに言って、テオはベッドに腰掛ける。赤くなった鼻をまださすっている。
まったくとため息をつく彼を、ニコはふっと笑って見つめ返した。
「仕事に決まってるでしょ。テオさんと違って、僕は忙しいんです」
「ほう、大変だな。夜中までこき使われてちゃ、デートする暇もないってか? 仕事なんか適当に手ぇ抜いとけよ。ハゲるぞ」
「…………ぜ、全然、大丈夫ですから!」
反論しながら、思わずギクリと頭を押さえるニコだった。
インフィニードが共和国に生まれ変わってから、王宮付き魔法使いの制度は無くなり、魔法使いたちは能力でランク分けされることになった。最上位の特A級魔法使いは、呼び名は変わったが旧体制の王宮付きと同じ意味あいをもっていて、国政にかかわることもあった。
つい半年前、ニコはこの特A級の資格を得たのだ。最高の名誉でもあるが、その仕事は激務だった。
昇進前に告白され付き合い始めた女性から、会えないならもう別れようと言われたのが先月、ストレスによる小さな円形脱毛を発見したのが先週のことだった。
誰も知らないはずなのに、なんで言い当てられるのか。朝から心臓に悪いことばかりだと、ニコはため息をついた。
「で、何の用なんですか?」
深く突っ込まれる前に、ニコは質問する。
だいたいこんな朝っぱらに押しかけて来て、あげくろくな用でなかったら、いくらテオであろうとも叩き出してやる、とニコはベットから降りドンと床を鳴らして仁王立ちになった。
途端にテオはニヒャと緩みきった笑みを浮かべる。
「賭けをしにきたんだ、三回目のな。今のところオレの二連勝だ」
「賭け……?」
「そうさ、前にもやっただろ。どっちだと思う? 男か女か。五分五分なんだから次こそお前も当てろよ」
とろけそうな顔で笑うテオを見て、ニコはあっと声を上げた。
「もしかして、三人目?」
「おう」
「ああ! おめでとうございます! テオさん、ご懐妊、おめでとうございます!」
「お、おう……って、なんかオレが妊娠したみたいに聞こえないか、それ」
「めでたいんだから、いいじゃないですか!」
ニコはテオの手を握ってブンブンと振り回した。
彼が三人もの子の父になるなんて、思いもしなかった。突然の吉報に、ニコは心からの祝福を贈った。
照れ笑いを浮かべるテオを見ていると、ジンと目が熱くなってくる。
彼から聞かされた「命の刻限」は、もう二年前に過ぎているのだ。なのに、こうして未だに彼の笑顔を見られることや、彼の家族が増えることがとても幸せな奇跡のように思えるのだった。
ニコは五年前のテオとベイブの結婚式を思い出す。
美しく初々しい花嫁と、赤くなってそっぽ向いてばかりの花婿の姿は、ニコの大事な思い出の一つになっている。
微笑む二人を見ていると、本当に良かったと思う反面、もう三人での暮らしには二度と戻れないんだなと寂しく思った。
そして、幸せに頬を染めテオしか目に入らないベイブの笑みに、突然チリチリと胸を焼かれるような痛みを感じた。あの微笑みは自分のものにはならない、もう友人以外の何者にもなれないのだと、今更ながらに気づいた瞬間だった。
この時、なんてことだとニコは一人狼狽えていた。まさかベイブに思いを寄せてしまっていたなんてと、自分を浅ましく思うのだった。二人を裏切ってしまったような気がして、罪悪感も感じた。
テオはベイブが何者であろうが関係なく、それこそ容姿も身の上も度外視して、彼女を愛した。
それに対して自分はどうかと思う。もちろんゴブリンであったベイブにも好意を感じていたが、あれは恋ではなかった。人間の少女が呪いでゴブリンに変えられていたのだと知っても、だからと言ってそれが恋に変わることはなかったのだ。
自分が、ベイブに惹かれるようになったのは、呪いが解けて彼女が本当の姿を取り戻してからなのだ。今更、思いを自覚したところで、自分の卑しさが身に染みて辛くなるばかりだった。
ニコはテオに申し訳なく思い、淡い恋心に必死で蓋をした。
この日は、喜びと寂しさと、失恋の思い出となってニコの胸に残っている。
そして、その結婚式の翌日の騒動も、忘れることのできないものになった。
まだ心の整理がキチンとできていないニコとしては、できれば二人の顔はあまり見たく無かったのだが、容赦なく彼らの口論に巻き込まれてしまった。
その発端は、テオの「子どもは持たない」という一言だった。子どもが嫌いだからという理由ではない。自分がいなくなった後、ベイブが一人で幼子を育てていかなければならない苦労を心配したのだ。
キッと眉根を上げて、ベイブが反論したのは言うまでもない。結婚したからにはあなたの子どもを産みたいのだと、家族が欲しいのだと、彼女は切々と心を込めて語った……のは初めの十分ほどで、その後はなかなか首を立てに振らないテオに、半ばキレ気味に大声を上げていた。
ニコはどちらの言い分もわかる気がして、片方だけの味方をする訳にもいかず途方に暮れるばかりだ。
第一、秘密の失恋をしたばかりのニコは心がえぐられる上に、子どもを作る作らないという話が生々しすぎて、コメントなどできるはずもなかった。
そうとは知らぬ二人の舌戦は何時間も続き、随分と困らせられることになった。それでも最後は、ベイブの涙にテオが負けたのだが。
そしてその一週間後、ニコはテオに賭けをしないかと誘われたのだった。
ようするに、テオが子どもの件で折れた時には、既にベイブのお腹の中では新たな命がすくすくと育っていたという、呆れはてた話だったのだ。しかも、生み月まで五ヶ月をきっていたというから、ツッコミどころ満載だ。
ニコは「おめでとうございます!」と何度も繰り返した。もちろん本当にめでたいと思っているのだが、心のどこかでショックを受けていた。それを隠そうと努めて笑顔で喜び、テオをからかったのだった。彼がバツが悪そうな照れ笑いをするから余計にだ。
「子どもは作らないって、言い張ってたのはどの口なんでしょうね」
「だからって、しないなんて一言も言ってないし、言う気もないし」
「いや、あの……子ども持つ気ないっていうんなら、気をつけるもんじゃないんですか?」
「…………」
「何にも考えてなかったんですね……」
「それは違う! まさかあの一回で……って、結果オーライで何が悪い!」
開き直るテオを見て、ニコは腹を抱えて笑った。
まだまだツッコミ足りなかったが、これ以上水をさすのも野暮だし嫉妬と思われたくなくて、ニコは祝いに何が欲しいかと話題を変えたのだった。
二人が笑顔でいられるなら、それがニコにとっても幸せだった。
二人を悲しませるくらいなら、自分の恋情なんて捨ててしまえると思っていた。
テオが父親になるということは、彼の思いや生きた証がこの世に残るということだし、何よりベイブが、それを深く望んでいる。そしてテオも心の奥ではきっと、この幸せこそを望んでいたはずだと思うのだ。
ニコは、テオに後悔の無い時間を過ごして欲しいと、心から願うのだった。
あれから五年が経ち、ニコは魔法使いとして着実に力を付け、どんどんと仕事を任されるようになり、テオはその後も子どもに恵まれて、すっかり子煩悩な父親になっていた。
ベイブの言うところによると、甲斐甲斐しく子どもの世話をし、家事も手伝い文句も言わないらしい。掃除や片付けだけは相変わらず苦手なようだが、子どもの安全の為よと言うと、素直に散らかったものを片付けるというのだから、なんとも微笑ましいと思うニコだった。
こんなちょっとしたことからでも、テオが子どもやベイブと過ごす時間を、とても大事にしていることがよく分かる。
だが、彼のこの幸せは一体いつまで続くのだろうかと、ニコは不安だった。
ドラゴンがおまけをくれたんだよと、テオは笑って言うのだが、どれほどの時間が残っているのかなんて、誰にも分りはしない。それにいつどのように彼の最後の日がくるのかも分からないのだ。
テオは平気なのだろうか。
ベイブは辛くないのだろうか。
ニコの中で不安は日一日と大きくなるばかりだった。
「でニコ、どっちだと思う?」
「え、えっと、そうですね……男の子かな?」
はっと我に返りニコが答えると、テオはうれしそうに膝を叩いた。
「やっと予想が一致したな! オレも男だと思う」
命の期限を切られた彼にとって、三人も子どもを授かることができるとは、夢にも思わぬ幸せなのだろう。そしていつ最期の日が訪れてもおかしくないというのに、彼の顔は清々しく今までにないほど安らいでいた。
ニコは不安を胸に抱いている自分が滑稽に思えてくる。そのくらい、テオは変わらない笑顔を見せてくれている。
「すごいことなんですよね。三人も……」
「すごいか? することしただけだぞ」
「あの、そういう話じゃなくて……まあ、いいや」
ニコは肩をすくめてクスリと笑う。
テオがふざけてみせるということは、隠しきったつもりだった不安が、多分見透かされてしまったのだろうとニコは自嘲した。
湿っぽいのは絶対にやめてくれと、テオから厳重に言われているのだ。ニコは軽く頭を振ってから、にこやかな笑みを浮かべる。
「そんな風にネタにすると、ベイブに怒られますよ」
「ああ、最近あいつグーで殴るんだよなぁ」
ほら見ろよ、とあごをくいと上げる。青あざがついていた。
「見事なアッパーカットだった」
「何やったんですか……」
ニコは思わず横を向いてブフッと笑った。
結婚後、自ら進んで妻の尻にひかれたテオだったが、子どもが生まれてからは更に頭が上がらないようだ。子どもの人数が増えるにつれて、その傾向は強まっているようだ。
テオは口をとがらせていたが、不満げというよりは満足そうだった。
「まあなんだ、赤ん坊が生まれたらまた忙しくなるから、その前にお前をランチに誘えってベイブが言ってるんだ。今日は休日だろ? 来いよ」
「あ、昨日の仕事が残ってるけど……はい、昼前には必ず!」
ニコは大きくうなずいた。
彼らとの食事は久しぶりだ。なるべく早く仕事を済ませて、ベイブと子ども達に会いに行こうと思った。
「それからな、ニコ。一つ頼まれてくれないか」
「なんです?」
「オレがいなくなった後も、ベイブの側にいてやって欲しいんだ」
「……え」
突然、自分の死後のことを話し出すテオに、ニコの心臓が飛び跳ねた。
「あいつを支えてやってくれ。苦労することも多いと思う、助けてやって欲しい」
「……も、もちろんです」
「守ってくれ」
「……はい……」
ニコの返事は歯切れが悪かった。
絶えず心にある不安が実現した時のことを思うと、気安く返事はできなかった。
言われずともベイブを放って置くなんて、できはしないだろう。彼女が哀しみ苦しむと分かり切っているのだから。
だが彼女を守って欲しいなんて、まるで自分の代わりをしろとテオに言われているようで、荷が重く居心地の悪い気分になる。
「……ベイブに再婚を勧めようと思ってる。死人に義理立てする必要もないし、オレはいつまで彼女を束縛したくないから」
「テオさん?」
死人、そして再婚という言葉に、ニコは目を丸くした。
彼が生きている今から、そんなことまで考えなければいけないのかと、胸がモヤモヤとし眉をしかめるニコだった。しかし、テオはそんなニコを見つめながら話を続ける。
「お前も、遠慮しなくていいからな」
「え? ……ちょ、ちょっと、何言ってるんですか」
「オレが生きてるうちにベイブに手ぇ出したらぶっ殺すけど、死んだ後ならいいぞって話だよ」
「な、なにを!? やめて下さい。僕はそんなつもりありません! ベイブをそんな風に思ったことなんてないです!」
思わず大声をあげてしまうニコだったが、ビクリと身体が強張った。
秘めた思いを否定するが、動揺は隠し切れなかった。
「見え透いたこと言うなって。とっくにバレてんだから。……お前なら任せられるって思ったんだ」
クスリと笑われて、ニコは天井を仰ぎ大きく吐息する。
何でもお見通しとは、恨めしいことだ。
「……ひどいこと言わないで下さい。無理ですよ」
「何がひどい?」
テオの声は穏やかで優しかった。
もう誤魔化しようもないかと、ニコは目を閉じてつぶやくように言った。
「……分かりましたよ、正直に言います。僕はベイブが好きです。大好きです。……多分、彼女以上に好きになれる人は現れないと思うくらい」
「…………うん」
「でも、僕はテオさんのことも大好きで、誰よりも大切でかけがえのない人なんだ……大好きなあなた方二人の間に、割り込むような真似したくないんだ! あなたを裏切るようなこと、したくないんだ!」
「裏切りだと思うのか? バカだな」
震え青ざめたニコに、テオは微笑みかける。
自分の妻への恋情を聞かされた男の笑みとは思えない、落ち着いた顔だった。むしろ腹を割ってよく話してくれたと喜んでいるように見える。
「なら、オレの頼みは無かったことにしようか?」
この人はなんで、こんな優しい声で残酷なことを言うんだろうと、ニコは思う。自分には彼女を放って置けない事を、ちゃんと知っているくせにと。
ブンブンと頭を振り、懸命に声を振り絞った。
「……いいえ。僕は……ベイブを守ること約束します。あなたの代わりなんてできないけど、僕にできる全力で助けに支えになりたいと思ってます。……でもそれは、友人としてです。だって、彼女を困らせたくない。今までの関係を壊したくない……だからベイブには何も言わないでください」
ニコは俯いたまま答えた。
テオの手がくしゃりとニコの髪をかきまぜる。
「それじゃ、お前が辛いんじゃないかと思ってな……。まあ、お前次第なわけだけど」
「そんな辛さ……テオさんが、テオさんがいなくなることに比べたら……」
もう言葉にならなかった。
どこにもいかないで欲しい。置いていかないで欲しい。
あなたに側にいて欲しいのは僕も同じなのだと、そう叫びたくなるのをぐっとこらえた。
「ありがとう、ニコ……」
こんなに近くにいるのにテオの声が遠く聞こえて、ついにニコの頬を光る滴が一筋線を引いていった。




