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黒のドラゴンとブロンズ通りの魔法使い  作者: 外宮あくと
第三部 罪と力と代償と
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終章 海の見える丘

 パン! パパン!


 澄み渡る青空に花火が打ち上がった。節目となる祭りの真っ最中だった。

 インフィニード共和国が建国されて十年目の記念祭。

 国をあげての式典が大規模に執り行われていた。どこもかしこもお祭りムードで、人々の顔は明るい。


 その賑やかなアソーギの町をニコは歩いていた。活気づいた町の様子に、懐かしさと喜びを感じながら一人歩いてゆく。

 ニコはここしばらくインフィニードを離れていた。新たな国造りの役に立てるようにと、見聞を広めるための旅に出ていたが、国を挙げてのこの記念祭を期に帰ってきたのだった。

 それはテオとの約束の為でもあった。







 インフィニードは生まれ変わっていた。


 それは、王の突然にして大胆な勅旨ちょくしから始まった。

 自らの退位と王制廃止、そして民主化への足がかりに議会の発足を望むことを、国民の前で宣言したのだった。

 驚き慌てたのはインフィニード国民だけでなく、周辺諸国も同様だった。何事であるのかと、騒然としたのも無理からぬ話だった。


 ことに隣国のミリアルド王国は、なんとか王に退位を思い止まってくれと騒ぎ立てたものだった。ヴァレリア王女と黒竜王の婚姻をもって、両国の友好関係を強めたいと考えていたのだから当然だろう。政変が起こっては、全ての目論見がご破算になる。

 だが、王は意志を完遂し退位した。そしてその後隠遁生活に入り、一切の政治の場への立ち入ることなく、歴史の表舞台から綺麗さっぱりと消えたのだった。


 この宣言の前日譚として、災いの双子の魔法使いや髑髏の騎士の騒動があったことから、王はこれらの事変の責を負って退位したものらしい。

 しかし、なぜ王制を廃止したのかという疑問は解消されなかった。この国のより良き未来のため、というなんとも漠然とした説明しかされなかったためだ。


 この民主化への移行によって、黒竜王ディオニスの名はインフィニード史にしっかりと刻まれることになった。在位七年、その始まりと終わりの二度の劇的な政変から、悪逆の王とも革新の王とも呼ばれるようになるのだった。

 流血のクーデターによって王位を奪取した彼が、無血で王国史に幕を引いたことに皮肉を投げかける者も多い。

 それでも王自らが民主化への旗を振り、潔く去ったことは、概ね好意的に受け取られた。いや単に、王は危険な魔法使いであるという認識が国民に根深くあり、彼を引き留める動きも起きずむしろ退位を歓迎したに過ぎないのだが。


 勅旨を期に、インフィニードは共和国建国にむけて一気に熱狂を始めた。

 遠く東方の国々では早くから民主化の動きがあり、その波がついにこの国にも到達したのだと歓迎されたのだ。インフィニードでも民主化を望む声は潜在的に存在していた証明だ。

 それは天使の名を持つ双子の魔法使いたちがもたらした災厄のせいで、うつむきがちに暮らしていた人々を活気づける格好の起爆剤となり、アソーギの復興を一段と早めることにもなった。











 ニコはブロンズ通りを目指して歩いていた。

 特に用があるわけではない。ただ、かつて三人で暮らした家が無性に懐かしくて堪らず、ひと目見てみたいと思ったのだ。

 近づくにつれ、見慣れた景色にニコの胸が熱くなっていった。


 ニコはブロンズ通りの小さな家の前で立ち止まる。

 そこにはもう、シェーキー魔法店の看板はない。

 何年か前、別の魔法使いが住んでいると聞いていたのだが、今はまた空き家になっているようだ。

 ニコは扉をそっとさする。


「ただいま……」


 そして小さく頷いた。

 この家を買い取ろう。そして、魔法店を開こう。ここからまた始めるのだ。

 ニコの顔に笑みが広がった。

 感慨にふけっていると、角を曲がってきた二人組の男とぶつかりそうになった。


「す、すみません」


 慌てて頭を下げた。

 すると、聞き覚えのある声が降ってきた。


「……んん? ニコか?! 久しぶりじゃないか!」

「おお、元見習い魔法使い!」

「あ! お久しぶりです」


 それはレオニードとジノスだった。

 でかくなったなあと、レオニードはバンバンと背中を叩き、ジノスはニヤニヤ笑いながらニコを上から下までジロジロと見ていた。

 ニコは苦笑しながらも、彼らとの再会を嬉しく思う。特にレオニードにはもう会えないだろうと思っていただけに、喜びもひとしおだ


「帰ってきてたんですね」

「そうなんだ。一旦は故郷の村に戻ったんだけどな、この国の行く末をちゃんと見ていたいと思ってな。俺達がこれから築きあげていかなきゃならないんだしな」

「そうですね」

「お前もやっと帰って来たんだな。頑張れよ」

「はい」


 ニコがうなずくと、ジノスも会話に加わってきた。


「あの野郎、勝手に俺たちにこの国の未来を押し付けやがったからな。だったら、あいつが想像したよりももっとスゲー国にして、一泡ふかせてやらねえとな」

「そうですね」


 クスリと笑い、ニコはジノスの右腕を見つめた。肘から先が無いのは、あの草原での闘いの時、アンゲロスに切り落とされた為だ。

 腕を失った彼は騎士団を引退し、用心棒稼業に転身したらしい。軍の上下関係にはもううんざりだと言っていたのを思い出す。

 

 その時また、パン! パパン! と花火が打ち上がった。

 空を見上げてレオニードがつぶやく。


「アイツがきったカードを、次に繋げるのは俺たちだ……。それにしても、俺は人を見る目が無かったなって、つくづく情けなく思うよ。あのテオがなあ……」


 肩をすくめて戯けてみせた。

 彼は、テオの正体を知って憤慨した幾人かの人間のうちの一人だったのだ。もちろんジノスもお仲間だ。

 特にレオニードは、絶対に嘘だお前が黒竜王な訳がないと、ガンとして受け入れず、テオと取っ組み合いになりかけたものだった。それももう十年も前の懐かしい思い出だ。


 テオつながりで知り合った彼らは意気投合し、今では共和国の健全な発展の為、共に市民への啓蒙活動にいそしんでいるという。

 キラキラと瞳を輝かせて熱く国の未来を語るのだった。

 そんな二人を見ていると、いつかテオが夢見た通りになってきているのだと思えて、ニコは胸を震わせて何度も頷くのだった。






 再びニコは歩き出す。そして王宮前広場にたどり着いた。

 今は一般に公開されている王宮を見上げ、テオの黒竜王としての最初で最後の演説を思い出すのだった。


 いつも通りの黒竜王の黒い軍服姿に、厳しいマスクをつけての演説だった。

 その日の朝、彼は城壁の上に立ち王宮前広場に集まった多くの人々に向けて語ったのだ。一人ひとりの耳に届くようにと、魔法の波動にのせて丁寧に言葉を紡いでいた。


「多くは語らない。ただ、我が友たるインフィニードの民にこれから起こる事実を伝えよう。今日はインフィニード王国最後の日であり、またインフィニード共和国の誕生の日でもあると!」


 そう話し始めた。

 無数の人々が集まっているというのに、広場はしんと静まりかえり、テオの声だけが滔々《とうとう》と流れていった。

 変革の要点だけを語る畏まった演説は、ほんの十数分で終盤を迎えた。

 一呼吸つき、テオはふっと笑みを浮かべた。頭をポリポリとかき、締まった襟をグイと緩めると急に砕けた口調に変わる。


「ああー……こいつ、いきなり何言ってんだ、とか思ってるんだろう? まあ、この決断は必ずインフィニードの為になるからなんだ、と言っておくよ」


 テオがまた笑みを見せると、聴衆の空気が途端に緩くなりざわついたが、注目は更に集まった。


「オレはインフィニード王国(・・)を滅ぼす為に生まれたらしいんだな、これが。皆も知っての通り、黒龍王は災禍をまき散らす。…………だからあんたたちは、この先もオレを悪逆の王と罵り、過ちを糾弾し続けろ。そして今後は、専横を許さない新生インフィニードを作り上げるんだ。さあ! 賽は振られた! 次の一歩はあんたら次第だ。これからこの国を動かしてゆく一人ひとりに期待している、後は任せた! 以上!」

 

 ポカンとする聴衆に、ピラピラとハンカチでも振るように手を降って背を向けた。そのまま歩き出すのかと思うと、不意に立ち止まりマスクに手をかけ振り返った。


 はずされたマスクが、空高く飛んで行く。

 広場の中央に向かってそれは飛び、人々が注目する中、パパンと弾けて真っ白な物が吹き出してきた。それは季節はずれの雪のように真っ白な花吹雪で、風に煽られて広がり、広場中にふわふわと舞い降りていった。


 おおと歓声を上げる人々のうち、一体何人が黒竜王の素顔を見ただろうか。新たな門出を祝う祝福の花びらが彼らの頭を飾る前にはもう、城壁の上に黒竜王テオは姿はなかった。




「なぜ救国の話はしなかったんですか?」


 聴衆に背を向け城壁を降りてきたテオに、ニコは声をかけた。

 静かな返事が返ってくる。


「オレは亡国の王だからな」

「謝罪し、説明すれば理解されます」

「絶対謝らないし、理解なんて要らない。必要なのは悪しき王で、反面教師となる存在だ」


 テオの言わんとするとこは漠然と分かっていた。詫びる気持ちがないわけではなく、彼は謝罪してはいけないのだ。そしてその行動を理解されてもならない。

 それでも、ニコは軽く頭を振る。


「あなたは悪しき王じゃありません」

「ニコ、事実から目を背けるな。オレは人殺しの簒奪者さんだつしゃだ。そんな黒龍王に激励されちゃ、彼らにしてみりゃムカつくってもんだろう? 奮起するだろうぜ。王制側から引いたとはいえ、民主化への道のりは険しい。オレという具体的な悪を憎み、後戻りはしないと誓ってこそ、前進できる」

「……それがあなたなりの贖罪しょくざいなんですね」

「贖罪どころか……たぶん自己満足さ……」


 そういって彼は笑った。

 全くテオらしいと、ニコは思ったものだった。




 この宣言をミリアルドのフィリップ王子も聞いていた。妹を介してこの情報を前もって入手し、急ぎ駆けつけていたのだった。

 ちょっと待てと意見するも、全く聞く耳を持たないテオと一悶着し、しかも正体を知ってどうにもこうにも納得がいかぬ様子だった。そして居室に戻ってきたテオとしばし睨み合うのを、ニコはハラハラしながら見ていたものだった。

 この後、黒竜王とヴァレリア姫の婚約は完全に白紙となった。


 その数か月後、小さな結婚式が執り行われていたことを知る者は数少ない。名も無き二人のその結婚式に、フィリップも笑顔で出席していた。

 花嫁はシンプルなデザインながらも、精緻な刺繍の施された上等なシルクのドレスを身に纏っていた。それはニコにも見覚えのある、花婿の母親が遺したドレスだった。

 フィリップとしては、もっと豪華な新しいドレスを贈ってやるつもりだったらしいが、当の花嫁がこのドレスがいいと言いはったのだ。


 真っ白なウエディングドレスを着た花嫁の前で、信じられないほど赤面し目も合わせられない花婿に、ニコは堪えきれずに吹き出し、フィリップはここぞとばかりにからかいの言葉を投げかけていた。

 それから、二人の未来に幸多かれと心からの祝福をおくった。


 ニコの頬に微笑みが浮かぶ。

 そして懐かしい思い出を噛みしめて、王宮前広場を後にした。











 小高い丘をニコは一歩一歩、土を踏みしめながら登ってゆく。

 初夏の心地良い潮風を感じながら、五年ぶりの道を歩いていた。懐かしくも思い、寂しくも思った。最後にここに来た時は挨拶もそこそこに、逃げるように辞してしまったことを思い出し申し訳ない気持ちになる。


 この丘の上に建つ一軒の古い家は、元は白魔法使いのオルガのものだったがテオが譲り受けていた。ベイブと結婚した彼は、ここを新居としたのだ。

 新婚家庭にお邪魔するのはちょっと照れくさいものがあったが、ニコはテオの招きを受け入れて良く遊びに来たものだった。


「ニコ、お前の料理が恋しいよ。なあ、うちの専属の料理人をやらないか? じゃないとオレたち飢え死にするかもしれない」


 などと言ってテオは笑った。冗談めかしてはいたが、あれは絶対に本気だったとニコは思っている。

 生活能力の低い二人のことは確かに心配ではあったが、ニコはかたくなに拒否した。お邪魔虫になるのはごめんだったし、熱々の二人にあてられるのも心底勘弁して欲しいと思ったのだ。だから自分の代わりに、大量のレシピノートを渡してお茶を濁したのだった。

 テオやベイブと一緒に暮らせないことは、寂しくないと言えば嘘になるが、時折会って幸せそうな二人を見るだけで満足だった。




 丘の上の一軒家が見えてきた。壁には蔦とつるバラが絡み、玄関脇のウッドデッキには奇妙な木彫の人形や、曰く有りげな置物が所狭しと並べられている。見るからに魔法使いの住処といった怪しげな風情で、ニコの記憶とあいも変わらぬ姿を見せていた。

 ほっとニコが微笑むと、生け垣からヒョイと少年が顔をだし、駆け下りてきた。走りながらニコに向かって懸命に手を振っている。


「ニコー! 遅いよー! 待ちくたびれたよー!」


 少年はドンとぶつかるように、ニコの腕の中に飛び込んできた。

 エヘヘと笑って、ニコを見上げる。


「ハハハ、ごめんごめん……いやぁ、ユリアン大きくなったね。前に会った時はヨチヨチだったのに」

「そんなことない! もう大っきかったぞ!」


 真っ黒な瞳をキラキラと輝かせ、白い歯を見せて満面の笑みをたたえる少年は、驚くほど父親にそっくりだった。

 まるでテオの時間が逆戻りして、子どもに帰ってしまったのではと思うほどだ。あまりに似ているので吹き出してしまいそうになるが、懸命にこらえて少年の髪をかき回すように撫でた。

 久しぶりに会ったというのに、彼が自分を忘れずにいてくれたことが、ニコは無性に嬉しかった。


「ママー! ニコが来たよー!」


 ユリアンはクスクスと笑い続けるニコの手を引いて、家に向かって走りだす。

 すると勢い良く玄関扉があき、彼の母親が現れた。


「こらぁ、ニコさんって呼びなさいって言ってるでしょ」


 息子を叱りつけ、そしてニコに昔と変わらぬ笑顔を向けた。両手を広げてニコに駆け寄ると、ユリアンを押しのけてギュッとハグしてくる。


「いらっしゃい! ニコ」


 思わずドキリとするニコだったが、すぐに彼女が離れてしまうと少し残念な気持ちになる。

 と、ユリアンが横目でニタニタと笑っているのに気づき、きまりが悪くなって苦笑を浮かべた。

 まるでテオが笑っているみたいなのだ。もっと抱きついてほっぺにチューとかして欲しかったんだろう、と今にも言いそうでますます気恥ずかしくなる。

 コホンと小さく咳をして、挨拶を返した。


「歓迎してくれて、嬉しいよ」

「もちろんよ。久しぶり……元気だった?」

「うん、仕事も充実しるしね。ベイブも元気そうでよかった」

「さあ、入って」


 ニコを家に案内しようとするベイブに、軽く頭を振った。


「その前にテオさんと話してくるよ」

「そうね。久しぶりだし積もる話もあるわね。今、リタとニッキーがケーキを焼いているの。あなたに食べさせるんだって頑張ってるのよ。焼けたら呼ぶから、ごゆっくりね」


 ベイブは笑って、ユリアンの手を引いて家の中に引き返していった。

 微かに甘い匂いが漂ってくる。彼女と子どもたちの料理がどうか成功しますようにと祈りながら、ニコは家の左手に回っていった。


 スーッと風が通り、彼女たちの笑い声が聞こえてきた。その明るく弾むような声にニコは安堵を覚える。彼女らがこんな風に笑っていられるのは、誰でもないテオの存在のおかげなのだ。

 そしてニコにとっても、少年の頃から尊敬し憧れ追いかけ続けてきた彼の存在は、今ではより一層大きく揺るがせないものになっていた。


 柵のない庭の伸び放題に生い茂ったバラの前に、テオを見つけた。彼も五年前と少しも変わらない。

 

「テオさん、久しぶりです」

「…………」


 ニコは目を細め、そっと草の上に腰を下ろした。

 テオと並んで海を眺める。この庭から見る町と海の景色がテオのお気に入りだ。ブロンズ通りもいいが、ここでの静かな暮らしも良いもんだと満足気だった。


 海の上をゆっくりと白い雲が流れてゆくのを見つめていると、心が静かに落ち着いてくる。五年前、テオとは話もせずに早々に帰ってしまったことを後悔していたのだが、こうやって穏やかな気持ちになれる日がくることを、テオは知っていたのではないかという気になった。

 

「……もっと早くに来なきゃって思ってたんですけど」


 そう、来ようと思えばいつでも来ることが出来たのに、それをしなかった。テオに、ベイブに会うのが怖かったのだ。何を話せばいいのかまるで分からなかった。昔のように、時折手紙を送ることしか出来なかったのだ。

 そしてそれが負債のように感じられてくると、ますます来づらくなり気づけば五年が過ぎていた。


「アインシルト様のご指示で、ミリアルド、フラクシオ、ミデンを回ってきました。見聞も広まって有意義な時間を過ごす事ができましたよ。でも、やっぱり僕にとって一番多くの事を学び吸収したのは、あのブロンズ通りでの日々です。……テオさん、感謝してます。あなたに会えて本当に良かった」


 新体制になって魔法使いとして重用されるようになった今でも、ニコとってテオは変わらぬ憧れであり、越えられない壁のようでもあった。

 ニコの胸が熱くなってくる。まともにテオを見ることもできず、息が詰まりそうだった。


「…………」

「……不思議ですね。僕、来年は二十七になるんですよ。テオさんが予言をあるべき形に収めた時と同じ年に……。あなたに比べて、僕はなんてちっぽけなんだろうって悲しくなっちゃいますよ…………叱ってくれないんですね、バカなこと言ってらって」


 遂にニコの頬に涙が一筋流れる。

 ゆっくりと、隣のテオに顔を向ける。


「寂しいです」


 テオを見つめ、ニコはすがるように彼に手をのばした。

 指に触れるのは少し冷たく硬い感触。

 子どものころ、髪をくしゃくしゃとかき回すようになでてくれた、あの暖かい手に触れることはもう出来ないのだ。


「……僕にあなたの代わりなんてできません。でも、良き友人として、ベイブと子どもたちのことは、僕の一生をかけて支え守ります。約束しましたから」


 ニコはサッと涙を拭って立ち上がった。

 この覚悟を伝える為に今日ここへ来たのだ。ニコは深々と頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」


 ぶわっと少し強めの風が吹きぬけ、ニコの髪をバサリとなぶっていった。それは懐かしい手の感触にとても似ていた。

 また目が潤みそうになるのを堪えて顔を上げると、背後で窓の開く音が聞こえた。


「ニコー! ケーキ焼けたよ。一緒にフルーツ飾ろう」


 振り返ると、窓から顔を出した子ども達が両手をブンブン振っている。その後ろでニッコリと笑うベイブも、早く早くと手招きしていた。

 自然とニコの唇がほころんだ。


「今いくよ」


 答えてからニコは、もう一度テオを見つめた。

 かつてはいつも見上げていた背の高い青年は、今では視線のずっと下にいる。何も答えず何も話さず、ただニコの一人語り聞くだけだった。


 成すべきことを成した後、名前を捨てしがらみを捨て、そして愛するものを得て最後に彼が辿りついたのがこの場所だった。

 薄橙の優しい色の小バラが咲き乱れる小さな庭に、毎日供されているであろう花束が甘い香りをほのかに漂よわせていた。


 ここに、誰よりも祖国を愛し護ろうとした者がいたことを、どれだけの人が知っているだろうか。彼は最後まで、己の功を語りはしなかった。だからニコは、いつか遠い未来で自分が彼の真実を語ろうと思うのだった。



 ニコは、石碑に掘られた文字を、万感の思いを込めて指でなぞった。





――生きた証を、ここに








〈了〉

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