46 老魔法使いの見る夢
心地よい草の匂いが鼻腔に滑り込んでくる。
木々が涼やかな影をつくる森の中を、テオは歩いていた。
しばらく進むと、前方に小さな小屋を見つけた。その前で、小さな少年が遊んでいる。短い棒きれを振り回して、石に向かって何か叫んでいる。それは浮遊の呪文だった。彼はただ遊んでいるのではなく、魔法の練習をしているのだ。
ああ、なんだ。ここはアインシルトの森じゃないか、あいつの小屋か……。
立ち止まり少年を見つめていると、小屋の中からアインシルトが出てきた。
ニコニコと笑いながら彼の頭を撫でる。
『真面目にやっとるかの。テオドール?』
アインシルトは少年に向かって、そう言った。
テオはドキリとして、その子どもをもう一度よく見る。
『うん! ほらぁ、見てて』
得意そうに練習の成果をみせているのは……確かに子どもの頃のテオだった。
これは夢なのか。
ああきっとそうだ、オレは今夢を見ているんだと、一人で納得する。
テオが近づこうか止めようか、少しばかり悩んでいると、アインシルトの方で彼に気がついた。
驚きに目を丸くして慌てて近づいてくる。一生懸命石を浮かせている子どものテオは放ったらかしだ。
そしてテオの腕を掴んで、無茶苦茶に揺さぶる。
夢のくせに随分リアルな感触だなと、テオは呆気にとられていた。
アインシルトは目を潤ませ、ひどく興奮した声で言う。
『テオドール! 戻ったのか!? 排除できたのか? 今度こそ元通りのお前か?』
「……んあぁ?」
何を言ってるんだと、きょとんと首をかしげる。
ジジイついにボケたかとは口には出さなかったが、テオは意味がわからんと冷たい視線を送った。
『いかん……記憶障害のようじゃのぉ』
むむっと眉間にしわを寄せて、アインシルトは顎ひげをせわしなくなでつける。
夢の中とはいえ、失礼なことを言うヤツだとテオはむっとする。
「オレの方がボケてるって言うのかよ、クソジジイめ。オレの夢の中で勝手なことを言うな!」
『……ボケとるではないか。今どこにおるか、何があったか覚えておるのか?』
ギンと睨みつけながら、杖でテオの頭をコツコツと突く。
それをうっとおしそうに払いのけて、テオは胸を張る。
「当たり前だ。ああ、えっとな……あー、あ? あれ? なんかあったな……ってか、なんだっけ?」
『それ、みい……』
アインシルトから成り行きを聞かされて、テオはようやく全てを思い出した。
ドラゴンに姿を変えてしまった時の事を思い起こすと、ゾクリと身体が震えた。それでも、ベイブが無事だったこと、アンゲロスを倒せたことにホッと安堵する。
そしてアインシルトの話によると、テオは昏睡状態のまま何日も寝たきりなのだそうだ。
「だがなあ、アインシルト。思い出させてくれたのはいいが、勝手に人の夢に入ってくんなよ。プライバシーの侵害だ」
二人は小屋の前にある木にもたれ、並んで座っていた。現実でこんな風に二人で座ったのは、何年前のことだろうかとテオはぼんやり考える。
アインシルトは大きくため息をついた。
『……まだボケとるか』
「ボケてねぇ!」
『お前がわしの夢の中に来とるんじゃ。それもいきなり強引に割り込んできおって……』
「え……マジ……?」
杖で地面をバシバシ叩きながらつぶやく顔は嬉しそうだった。テオが自分に会いに来てくれたと喜んでいるのだった。
『最近、お前が小さかった頃の夢ばかり見ておる。あの頃は素直で可愛かったのにのぉ……』
アインシルトの言葉に反応するように、突然目の前に子どものテオが現れた。
彼の夢の中というのは本当らしい。
子どものテオは、二人の目の前をキャッキャと笑いながら走り回る。森で捕まえたリスのしっぽを掴んで、ブンブンと振り回していた。
「…………お、おう、残酷で可愛いな……」
リスをもてあそんだ記憶は無いが、自分ならやってそうだなと、はあっと肩を落とす。なんでこんな下らない事を、アインシルトは覚えてるんだと少々気恥ずかしく思った。
「そっか、あんたの夢の中に来ちまったのか」
『何か言いたいことがあるんじゃないのか』
「ああ、そうだな。あるのかもな」
テオが頭を掻いてうつむくと、アインシルトは穏やかな笑みを浮かべてうなずいた。
なあ、あんたどう思う?
オレはドラゴンとの取り引きに自分の寿命を使った。あの当時で残りは十年程って言われたから、今じゃ後三年くらい、かな?
まあ、バカみたいに長生きするドラゴンの言う十年「程」なんて、かなりアバウトで誤差もありそうだ。短い方にずれるのか、長い方にずれるのか、どっちだろうな。
それでも、そう先の話じゃないのは確かだろうさ。おまけをくれるなんて言ってけど、どうだかな。
そんな男と一緒にいたがる女なんて、いると思うか。
これまで何度も縁談を持ち込まれたが、全部断ってきた。王としての責務だなんだの言われても、受け入れるわけにはいかなかった。あんただって、その理由はだいたい分かってるんだろう。
オレはアソーギを焼いた償いをしなきゃならなかったし、生きている限りは救国の魔法使いでありたかった。亡国の王などと呼ばれたく無かった。どう行動するのが最善か探るので必死だった。結婚なんて考える余裕は無かったんだ。
それにな、仮に妻を娶ったとしても、オレの方が確実に先に死ぬんだぜ。若いまま未亡人にしてしまうって分かってて、結婚なんてできやしないだろ。
恋人だって作らなかった。深入りしちゃダメなんだ。ずっと一緒にいよう、なんてオレには言えないからな。いくら嘘つきのオレでも、それだけは言えない。
だから、やっぱり彼女にもさよならしないとな……。オレにいつまでも関わるより、早くもっと相応しい相手を見つけた方がいいに決まってる。
……なのに、迷ってる。
誰にも渡したくないと思ってる。
オレの側にいて欲しいと思っている。
もしかしたら、いてくれるんじゃないかって、期待もしている……。
「一緒に生きよう」でオレをこんなにとろけさせちまうなんて、ひどい女だよな。
彼女を信じて甘えればいいって言うのか?
だかな、彼女は知らないんだ。オレの寿命が短いことを。一緒に生きられる時間は少ししかないって、まだ知らないんだ。
伝えたら、めちゃめちゃ泣くんだろうな……。このくらい自惚れてもいいだろう。愛されてるって、ここは思っておきたいところじゃないか。
もう泣かせたくない。散々泣かせてしまったからな。だから何も教えないで別れるのが、一番いいはず、だろ……。それが彼女の為だから。
『姫はお前が思うよりも、ずっとお強いお方じゃぞ。これが姫の為だ、とお前が一人で勝手に決めてしまう事の方が、姫の為にならんと、わしゃ思うがの……』
アインシルトは、ゆっくりと立ち上がった。そして、子どものテオに手招きをする。
石を幾つも空に浮かべて遊んでいた彼が、嬉しそうに駆け寄ってきた。
『よう、頑張ったのぉ』
彼の頭をよしよしと撫で、抱き上げ頬ずりをする。
『じいちゃん! ヒゲー、くすぐったいよぉ』
『そうか、そうか。よぉ頑張った、よぉ辛抱した。お前は成し遂げた、よくやった。わしの自慢の弟子じゃ。一番の弟子じゃ……』
褒められて無邪気に喜んでいる子どもの自分を見つめているうちに、テオの目が熱くなってきた。
「……バカヤロ……オレは、もうガキじゃねぇってんだ……」
ニッコリ笑う自分と目が合った。幼い自分は、なんで泣きそうな顔してるのと、不思議そうに見つめてくる。
テオの目から、堪えきれなくなった思いが後から後からあふれ出て、止まらなくなった。
*
ヴァレリアは、窓を大きく開けて部屋の中に空気を誘い込んだ。朝の清々しい風が、部屋の中を駆け巡る。
「テオ、今日もいい天気よ」
ベッドを振り返り、声をかける。返事がないことは分かっていたが、ヴァレリアは何かにつけて眠るテオに話しかけていた。
すっかり頬がコケてしまったが、テオは穏やかな顔で眠っている。その前髪を整えながら、微笑みかけた。
「お兄様がね、あなたに会わせろってうるさいの。まだ無理だって言ってるのに。いいのよ、ゆっくり休んでて」
テオはもう十日以上も眠り続けていた。
あの日草原で力尽きたテオは、王宮から繋がる異空間であるアインシルトの幻想の森に運びこまれた。その森の小屋の中で、今テオは眠っている。
ここは厳重な結界が張られた安全な場所だ。この森に連れてきたのはテオを護る為というより、テオから王宮や王国を護る為であった。
というのも一度は人に戻ったものの、ふとしたきっかけで何度もドラゴン化を繰り返してしまっていたのだ。王宮に戻る馬上で変化を始めた時は、リッケンは死を覚悟した程だった。
幸いなことにヴァレリアが彼に触れれば、ドラゴン化は鎮まり人間に戻ってゆくのだが、目を離せないということが分かり、一同に暗澹たる空気が流れたものだった。
テオに意識は無く、身体だけが勝手に変身し暴れだすのだから危険この上ない。一旦、それが始まるとアインシルトにさえテオを押さるのは難しかった。だから、ヴァレリアは片時も離れることなく、テオに付き添うことになったのだった。
最初の二日は凄まじかった。
肌にゾロゾロと鱗が生えだし、牙を剥いて始め暴れだすテオを、ヴァレリアは夢中で抱きしめた。
爪を突き立てられても、牙が襲ってきても、決して逃げることなく彼を抱きしめ、元に戻してやるのだった。
しかし、ようやく治まって、ホッとして身体を離すと、途端に再び鱗が生えだしてしまう。比喩でなく、ヴァレリアは四六時中テオを抱きしめ続けたのだ。
それから数日が経ち、落ち着きを見せ始めた。この三日ほどはドラゴン化することもなく、静かにテオは眠っている。数時間なら彼の側から離れても異変は起こらなくなっていた。
これは目覚めが近い印なのではないかと、ヴァレリアは期待していた。昨夜は何度も長いうわ言を呟いていた。それまでに無いことだった。
毎日、ニコが用意してくれる朝食を、今日もテオのベッドのすぐ横で食べる。
あまり食欲は無かったが、温かいスープを飲むと身体中に染み渡るように心地よくなる。朝まで眠れなかったのに、急に眠気が襲ってきた。
小さくあくびをして、またテオを見つめる。
「今日はあなたの好きなハムエッグよ。うん、最高! 絶妙な焼き具合よ。ニコって天才だわ」
ヴァレリアは、テオが匂いに反応するかしらと、ホラホラと鼻先に皿を近づける。
「美味しいわよ~。早く起きないと、私が全部食べちゃうんだからね」
テオはピクリともしなかった。
ヴァレリアはため息をつき、自嘲気味に首を振った。
「ねぇ、テオ……起きて……」
ヴァレリアはテオの瞼を軽くつつきながら、切なく吐息する。
早く目覚めて欲しい。このまま眠り続けていれば、食事もとれずに身体はもっと弱ってしまうだろう。そうなれば命さえ危うい。
ヴァレリアはそっと唇を彼に近づける。
おとぎ話のように口付けで目覚めはしないかと、既に何度も試していた。そしてその度に、落胆しているのだが、今日もまたおはようのキスをする。
テオの頬を両手で包み込み、ほんの少しついばむように、唇に触れて彼の名をつぶやく。
「テオ、あなたに眠り姫なんて似合わないわよ? 早く起きて、私とナイト役を交代してちょうだいよ」
もう一度軽く口付けると、不意に抱きすくめられていた。
背に回された腕が、ヴァレリアの髪をなで始める。
「え?」
「……君のナイトの方がカッコよすぎだよ……」
「テオ! ああ、やっと……」
「……うん、おはよう」
ニカっと笑うテオの顔が近すぎて、ぼやけている。目がジンジンと熱くなってたまらない。
ヴァレリアはテオにしがみつき、その肩に顔を寄せた。
髪をなでる彼の手が温かい。
「ごめんな。心配かけたよな……」
「テオ…………」




