45 新しい日
東の空が白く光り、地面近くの雲のすき間から太陽が顔をだした。
幾筋もの光線が差し、草原をキラキラと輝かせていた。
「良かった……戻ってくれて……」
ニコはテオの傍らにドスンと膝をついた。その顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになっている。そして安堵から全身の力が抜けて、土下座するように項垂れるのだった。
そのすぐ横で、ヴァレリアは優しい光を与えながら、テオの頭を撫で続けている。
彼らの上に朝日が柔らかく差し、草原には穏やかな静寂が訪れていた。
アインシルトはその光景を目に焼き付けてから、天を仰いだ。零れそうになる熱いものを懸命にこらえていた。
そして、長い夜がやっと終わったと、一人何度も小さくうなずいていた。
ビオラやジノスをはじめとする魔法騎士団たち、全てを目撃していた彼らも、次々と脱力して腰を落としていった。誰も何も言わず、だが安堵に顔を緩ませていた。
テオの背がブルルと震えたのを見ると、ニコはハッと我に返ってジャケットを脱ぎ、彼にそっとかけてやる。
「大丈夫ですか?」
テオの肩に手を置き覗き込むが、ヴァレリアの太腿に顔を埋めているテオの表情は全く見えない。身体は元に戻ったが、心の方も本当に今まで通りのテオだろうかと少し心配になった。
怪我も酷く、消耗が激しいのだろう。テオはピクリともしない。
ニコは早く彼をベッドで休ませてやろうと、腕を取り背に担ごうとする。
「……おい、待て…………その前になんとかしろよ」
小さな声でテオが抵抗した。
途端に、ニコの顔がパッとほころぶ。
「気が付いてたんですね、よかった。でも、何とかしろって何を……」
「こんな小さな上着…………ケツまる出しはともかく、前は……色々とまずいんだよ。気が利かねえなぁ」
ぐったりしているくせに、ブツブツと文句だけははっきりと言った。
「………………」
ポカンとニコの口が開き、ヴァレリアと目が合うとパチパチと瞬いた。頬が緩み、唇がブルブルと震えはじめる。そして、二人同時に笑いだした。
なんて偉そうな言い草だろう。
心配せずともちゃんと元通りのテオだ。から元気を出しているだけだろうが、いつものオレ様節が聞けて本当に良かったと思うニコだった。
さっきから彼が丸まったまま、身体を起こさないのはそういうわけかと、笑いを必死に噛み殺す。無論、彼が全裸を嫌がったのは、羞恥からというより目の前にいるヴァレリアへの配慮なのだろうが、なんだか可笑しくてならなかった。
ニコがジャケットに魔法をかけると、ぐんぐんと大きくなっていった。特に裾が長く伸び、ローブのようになる。
「これでいいですか?」
「おう……ついでにベイブの服も直せよ。じろじろおっぱい見てんじゃねぇぞ」
「はい……って、み、見てませんから!」
ぱあっと赤くなるニコだった。よくこんな時に、そんな軽口がきけるもんだとあきれた。
ヴァレリアはというと、絶妙な破れ方でかろうじてお義理程度に隠されていた胸を、慌てて腕で覆うのだった。そして彼女の服は、ニコの魔法のおかげで即座に修復された。
ジャケットに腕を通したテオが顔を上げると、ヴァレリアと目が合う。二人はどちらからともなく、笑みを交わした。
テオの顔は傷を負い疲れはてていたが、瞳は力強く輝いていた。
「本当はこのまま、太ももの枕で寝たいんだが……そうもいかないようだし」
戯言を言いつつ、ヴァレリアからすっと視線をそらした先には、苦しげに膝をつく騎士がいた。
片腕を失い、腹に大穴を開けながらも、地面に突き立てた剣を支えにしながら、懸命に顔を上げてテオを見ていた。その顔がふっと笑みを灯す。
「よくぞ戻った……」
「彼女が助けてくれただけだ」
「それでもいいではないか……。で、ドラゴンとの新たな契約は……結んではいないようだな」
「ああ、もうこりごりだ……」
「確かにそうかもしれん」
穏やかに笑う騎士の顔は、やはり自分に似ているとテオは思う。そして懐かしさも感じるのだった。血筋を遡れば彼に繋がるのだから、似るのも道理かも知れないが、自分よりも違う誰かに似ているような気がするのだ。
テオはゆっくりと立ち上がった。
両脇をニコとヴァレリアに支えられて、騎士の元へと歩み寄っていく。
騎士の遠く背後に、無残なユリウスの遺体が見えると、テオはいたたまれず目をそらした。
友は本望だと言ったが、生きていて欲しかった。だが、自分が手を下さずとも、彼の命が長くはなかったはずだ。そして、分かっていながら彼の望みを叶えることを迷ったせいで、結果犬死させてしまった。ユリウスにアンゲロスを倒させてやれなかったことを、テオは悔やむのだった。
一体、自分のどこが救国の魔法使いに値するというのだろう。
いつも誰かに助けられてきた。
デュークをはじめとする精霊や、アインシルトにリッケン、ジノス。彼らなしでは何もできなかった。
そしてヴァレリア。
彼女がいなければ、何一つ解決できなかっただろう。
それからニコ。
彼がいたから、慕ってくれたから、強くなろうと思えた。
ずっと、一人で全てを背負っていると思っていた。
だが、そうではなかった。肩を貸してくれる人が、いつも傍にいてくれた。
テオの胸が、ぐっと熱くなる。自分は幸せ者だと、心の中で感謝をつぶやいた。彼らがいて初めて、自分は救国の魔法使いたり得たのだと。
そして決して友を忘れまいと、彼の笑顔を胸に刻むのだった。
ほんの数メートルを足を引きずるようにして、ようやく騎士の前までたどり着いた。
テオは大きく息をして、それから静かに問いかけた。
「あなたは何を望む?」
その答えはもう分かってはいたが、もしも再びあの墓所で眠りにつきたいと望むならそれでもいいと思った。あの二つの顔を持つ女と共に眠らせてやってもいい。墓守のゴブリン達が、永遠に彼らを護ってくれることだろう。
「破魔の力を貸してくれればいい」
テオの想像した通りの答えが返ってきた。騎士の顔は穏やかで、しかし揺るぎない決意に満ちていた。
「わしとアーリティは、千年の昔に滅んでいたはずの身だ。本来あるべき形に戻る時が来た」
「……だ、そうだ」
テオがアインシルトに目配せを送ると、老師はサッと魔法騎士団の集団へと引き返してゆく。騎士の意を汲み、彼の連れ合いを迎えに行ったのだ。
「ベイブ……あとひと仕事頼まれてやってくれ」
騎士を見つめたままテオは言った。そして、最後にたずねておかなければならないことを口にした。
「救国の魔法使いは、その役目を果たせたか?」
「もちろんだ」
「だが、もう一つの予言はどうなる? 亡国とは一体なんなのだ。オレが王冠を戴いている限り有効だというなら……」
テオはハッとして、途中で言葉を切った。そしてアインシルトが歩いていった先を見つめる。自分のすべきことがようやく分かった気がした。
騎士がニッと笑う。
「……それも一つの正解だろう……」
騎士はヴァレリアへと視線を移した。
「力を貸してくれ」
ヴァレリアは少し悲しげに首をかしげていた。騎士が生来の魔性ではないことは、彼女には身にしみて分かっていた。盾となって守ろうとしてくれた感謝もある。アンゲロスに取り憑かれても、狂乱したテオが襲いかかっても、懸命に護ろうとしてくれていたのだ。
その彼を滅ぼさなければならないのかと、切なく想うのだった。
アーリティを振り返ると、アインシルトの指示でビオラが彼女を抱き起こし、こちらを見ていた。
騎士団の一人が抱え上げ、こちらに歩いてきた。
「不安に思うことはない」
テオはヴァレリアの肩に手を置き、ささやいた。
「愛し合う二人を一つにしてやるんだと思えばいいさ。ロマンチックだろ?」
アーリティが騎士の前に到着した時、雲が切れ眩しい朝日が草原を輝かせた。
キラキラと無数の光の粒が踊り始めた。姿を隠していたピクシーたちが、何処からともなく現れて笑いさざめきながら、草の上を飛び回っていたのだ。
彼女たちは、新しい一日の始まりに喜びの歌を歌っている。
「アーリティ……」
「お前様……」
髑髏の骸でも、妖魔でもない、一組の夫婦がいだき合う。
テオに伴われたヴァレリアがおずおずと手を差し出すと、パァーッときらめきが広がった。
彼らも握り合った手をヴァレリアに向ける。
一瞬、触れ合う三つの手。
光が溢れだした。
真っ白な光があっという間に騎士とアーリティを飲み込み、彼らの姿は誰からも見えなくなる。光は丸く大きく膨らみ、輝きがどんどんと増してくる。
テオはヴァレリアの手を引いて後ずさっていった。そして、ああとため息をついた。騎士に似ている人をやっと思い出していた。
――親父だ……。親父に似てたんだ。
テオはヴァレリアの手をぎゅっと握りしめた。
「テオ、本当にこれでよかったの?」
「これでいいんだ」
パシンッ!
乾いた音がして、球状の光の上部から光線が垂直に天に向かって走った。そして上空でも、パシンッパシンッと何度も白い火花が散った。うす青い空にいくつもの光の花が咲き、どんどんと登ってゆく。
ワッとピクシーの歓声が上がった。
「サヨナラ」
「ヨカッタネ」
「モウサミシクナイネ」
「サヨナラー!」
地上の光が消えると、そこにはもう誰もいなかった。
ヴァレリアは息を飲んでその光景を見つめた。つないだテオの手が消えないようにと、握り返しながら。
「……終わったようじゃの」
アインシルトがつぶやくと、胡座をかいて耳をほじっていたデュークがつまらなそうな声を上げた。
「せっかく面白い展開になったのに、人間に戻ってしまうなんて、がっかりですよ! あの方はドラゴンの王となって、魔界制覇をするべきだったんです!」
「口のへらん奴じゃの……なんだかんだ言いつつ、手助けしておったくせに」
「おや? そうでしたかねえ?」
小石をつまんでテオに向かって投げつけると、ケッとそっぽを向いた。
クスリとニコは笑い、アインシルトの言うことに納得していた。
言い方や行動はともかく、確かにデュークは要所要所でアドバイスを与えていたと思うのだ。
つい先程にしても「魔王になった!」と大笑いしてニコを逆なでしたのだって、すぐにテオの所へ行って彼を元に戻せ、という意味だったのだと今なら分かるのだ。
テオの意思に沿うように、ニコや周りの者たちの望みに沿うように、皆を導いていたのだから、この結果はデュークが作ったものでもある。
今の彼は、不満げなポーズをとって見せているだけのようだ。
テオもアインシルトの言葉にうんうんと頷き、苦笑を浮かべた。
「……だったら、お前がひとりで魔界討伐でも何でもすればいいだろう? もう用済みだし、なんなら解放してやるぜ」
テオが肩をすくめてそう言うと、デュークは目を剥いて立ち上がった。
そして真顔でがなりたて始めた。
「用済み、だぁ?! あのなぁ! 人の真名を奪っておいて、何言ってやがる! 解放するだとぉ! できる訳無いだろうが! 真名忘れちゃった~、じゃあさよなら~って、できるとでも思ってんのか、バカか! ヘタレか! 真名を何だと思ってやがる。絆だぞ! 魂の絆なんだぞ! お前が死ぬまでつきまとってやる! 絶対しつこく居座ってやる! 覚悟しやがれっ! このクソッタレめ!」
ムキになるその物言いは、まるで解放してくれるなと言っているようだ。
その姿は必死さに溢れていて、滑稽にすら見える。
「お前……なに、焦ってんだ?」
テオが呆気に取られていると、デュークはクソッと足をガンガンと踏み鳴らした。そして牙を剥いた顔を真っ赤にそめて空に舞い上がり、一目散に飛び去ってゆくのだった。
「はぁ?」
呆然と見送るテオの横で、ニコもポカンと口を開けていた。
「……えっと、今のって……もしかしてデューク、テオさんのこと、大好きだったりするんですか?」
「……オ、オレにきくな…………気持ち悪くて、寒気がしてきた……」
そう言うと、テオは本当にガタガタと大きく震え始めた。
ニコは慌てて彼を支える。
ヴァレリアもぎゅっと手を握った。
「テオ大丈夫? 冷たい手……」
「大丈夫……って言いたいところだが、もう限界だな……」
よろけてニコにおぶさるように体重を預けてきた。
「テオさん?」
ニコは懸命に支えるが、そのままテオは倒れ込んでしまう。
そして目を閉じて、つぶやいた。
「悪いな……後は任せる」
全身の力が抜けると、途端にテオは意識を手放した。
「お疲れ様でした……ゆっくり休んでください」
*
アインシルトの指示のもと、騎士団たちは慌ただしく王宮へと引き返していった。
真っ先にリッケンは、テオを担ぎあげると馬に跨り駆け出してゆく。その後をニコとヴァレリア、そして数騎の騎馬が追った。
腕を失ったジノスを始め、怪我人たちもゾロゾロと退却してゆく。その集団の中から、ビオラがアインシルトに近づいてきた。
「アインシルト様、お話しが……」
辺りをはばかるように小声で言った。
「ニキータ様のことで」
アインシルトは、ハッと周囲を見回した。彼女と共にいたはずの少年がいないことに、今更ながらに気が付いたのだ。
「どこへ?」
「先程の闘いの折に、アンゲリキが生きている、との言葉を耳にされた途端……行ってしまわれました」
「なんと……」
「申し訳ありません。お止めする間もなく……」
ビオラは深く頭を下げ、更に声をひそめて言った。
「アンゲリキのもとへむかったのものと。助けるのだとおっしゃってました」
「そうか……アンゲリキをの」
アインシルトは肩を落として、ため息をついた。やはり彼をこちらに留めて置くことは不可能なのかと、やるせなく思った。
「しかしアインシルト様。彼はもう、魔女の呪縛からは解放されています。ヴァレリア様に浄化されましたし、魔女の方も魔力を失くしているのです。最早、王国に仇なすこともないでしょう。彼は名もなきただの少年になったのです。ですから……どうか追わずに……」
ビオラの報告は、嘆願に変わっていた。ニキータが捕らえられ、罰せられることを恐れているようだった。いくら、アインシルトやテオが許そうとも、彼が魔女に魅入られた第二王子であり、多くの犠牲を産んだ黒い獣の正体であることが、公になればただでは済まされないことは明白なのだ。
苦しげにうつむくビオラに、アインシルトの頬が緩む。彼女がわざとニキータを見逃したのだと察したのだ。
恐らくこの後ニキータはアンゲリキを救い出し、二人でこの国を去ってゆくことだろう。そして二度と戻って来ることもあるまい、そう思うアインシルトだった。
ビオラは再び周囲に視線を走らせ、つぶやく。
「誰にも見咎められてはいないと……」
「そうか……仕方ないのぉ。天国までは、誰も追いかけられはせん」
「え?」
「ニキータ様は破魔の巫女の力に浄化され、この場で消滅してしまわれた。そうじゃろ?」
髑髏の騎士とアーリティが消えさった草の上を、サッと風が駆け抜けてゆく。
アインシルトは朝日を浴びて揺れる草を、目を細めて見つめる。そしてビオラに背を向け、退却してゆく兵士たちのもとへとむかった。
「ビオラ、感謝するぞ」
「アインシルト様……」
くしゃりと顔を歪ませ、ビオラは頭を下げた。そして再び顔を上げた時には、キリリと頬を引き締めていた。




