43 悲痛な叫び
握りしめたドラゴンの手の中から、細い煙がすうっと昇り、瞬く間に消えてしまった。
あっけないほどに、炎の魔物アンゲロスはこの世から消え去っていた。
「いやあ、めでたい! 皆さーん、アンゲロス君は今死にましたよぉ。良かったですねえ!」
能天気な声で、デュークはアインシルトたちに向かって叫んだ。
為す術もなく立ち尽くす彼らは、デュークの言葉の真偽を確かめることもできない。それよりも自分たちの王がドラゴンに身を変えたことへの動揺が大きすぎ、何がめでたいものかと胸の悪くなる思いをしていた。
ニコも思わず拳を握りしめて歯噛みしていた。
デュークは「ちゃんと聞こえてますか? 役立たずの皆さん」などとふざけた煽りをしながら、バサリと飛び上がった。
そして、ニコを見つめながら近づいてくる。
「そしてそして、更にめでたいことが!」
ニコの目の前に、もうもうと土埃を立てて降り立つ。
彼の心を逆なでするようにドラゴンを指差しギャハハと笑った。
「魔王誕生ですよ! わが主が、ついに魔王になってくれちゃいましたよぉ!! ほら、ほらあ!」
ドラゴンはアンゲロスが消えた後も、騎士の身体を押さえつけたままだった。彼は、次の獲物に気がついてしまったのだ。
ヴァレリアを見下ろすドラゴンの口からは、血の混じった涎がぼたぼたと溢れ出していた。
「ゴルウゥゥ……」
喉を鳴らし、長い尾で地面をバシンバシンと叩く。
赤い瞳をギラギラと光らせながら、ヴァレリアを見ていた。
「……テ、オ……」
乾ききった喉からは掠れた声しか出てこない。
全身がガタガタ震えていた。ドラゴンが放つ禍々しい瘴気にあてられて、息をするのもやっとだった。
この恐ろしいもの、忌まわしいもの、黒のドラゴンと呼ばれるもの。
これがテオだということが、彼女に絶望を与えていた。
「お願い……戻って」
アンゲロスは消えたのだ。目的は果たしたのだから、どうか元のテオに戻って欲しい。
ヴァレリアは震える声で哀願していた。
もしかしたら、あの牙で噛み砕かれてしまうのだろうか……そんな恐怖もあった。自ら進んで死にたいとは思っていないのだから、当然のことだろう。だが、純粋に己の死が怖いというよりも「テオに食い殺される」ことが恐ろしくて悲しくてたまらなかった。
あんなにもミリアルドへ帰れと繰り返し、護ろうとしてくれたテオが、狂乱のまま自分を殺してしまうなんて無惨極まりないと思うのだ。ドラゴンの中にテオの意識が残っているといたら、彼の悲憤は計り知れないだろう。
それは自分が死ぬよりも耐えられないことだった。
テオに決して自分を殺させてはいけないと思うのだ。
ドラゴンとなった彼に破魔の巫女である自分が触れ続ければ、きっと妖魔を滅したようにアンゲロスを滅したように、彼も消えてしまうのだろう。そのことも恐ろしかった。
どうすればいいのかと、ヴァレリアは首を振る。
気がつけば騎士の身体がゆるゆると動きはじめていた。
ヴァレリアは仰向けのまま、じっとドラゴンの瞳を見つめている。テオに正気に戻ってくれ、人間に戻ってくれと願いを送っていた。
「ガギギ……」
牙をこすり合わせるような音を立ててから、ドラゴンは大きく口を開いた。生臭い血臭漂う呼気を吐き出し、ヴァレリアに鋭い牙を振り下ろした。
突然騎士が起き上がり、ドラゴンからヴァレリアを隠すように身を呈して盾となった。
立ち上がる寸前の片膝をついた騎士の肩口に、ドラゴンの牙が突き刺さる。
アンゲロスが消えた今、彼の肉体はもう再生されることはなく、腹から大量の血液とと臓腑をこぼしていたが、ドラゴンの腕を掴み懸命に押し返そうとしていた。
「貴様の決意とは、この程度で挫けるものなのか!?」
騎士はドラゴンの中にテオを見つけようと、声を張り上げる。だが、喰らいついた顎は骨を噛み砕き、肩から先をブチリと引きちぎっていた。
騎士の腕を咥えたまま、ドラゴンは天を仰いでグルグルと喉を鳴らし続ける。
その瞳から、ボロボロとあふれ出くるものがあった。真っ赤に光る目から、血の涙を流していた。
騎士は残った腕でヴァレリアを引き起こし、少しでもと遠ざける。その目は痛ましげにドラゴンを見つめていた。
――頼む、どうか彼女だけは殺さないでくれ!
テオは叫んでいた。その声は騎士にもヴァレリアにも、誰にも聞こえはしなかったが、彼は喉も裂けよばかりに叫び、懸命の懇願と抵抗をしていた。
それは、ゴウゴウという咆哮となって白く染まりだした空に響き渡っている。もう夜が明けようとしているのに、この草原だけは漆黒の闇がわだかまったように陰惨な光景を晒していた。
テオの内部にドラゴンは巣くう。その返答は無慈悲だった。
彼の心に突き刺した鉤爪を、更にグリグリとねじ込んでゆく。
――他の人間なら食い殺してもいいのか? だがお前が本当に喰いたいのはこの女だろう?
せせら笑う内なるドラゴンに、テオは必死に抗う。
――馬鹿な、喰いたいものか! オレは彼女を護りたいんだ。
――わしには見えるぞ。お前の欲望が。この女が欲しいんだろう?
テオに応える間をあたえず、ドラゴンは騎士を薙ぎ払いヴァレリアに鉤爪を振るった。すると彼女を包んでいた、バリアが全て消え去ってしまった。
悲鳴を上げるヴァレリアに再度爪を振るうと、服がバリバリと破けて白い肌が露出した。
――やめろー!
――わしにはお前の全てが見えているぞ。王国や他人のことなど、もうどうでもいいんだろう? この女が欲しいだけだろう? 犯したいんだろう? 喰いたいんだろう? 喰えばいい。お前のものにすればいい。
ドラゴンの瞳が赤く燃え上がり、ヴァレリアを求めた。
あの柔らかな肌に喰らいついたら、どれ程の快楽を得られるだろうか。泣き叫ぶ悲鳴は、どれ程愛らしいことだろうか。甘く誘いかける肉の匂いが堪らない。全部食べてしまいたい。
止めろ止めろとテオの心が叫ぶ。止めてくれと哀願する。
彼女を愛しく思う気持を、狂った欲望に書き換えられるのは、耐え難い恐怖だった。愛しく思えば思う程、大切だと思うほど、破壊したい衝動が強まる。それが恐ろしくてたまらなかった。
ドラゴンは立ちふさがる騎士を跳ね飛ばし、ヴァレリアの細い身体をダンと押し倒した。ゴウゴウと止まらない獣の叫びは淫靡な悦びに満ちて、狂気そのものだった。
ヴァレリアは、懸命に頭を振りテオの名を叫んだ。
「テオ! 戻って! テオー!」
*
「……私は構いませんが、あの女、このままじゃ食い殺されちまいますよ? いいんですか?」
デュークがニコの顔を覗き込んでニタリと笑う。
いいわけがない。
ニコが弾かれたよう走りだした。同時に飛び出していたアインシルトよりも、遥かに早くテオの元へと走っていた。
ヴァレリアを大地に組み伏せて、雄叫びを上げるドラゴンの身体が、ジュウジュウと白煙をあげる。溶け始める腕。ドラゴンはそれにさえも喜悦の咆哮を上げていた。
「テオさん! テオさん!!」
泣きながらニコは走っていた。
騎士が自らの剣を拾い上げ構えるのが、目の端に写っている。彼が狙っているのは、ドラゴンの首だった。
「テオさん! 戻ってください! お願いだから!」
無我夢中でドラゴンの背に飛びついていた。このままでは騎士に殺されるか、破魔の力に殺されてしまう。そして、ヴァレリアを殺してしまう。なんとしても止めなければならない。
拘束の魔法、光る鎖を両手から繰り出しドラゴンの動きを封じることを試みる。鎖はすぐに弾き飛ばされてしまうが、ニコは何度も繰り返し、テオに戻ってくれと叫び続けた。
「僕の声に応えて! テオさん!」
「ガガガァァ!」
ドラゴンの体表を、バリバリと稲妻が走り抜けた。
吠えるドラゴンの目がぎろりとニコを振り返っていた。そして振り落とそうと背を揺らし、またヴァレリアに向かって牙をむいた。
だが、再び鱗の上を白い閃光がひび割れのように走ると、ドラゴンの動きが止まっていた。
白く細いヴァレリアの手が、獣の頬を撫でている。震えながらゴツゴツとした頭を抱きしめようとしていた。
彼女の首には牙が浅く突き刺さり、血が流れてだした。
ドラゴンが不意に口を離した。
フルフルと震えながら、顔をあげる。ギギギと歯ぎしりをした後、叫んだ。
「ニ……ニコォー! オレを、オレを殺せ! 殺してくれぇ!」
異音の混じる、聞き取りにくい声だったが、紛れもないテオの声。悲痛な叫びだった。ベイブを殺してしまうその前に、自分を殺してくれと彼は叫ぶ。
「ベ、イブを、護れ、い、言っただろ! ああ、があぁぁ……誰も、容赦する、なと……あぁぁ!」
苦しげな叫び。己の意志を保つことが非常に困難で苦痛を伴うのだろう。鋭い爪で喉をかきむしりながらニコに懇願していた。
「頼む! 殺して、くれ……ベイブを、護ってくれ……」
だがドラゴンはゴウと吠え、ニコを振り払おうと後ろ足で立ち上がり、翼をバサバサと振るう。ヴァレリアを抱えたまま暴れだす。
ドラゴンの身体から湧き出す白煙が、ニコの目にしみ突き刺すような痛みを与える。振り回される尾に背中を何度も殴られる。
それでもニコは決して離れない。
「何言ってるんだ! がっかりさせないでくれよぉ! あなたが護らなちゃ、誰に護れるっていうんだ! 僕に、あなたを見損なわせないでくれよぉ!」
ドラゴンの背をゴンゴンと殴りつけ、泣きながら叫んでいた。
テオにベイブを殺させたくない。テオを殺したくもない。二人を失いたくない。
ニコは必死に、ドラゴンをベイブから引き剥がそうと、全力で拘束の魔法を叩き込むのだった。
「テオさん!」
「……ニコ……殺して、くれ……」
ジュウジュウと物凄い勢いでドラゴンから煙が上がる。それでもヴァレリアに執着して決して離さない。彼女の首から胸の膨らみに伝ってゆく幾筋もの血に、ドラゴンはまた魅せられてガチガチと牙を鳴らしはじめるのだ。
「ニコ! 離れるのじゃ!」
アインシルトの声が響いた。老師の杖は既にバリバリと火花を散らしながら、ドラゴンの頭に照準を合わせている。
老魔法使いの顔からは一切の感情を読み取ることはできず、ブレることなく差し出された腕には、強い意志が込められていた。
ニコの目が驚愕に見開く。
「ま、待って下さい!」
ドラゴンをかばって立ちふさがった。
アインシルトがテオを殺すというのか。ドラゴンがヴァレリアを殺す前に、暴れだし王国に害をなす前に、殺すというのか。
反対側からは、騎士が剣を構えてドラゴンに照準を合わせている。
もうテオは戻れないと、彼らは判断したのかもしれないが、ニコにはそんな非情な判断はつけられない。希望はあると信じたいのだ。
剣を構えた騎士が足を引きずりにじり寄ってくる。
崩れ落ちそうな身体であっても、その眼光は鋭くテオをしっかと見つめている。彼の動きに注視し、より良き展開を期待しながらも、冷静な判断を忘れることはないと、静かな瞳で語っている。
「ドラゴンを調伏できるなら、むしろその者にとっての光明となるかもしれん……。だが魔に落ちるなら、致し方あるまい」
騎士の言葉に、ニコは思いきり首を振る。
その背後からヴァレリアのつぶやきが聞こえてきた。
「今度は私が元に戻してあげる番よね……私が護ってあげる」
ヴァレリアが、ドラゴンを抱きしめていた。
彼女には、先ほど騎士が言った言葉の意味がやっと分かったのだ。お前の力は『護る』力だと、護りたいと思う気持ちがあるなら何も迷うなと、彼は言った。
テオを護るのだ。そう思えば迷うことなど何もなかった。
懸命に腕を伸ばしドラゴン抱きしめる。破魔の巫女の力がドラゴンをどんどんと溶かしてゆくというのに、彼女は愛おしげに抱きしめ続けるのだ。
テオの心をドラゴンから護れるのは、自分だけなのだと固く信じて。
「グゴオオォォ!」
また激しく吠え上げ、ドラゴンも彼女を抱きしめた。荒々しく爪を立て肌を切り裂いて、幾筋もの朱線を彼女の背に描き出す。そして背骨が折れてしまうのではないかという程、また抱きしめた。ヴァレリアは眉をしかめながらも、それを受け入れていた。
溶けゆくドラゴンは一回りほど縮んでしまっている。ここに至ってようやく苦しげな呻きを上げ始めた。




