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黒のドラゴンとブロンズ通りの魔法使い  作者: 外宮あくと
第三部 罪と力と代償と
137/148

42 黒のドラゴン、狂乱

 ゴゴゴォォォォ!


 喉を垂直に立てて、ドラゴンが咆哮する。

 すっかり動きを止めていたアンゲロスだったが、突然と呪縛が解け慌ててヴァレリアを盾にした。

 ドラゴンは吠え立て、空に向かってゴウゴウと炎を吐く。血のように赤い目をギラギラと光らせ、足を踏み鳴らしていた。




 

 異界に住む者の真名を手に入れれば、その能力も命も全て支配することができる。命令一つで自在に操ることが可能になるのだ。

 だが真名を知らなくても、能力だけを自分のものにする方法もある。彼らの身体の一部を取り込むのだ。

 テオがデュークの目玉を喰らったように、アンゲロスがドラゴンの鱗をかじったように。


 この事は以前から知識として知られていたが、伝説のような前例しかなく、近世で試した者は皆無だった。そもそも異世界に住む妖魔や精霊などの身体の一部を奪うなど、たやすくできることではないのだ。

 だが、テオは既に身をもって体験しているし、今しがたアンゲロスも実行した。人に非ざる力を手に入れられることを、この二人が証明してみせたのだ。


 テオはこの行為が、大きな代償を伴うことも承知していた。デュークの件で体験したように、己の精神が異界の者の側に引き寄せられ冒される危険性があるのだ。肉体だけでなく、精神も変容しかねない。

 それでも、テオには力が必要だった。既にデュークを身の内にしたことで、常人よりも遥かに高い身体能力と、肉体を手に入れていた。

 だが、それでもまだ足りないのだ。

 騎士の大剣がまとう妖気には、騎士本来のものに加えてドラゴンの力も混じっている。アンゲロスがドラゴンの能力を僅かではあるが取り込み、その上で騎士に入り込んだためだ。


 このままでは、勝てない。

 勝てないという事は、インフィニードに厄災がまき散らされ、滅んでしまうかもしれないということだ。

 いやそれよりも、テオにとって一番耐え難いのは、ヴァレリアをこの場で失うかもしれないことだ。あってはならないことだった。


 魔法攻撃を使わずにアンゲロスを倒すには、まず物理的に騎士の身体を破壊してしまえばいい。ヴァレリアを取り戻してしまえば、後は簡単だろう。要するに、人間を超えた強靭な身体と剛力があればいいのだ。

 それは即ち、ドラゴンとなることだった。


 彼女を護る為なら、何だってやってやる。自分の身体が壊れようが、心が壊れようが、彼女を護りきった後なら、どうなろうと構わないと思った。戻れなくなっても構わなかった。アインシルトなら、キチンとケリをつけてくれるだろう。デュークに命じてもいい。

 どうせ幾ばくもない命なら、彼女の為に捧げるも悪くないと心の底から思った。

 だから、ドラゴンの鱗を喰らうことに、なんら躊躇することはなかったのだ。むしろ、もっと早くこうしておけば良かったと思うほどに。


――ベイブ……なんで君はいつもいい匂いがするんだろうな。その匂いを嗅ぐ度に、オレは胸の奥がチリチリしてたまらなくなるんだ。今もそうだ。目眩がするよ。君の匂いが甘すぎて、強すぎて…………これ以上は苦しくなるから、どうかもう見つめないでくれ。

 こんな自分勝手なオレなんか見てたら、目がくすんじまうぞ。折角、綺麗な瞳をしてるのに、もったいないじゃないか……。もっと他のものを見た方がいいんだ。









 ニコは愕然と立ち尽くしていた。

 見る見るうちにドラゴンへと姿を変えるテオを、信じられないと頭を振りながらただ見つめるしかなかった。


 テオは、七年前ニコの両親を死に追いやったあの黒のドラゴンそのものに変化していた。大きさこそ違えど、漆黒の身体に血のような真紅の瞳、そして全身から放たれる禍々しい妖気は、忘れもしないあのドラゴンのものだ。

 ドラゴンの力を手に入るなんて素晴らしい、そんな呑気な事を考えられるわけもない。恐怖に心臓を鷲掴みにされていた。

 テオの身に怖ろしいことが起きていると、頭のなかで警報が鳴っていた。


「ああ、なんということじゃ……あのような姿になっては、身も心も人に戻れぬかもしれん……」


 アインシルトは不吉なつぶやきをこぼした。

 拳を握りしめ、老師はドラゴンとなったテオを見つめている。

 テオが人でなくなるというのか。もしそうなったら、どうすればいいのか。ニコは痛いほどにバクバクと脈を打つ米噛みを押さえて、荒い呼吸を繰り返していた。


「テオドールよ。狂うなよ……もしも狂うてしまったら、わしは……」

「テオさんは、大丈夫です! 僕は信じてます!」

「そうじゃの……じゃが万が一、テオドールの心が消えてしまったとしたら、わしはあのドラゴンを殺さねば……」

「そ、んな……」

「……テオドールを亡国の王にしてはならんのだ。決して」


 アインシルトは苦しげに言った。

 テオが黒竜王として振る舞う時、細心の注意を払っていたことを、彼は誰よりもよく知っている。己の行動が回りまわって、王国を滅ぼす一歩になるかもしれないと、恐れていたことも。

 そしてアインシルトは、テオから重要な仕事を託されているのだ。

 自分が王国にとって危険な存在になった時は、迷わず殺してくれと。









 ググ……グゴオオォォ!


 ドラゴンが吠える。

 身体の奥底から湧き上がってくる強い力に歓喜を覚えて、ゴウゴウと続けざまに吠え立てていた。


 ガッと後ろ足で立ち上がり、尾で地面をバシンと叩いた。

 ゆうゆうとアンゲロスを見下ろす。

 そして、突然と動いた。


 それはまるで黒い疾風のようで、一瞬の内にアンゲロスを前足の爪の餌食にしていた。バリバリと骨が砕ける音がした。

 しかし、アンゲロスの抵抗も激しい。ヴァレリアを盾にしながら巧みに剣を振るい、火炎弾を放っていた。

 だが、ドラゴンの前に彼の魔法は無力だった。線香花火が瞬く程の威力でしかない。


 ドラゴンとなっても、テオは魔法による攻撃はしない。だが、全ての魔法を使わないわけではないのだ。ヴァレリアの護る障壁をさらに強化させていたし、敵の攻撃を無効にする呪文も使っていた。


『クソォ! 我ハ負ケヌ、我ハ死ナヌ! アンゲリキト共ニ……』


 ドラゴンは喚くアンゲロスを押さえつける。

 ヴァレリアを傷つけないように細心の注意を払いながら。


 テオはドラゴンに飲まれることなく、己の意識を保っていた。以前ドラゴンの身体を借りた時のような、抵抗を受けることもなかった。

 身体はドラゴンとなっても、心は自分のままでいられることに大いに満足していた。これなら、すぐにヴァレリアを開放し、アンゲロスを消し去ることができると。

 

 強情にもヴァレリアを掴んで離さない腕を、ギリギリと捻り上げる。

 自分に似た顔が苦悶に歪むのを、不思議な気分で見つめながらグゴウと唸る。

 大きく開いた口に牙がギラリと光らせた。

 容赦なく肩口に齧りついた。


『グアァ!』


 アンゲロスの叫びを聞きながら、牙をめり込ませてゆく。

 口中に血の味が広がった。


 途端に、バチンと何かが弾けた。


 ドラゴンの動きが止まる。


 むんとした匂いが、鼻腔の這い上がり脳髄をビリビリと刺激する。

 ゾクゾクと背筋を這い上がってくるものがある。

 ドクンと大きく鼓動がなり、全身に電撃が走った。それは恐怖でもあり、快感でもあり。

 グルルルと喉の奥で低く唸り、カッと真紅の瞳が光りだした。

 

 ドラゴンが動き出す。

 バキリ、ガジュリと肉を噛み、骨を砕いた。

 血が香る。

 血が香る――。

 甘美なこの血の香り!


「ゴオオオォォォ!」


 つんざくような咆哮が、喉をついてほとばしった。

 肉を食いちぎり、ゴクリと飲み込む。

 これが血の味肉の味かと昂ぶり、いかがわしい陶酔感にクラクラと堕ちてゆく。

 もっと、もっと欲しいと、欲望が止まらない。


――お前がわしになると言うのなら……覚悟はできているのだろう?


 黒のドラゴンの声が頭の中に鳴り響いた。

 テオは鈍器で殴られたような衝撃を感じた。ドラゴンはやはりすぐ側に居たのだ。テオの意識を侵食しようと手ぐすねて引いて待っていたのだ。


 テオの心に、ドラゴンは容赦なく鉤爪をぐさりと突き立て、ギュッと握りしめた。


 ギリギリと食い込んでくる精神の楔は、容赦なくテオの心を異界の深淵に引きずり込もうとする。

 以前、ドラゴンの身体を借りた時の比ではなかった。

 内から沸き起こってくる、昏く獰猛な衝動がテオの中で暴れまわる。無理やり押し込められて、圧縮されていたものが勢いよく噴き出してくるようだ。己が飲み込まれてゆく恐怖にテオは身もだえた。

 

――待ってくれ! あともう少しだけ、オレのままでいさせてくれぇ!!


 テオの懇願は咆哮となってほとばしった。


「グガガガアァァァ!!」





 ドラゴンはアンゲロスを掴みブンと振り回して叩きつけた。

 もう囚われたヴァレリアのことはお構いなしにだった。

 ドドンと背から落ちる騎士の身体が、皮肉にも彼女を護っている。それは偶然でもなければ、もちろんアンゲロスの意志でもない。騎士の意識はまだ消えることなく、ヴァレリアを護っているのだ。


 デュークはドラゴンの周りを飛び回っていた。

 ヒャッヒャと笑いながら、敵も味方もなく鋭い爪のナイフを何発も撃ち込んでいた。


「ああ、貴方はこうでなくては! 人間なんてやめちまえばいいんです! これでこそ我が主、我が魔王だ! 狂えばいい、壊せばいい!」


 ドラゴンの背に命中したものは、数センチ鱗の中に潜ったかと思うとすぐに押し出されていた。一方アンゲロスに突き刺さったものは、その身を抉り出している。

 辺りにどんどんと血臭が強まっていく。そして、デュークの高笑いが遠巻きにする人々の怖気を誘っていた。


「グガアァ!! ゴオォォ!!」


 ドラゴンが、再びアンゲロスに喰らいついた。

 バリバリと肋骨を噛砕く。

 血の匂いに酔ったドラゴンは、腹に顔を突っ込んで貪るように肉を引きちぎっていた。

 

 その時、苦悶に大きく開いた口から、炎がチロチロと顔を出した。

 サラマンダー、アンゲロスの本体だ。

 騎士の身体を捨てて逃げようとしているのだ。

 だが、炎のトカゲはそれ以上外に出ることが出来ない。

 騎士が逃すまいと、身の内に封じようとしているのだ。


「ほうら、どうしますぅ? トカゲちゃんが顔出してますよ。って言っても、今のあなたには聞こえてないんでしょうかね?」


 地面に降り立ったデュークは、小首をかしげてニッと笑う。

 緊張感のない足取りで、ヴァレリアのもとに回り込んでくる。


「出番ですよ」


 真っ青になったヴァレリアはガタガタと全身を震わせてした。騎士の腕にガッチリと肩を抱きかかえられている。もう逃げ出そうという気力もなく、呆然と空を見つめていたのだ。

 テオが作りだした彼女を護る障壁は、未だ生きている。薄い膜状のものに包み込まれたヴァレリアは傷ひとつ受けていない。だが、精神的なショックは計り知れない。

 目の前でテオがドラゴンに姿を変え、そして自分を捕らえている男を、十数センチ横でバリバリと夢中で喰らっているのだ。平常心でいられるわけがない。喉はカラカラに乾き、全身は強張っている。

 デュークが何を言っているのかも解らず、ただ無我夢中で頭を振っていた。


「イヤイヤ、なんてしてる場合ですかぁ? 巫女ちゃんパワーの使い時だって教えて上げてるんですから、さっさとそのトカゲを消しちゃったらどうです。それともこのまま、ドラゴンに喰われたいならどうぞご自由に」


 巫女の力、その言葉にピクリと反応する。

 恐る恐る首を捻って騎士の頭を見ると、確かにその口から小さな炎が燃え出している。それはトカゲの頭のように見える。

 自分がアレに触れればアンゲロスを消滅させられるという考えから、それさえ消えてしまえばテオの狂乱も収まるのではないかという期待が生まれた。

 元来、気丈な性格であるヴァレリアの瞳に生気が戻ってくる。

 青白い顔の中で唇を震わせながらも、デュークにコクリと頷いてみせた。


「……この膜みたいの、取れる?」

「もちろん、お安い御用で」


 デュークは背中の羽根を一本引き抜くと、サッとヴァレリアの手に向けて投げた。

 すると羽根の触れた部分だけ、膜が消失した。手だけあれば十分、そういうことなのだろう。

 ヴァレリアはソロソロと身を捻り、ドラゴンの様子を伺った。

 ググググと喉鳴らしながら、彼は騎士の腹の中に頭を突っ込んでいた。ジュルジュルと音を立てて中身を喰っている。

 吐き気が込みあげるのを必死に堪え、彼女は手を伸ばした。騎士の口、チロチロと燃える炎のトカゲに向かって。


 シュウウゥゥジジュウゥゥゥゥ!


 白煙が湧き上がった。

 指先が触れた瞬間の出来事だった。

 彼女を拘束していた腕がバタリと地に落ちる。

 ヴァレリアは勢いよく起き上がり、炎を握りしめた。無我夢中で炎のトカゲを抑え込むのだった。


『グ……ガガァァ!』


 小さなトカゲは片手でも十分に握ってしまえる。

 モウモウと水蒸気のような煙を上げて、瞬く間にアンゲロスがサラマンダーが縮んでゆくのだった。


 ガッとドラゴンが顔を上げた。

 口から真っ赤な血を滴らせて、ヴァレリアを見た。

 ピクリと強張るヴァレリアだったが、ドラゴンから目を逸らすことも、手を握りしめることも止めはしなかった。


 今の今まで、その存在を忘れていたかのように不思議そうに彼女を見つめた後、その手から白煙を上げるアンゲロスを鉤爪でひったくるように奪っていった。

 彼女の手が引き裂かれ血を流しても、悲鳴を上げても、全く意に止めていなかった。

 小さく縮み動けなくなったアンゲロスを、ドラゴは容赦なくグシャリと握りしめ、引きちぎる。


『アンゲリキ……』


 最期のつぶやきは消え入るようで、それを耳にできたのはヴァレリアだけだったかもしれない。

 悲しげで寂しげなつぶやきだった。


 アンゲロスは跡形もなく消え去ってしまった。



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