39 その身の内の友と敵
ビシッ ビシシッ
アンゲロスを内部に捕え炎が充満した透明な檻が、乾いた音を立てていた。テオの言葉通り、檻は破れかけていた。
黒い影が炎の中で、もぞりもぞりと動いているのが見える。
「……来るぞ」
「いつでもどうぞ」
デュークの軽口とほぼ同時に、檻を満たしていた炎がすうっと消えた。
アンゲロスが嗤っている。
ドドン!
爆音と共に、ドラゴンの左腕がまっすぐに突き出してきた。
翼が檻を弾き飛ばし、アンゲロスが飛び出してくる。
「鏡の悪魔の力とはこんなものか! ぬるいわぁ!!」
嘲りを叫ぶアンゲロスに、テオの一刀が襲いかかる。
しかし、受けたドラゴンの腕は鋼のように頑丈だった。渾身の振りを受けても、鱗に覆われたその表面にさえ傷一つつかない。
同時に右からのデュークの攻撃はドラゴンの翼が防いでいた。ナイフのように長く鋭い爪が、バキリ折れ、精霊がギリッと歯を鳴らした。
「あんたねえ……一応魂は人間なんでしょう。それ以上やったら壊れちゃいますよぉ? 体は他人のものだし、どうなろうと構わないんでしょうけど、精神崩壊しちゃマズイんじゃないですかねぇ。これは忠告ですよ」
デュークは一瞬で爪を再生させ、ギロリと睨み上げた。だが、アンゲロスはキヒヒと笑うばかりだ。余裕の表情でドラゴンの鱗を咥えていた。
先程はほんの少しかじっただけだった。それをもっと喰ってやると、意思表示している。
デュークはその危険性を口にしたが、むろんアンゲロスを思いやってのことではない。彼の精神がぶっ飛んで、行動の予測が難しくなるのを嫌っただけのことだ。
七年前のテオは、召喚したドラゴンを操ろうとして、逆に意識を乗っ取られ翻弄されてしまった。それほどに扱いが難しいドラゴンを、己の身の内に取り込もうとすれば、逆に侵食されてしまうことは想像に難くない。
デュークに言われるまでもなく、それが解らぬアンゲロスでは無かったが、構うものかと自棄になり狂気に顔をひきつらせて嗤うのだった。
受けられた剣をテオは即座に切り返し、下段中段と白刃を煌めかせて追撃を浴びせるが、スピードもアップしたアンゲロスにかすることもなかった。
だが、テオの顔に焦りはない。一瞬も視線を逸らさず、アンゲロスを観察していた。
デュークが、アンゲロスの背に取り付いた。両の翼の付け根にガシリと爪を食い込ませる。
そして耳元に囁やいた。
紫の目が不気味に光る。
「壊れちゃったら、あんたの愛しのアンゲリキちゃんに嫌われちゃいますよぉ?」
攻撃の最中でもしきりに揶揄し揺さぶりをかけるのは、アンゲロスに隙を誘うためだった。
囁きと同時に、翼をベリベリとむしり投げ捨てる。
血しぶきで顔が赤く染まると、デュークは喜悦の笑みを浮かべて空に舞い上がった。
アンゲロスの顔色が変わった。
翼を引きちぎられた苦痛の為ではない、今の彼にとってアンゲリキの名は触れてなならない禁句だったのだ。
「黙れぇぇ! もう死んだ! アンゲリキは我が殺したわぁ!」
怒りに我を忘れて叫んでいた。
その叫びと共に唇から飛んだ鱗が、ひらひらと舞い落ちていった。
ビュウビュウと背から血を吹き出しながら、舞い上がったデュークに電撃を放っていた。
テオの目が見開く。
一瞬の隙を見逃さず、踏み込んだ。
ドスッ。
大剣がアンゲロスの腹に突き刺さった。
歯を剥きだしてグググと唸るアンゲロスに、テオがつぶやく。
「……アンゲリキは、まだ生きているぞ」
ギリギリと剣を更に押し込み、その切っ先が背中からにょきり顔を出した。
ぐふっと息をつまらせ、アンゲロスは剣を掴み引き抜こうとするが、その動きは機械的で意識は別の事を考えていた。
アンゲリキが生きている、その一言に激しく動揺していた。
アンゲロスは激情から彼女を殺してしまったことで絶望していた。あらゆる企てが無に帰したと思っていたのだ。永年の宿願であった復讐も、王国を手に入れることも、どうでも良くなっていた。アンゲリキがいなければ、何を手に入れても意味がないのだ。
だからもう自分自身も壊れても構わない。なにもかも滅茶滅茶になればいいと思ったのだ。
だが、アンゲリキはまだ生きているという――。
それは本当なのか。今この胸に湧く思いは喜びなのか、恐れなのか。狼狽えるアンゲロスの思考は千々に乱れた。
大きく目を見開くアンゲロスを正面から見据え、テオは低くつぶやく。
「助けなどしない。瀕死の状態だがまだ息はあったから、あの鏡の中に閉じ込めておいた」
「おやおや、介抱して差し上げなかったんですか、薄情ですねえ。いやいや、どうせならとどめを刺して上げる方が優しさってもんです。でも、そんな義理もないですしねぇ」
電撃を避けたデュークが、ヘラヘラ笑いながら降りてくる。
アンゲロスの動きが鈍くなる。ゴブリと血を吐き出し、剣を握っていた手から力が抜けてゆく。
激しく瞳が揺れ、動揺がはっきりと見て取れる。
好機、とテオは剣をひねり上げながら、追撃の言葉を吐く。
「あの女は、蛇の精霊を支配していた」
そうだろう、と確認するようにアンゲロスの目を覗き込む。そして、答えぬ相手を思い切り蹴り倒した。
ドッと背から倒れ、苦悶の表情を浮かべるアンゲロス。彼を串刺した魔剣を通じて、テオは束縛の魔法を注ぎこみ、体の自由を奪うのだった。そして続ける。
「精霊の能力の全てを取り込んでいたようだが、もう精霊は消滅していたぞ。無茶が祟ったんだろう。今のアンゲリキはただの人間だ」
「なるほどぉ、じゃあすぐに死んじゃいますね」
ガッと起き上がろうとするアンゲロスに、容赦なくテオの雷撃が雨あられと打ち込まれた。
バリバリと轟音が響く。
防御もされず、これまでに無いほど見事に決まった会心の攻撃だったが、アンゲロスは苦しげながらも耐え切っていた。
腹にいくつも黒い穴が開き異臭を放っているのだが、傷口にゾワリゾワリ鱗が生え出し穴を埋めてゆく。傷を受けても即座に治癒してゆくのだ。
この至近距離、加減のない最大出力の魔法を受けて耐えていられるのは、一欠片かじったドラゴンの鱗のおかげだ。
その鱗が、今デュークの足元に落ちている。
テオに変わって、デュークが鱗を拾い上げピラピラと振ってみせる。
「弟君ってば弱み掴まれると、ホントダメダメ君なんですね。……ま、このお人も同じですけど」
ニヤニヤ笑いながらテオを見て、鱗を指で弄んでいたが、主の手が差し出されるとほらよと渡した。
取り戻したことを確かめるように、テオは手の中の鱗を握りしめる。熱いエネルギーを感じる。いつも感じていた、ドラゴンの息吹のようなものが流れ込んでくるのだ。
よし、とうなずき、ポケットにしまった。そして気を緩ませる事無く、剣に魔力を注ぎ続けた。
アンゲロスはもう抵抗を止めている。目は虚ろで、意識が飛びかかっているようだった。
その時、テオの頭にピンと何かが閃いた。
「!! アンゲロス、この体を離れろ! ユリウスを返せ!」
「カァーー! でました、甘ちゃん! あんた、まぁだお友達君を諦めて無かったんですかぁ? 自分でこんだけボコッボコにしといて」
「黙れ! ユリウスが出かかっているのが解らないのか!」
「ほっほぉ」
アンゲロス、いやユリウスの身体が不意にのけぞり、そしてすぐに脱力した。白目を剥いて唇をわなわなと震わせている。
そして目を閉じて数秒、再び開いた時、テオを見つめていたのた友であるユリウスだった。表情からは険が取れ、瞳には聡明な光があった。
「ユリウス!」
テオは剣を手放して、彼の肩を揺すった。すると、ユリウスが微かな笑みを浮かべた。
不用意なテオに呆れつつ、デュークが剣を握って抑えこみ続ける。
「ああ、でもこれもアンゲロス君かもしれないですよ。彼、演技派ですから」
「違う。今までにも、ヤツを抑えてユリウス本人が出ていた時があったんだ! オレには分かる。そうだろう、ユリウス!」
懸命な呼びかけに答えるように、ユリウスの目が柔和に細められる。それだけで、十分にテオには信じられた。今、この身体の表に出ているのは無二の友であるユリウスだと。アンゲロスに芽生えた隙をついて、ユリウスが身体の支配権を取り戻したのだと。
青ざめた友の頬に、一滴涙が零れた。
「……テオ、すまない。……不甲斐ないことだ……面倒を増やしてしまって……」
「謝るな……謝らなければならないのはオレの方だ」
ユリウスの傍らに膝をつき、ぐったりとする彼の人間のままの右手をギュッと握った。
テオはやっと友と話せたことに安堵していたが、この会話が長くは続かないだろうことも予測していた。無念と後悔がないまぜになって、息が詰まりそうになる。だが、表情だけは強気を装ってユリウスを見つめた。
「なあ、テオ……アイツはこの身体を捨てようとしている……次はお前を狙って……」
「返り討ちにしてやるさ」
根拠も無く傲然と言い放つテオに、ユリウスは懐かしいものを見る目で微笑む。
テオの手を握り返し、小さく首を振る。
「いや……私がアイツを逃がさないように、この身体に縛り付けている間に、滅ぼしてしまえ。この体ごと全部」
「…………」
今度は絶句するテオだった。
ユリウスは完全に消えていると判断したからこそ、その体ごと葬る覚悟をしたのだ。だが、こうやって彼の意識がまだあることを確認してしまっては、覚悟が揺らいでしまう。それがユリウス本人の望みであったとしても。
ユリウスは迷いは不要だと告げるように、また首を振る。
「私の最後の仕事だ……忠誠を誓ったお前のために死ねるなら本望だ」
「お前が誓ったのは王国への忠誠だろ。だったら生き抜いて、これからも仕事しろ!」
「……私の誓いだぞ。勝手に変えるなよ。……終生お前を支え、目となり耳となり盾となる……そう誓った」
眩しそうに目を細めてテオを見上げた。そして苦しげに息を吐く。
大剣に貫かれ地面に縫い止められる苦痛は、受傷と治癒を数秒毎に繰り返すことで、終わりなく続いている。
その上にデュークが握る剣から、間断なく送り込まれる束縛の魔法が加わっているのだ。耐え難い苦しみであるに違いない。だがその責め苦の中にあっても、ユリウスは真っ直ぐな瞳を向ける。
テオは思わず目を伏せてしまう。胸は張り裂けそうな程に脈打ち、息苦しさに肩を震わせた。
「我が王よ……惰弱な盾ではありますが御身の為なら……」
「やめてくれ、ユリウス。クソ野郎って呼ばれる方がマシだ」
「はは……だったら、さっさとやってくれ。ヤツのしっぽを抑えておくのも、そろそろ限界だ」
「お前は意識をしっかり保つことだけ考えてろ。ヤツが身体を捨てて出てくれば、その時叩く」
「……無茶だ」
ため息をつくユリウスを見下ろしながら、デュークがニタニタと笑っている。
「確かに本物のユリウス君ですね。なら、彼の言う通り、その体ごとヤッちまう方がいいですね。どうせその身体はもう持たない。アンゲロスが出た途端に死ぬのは見えてるんだから、棺桶として有効利用するべきですよぉ?」
デュークはさっさとやれよと目配せしつつ、テオの苦悩する様子を見て楽しんでもいた。
これに苦笑したのはユリウスだった。
「……そのゲスの言う通りだ……この身体の中にヤツがいるうちに片をつけてくれ」
「ところであなた、しっぽを抑えてるっていいましたね?」
「ああ……ヤツはサラマンダーを支配し完全に同化している。今やサラマンダーそのもの……」
「なんだ、火トカゲちゃんでしたか。雑魚過ぎて私の握る真名リストに入ってませんね」
デュークは肩をすくめた。
テオも真名さえを知っていれば、一瞬で片がついたのにとボヤいた。
「う、あ、ああ……」
急にユリウスが苦しみ始めた。その痛苦の表情には恐怖が混じっている。
「こ……小賢しいガキが邪魔するな! 消えろぉ!」
突然、ユリウスの声色が変わり、束縛の魔法の見えない鎖をちぎってドラゴンの左腕がテオに襲いかかった。
テオは咄嗟に手首を掴み捻り上げるが、悔しげに頬を歪める。
アンゲロスが再び表出してきた。このまま、ユリウスの精神は閉じ込められてしまうのだろうかと、焦りを覚えるテオだった。
そのテオに向かってアンゲロスがヒヒヒと嗤う。
「これで、我を捕えられたと思っているのか……。な? ば、馬鹿な! 大人しく……くぅ、あああ!」




