38 最期の願い
空に舞い上がった黒翼の影に、草原に結集した者達の視線が集まる。
アンゲロスは背に広げたドラゴンの翼を、バサリバサリと悠然と羽ばたかせていた。その一振りでビュウと風が唸り、更に一振りで瘴気が渦を舞いた。
「おお……おおぉ! 凄いな、素晴らしいぞ! 貴様らなんぞ、この力の前には虫けらも同然だ! 我はドラゴンを手にいれた!」
ハッハと高笑う声が草原に広がった。
勝ち誇るアンゲロスはテオらを睥睨し、挑発するようにおいでおいでと手招きをする。
それを見上げるテオは、忌々しげに唇を噛んでいた。
ドラゴンの鱗を奪われてしまった己の未熟さ、そしてユリウスの体を奪い更に異形に変えてしまうアンゲロスの無慈悲な傲慢さ。そのどちらにも、虫唾が走るほどの嫌悪を感じていた。
「この……クソが……」
テオが呟いた時、弾丸のようにデュークが飛び出していった。
鏡の世界に住む精霊の紫の目がギラギラと光る。
大きく振りかぶった腕が、悠然と待ち構えるアンゲロスに向かって下ろされる。バッと開かれた右の手の平から、光の粉のようなものが放出された。それは煌めきながらグルグルと渦を巻いてアンゲロスを目指す。
そしてキュインと耳を刺すような音がしたかと思うと光の粉は固形化し、アンゲロスの前後に二枚の透明な板が出現していた。
デュークがニヤリと笑って、指を鳴らす。
バシン!
二枚の板は激しく衝突した。ピッタリと板は密着し、一分の隙もない。最早一枚の板と化していた。
アンゲロスは押し潰されたのかと、魔法騎士団たちがどよめく。
だが、テオの表情が緩むことはなかった。これで倒せる相手でではないと十分に承知している。
キュインキュインと甲高い音が鳴り続け、板に更に圧力が加わり厚みを減じてゆく。
ガラスの板か鏡のようだった板から厚みが全く無くなり、ペラペラで真横から見れば全く見えなくなってしまうのだ。
その透明な二次元の檻の中に、アンゲロスは囚われていた。
薄く笑っている彼に、デュークも笑い返す。
「私、本当は血みどろの肉弾戦の方がスキなんですけどねぇ。ドラゴンなんて禁じ手を使われちゃ、おいそれと手を出すわけにも……」
ニッと満足気に笑っていたデュークの脇をかすめて、地上から獄炎の槍が飛んできた。
テオの放った火炎槍だ。
精霊の服が焼けただけで済んだのは、咄嗟にかわしたからに過ぎない。
炎の槍は、檻の中にスッと吸い込まれ中に充満した。そして厚みの無い四角い板の中で炎が暴れ狂い、アンゲロスの姿は獄炎に隠されてしまった。
「…………貴方ねぇ、私ごと葬ろうってんですか?」
振り返りはしなかったが、デュークの目がイラっと釣り上がる。
毎度のことながら、主から受ける仕打ちには理不尽さを感じるデュークだった。自分の態度は思い切り棚に上げている。
「おい! それを降ろせ!」
テオが叫ぶと、デュークはチッと舌を打ちつつ従った。
腕を上下に一振りすると、燃え続ける炎を内在した板がテオの前へとスルスルと降下していった。
「……ヤワだな、砂糖菓子の檻だ」
檻を見上げてテオが忌々しげに言うと、デュークは目を吊り上げて鬼面となった。自分が創りだした檻を侮辱されて、一瞬でブチ切れたらしい。急速降下して檻よりも先にテオの眼前に立つ。
「なんだと! この糞カス蛆虫野郎!」
グイと襟首を掴み上げる腕をパッと振り払い、テオは降りてきた板を顎で指す。
「もう、破れかけている」
言った時には既に剣を構えて臨戦態勢に入っていた。
再びチッチと舌を打ち鳴らし、デュークも檻に向かい合った。
ピシピシとヒビの走る音がしていた。
「……ヤツが出てきたところで、いくぞ」
「ですね」
*
轟音と共に空高く飛び上がった影に、ニコの目は釘付けになっていた。アンゲロスの背に生えたコウモリに似た黒い翼は、紛れも無くドラゴンのものだった。
そして猛スピードで飛び出したデュークが、光るものを発射するとアンゲロスの姿が掻き消えてしまった。いや、消えたように見えた。
ニコは驚きに唖然としつつ、必死にアンゲロスがいた空中に目を凝らした。ゆらりと風に揺らされる薄衣のようなものが見える。その中に細く圧縮されたようなアンゲロスの姿がチラチラと見えるのだ。薄衣が丁度真横を向いてしまうと、本当に何も見えなくなっていしまう。
鏡に住まう精霊の放った魔法なのだろう。
アンゲロスを捕らえることに成功したのだろうか、とニコはゴクリと唾を飲んだ。
ザクッザクッと横手から、重い足音が聞こえてきた。
上空に気をとられていたニコそして騎士団員たちが、一斉に緊張し音に振り返る。
髑髏の騎士が間近に迫っていた。その脇に、屍のように脱力しきった女を抱えている。
ヒビの入った頭蓋に穿たれた眼窩の奥に、赤い二つの光が灯っている。それは静かな光で、騎士の全身から放たれる妖気も、先程までとは打って変わって鎮まっていた。
だが、人垣を割って出てたジノスは叫ぶ。
「止まれ! 我らに何の用だ!」
髑髏の騎士の思惑が判らぬ以上、近付けるわけにはいかない。この後方にはヴァレリアがいるのだ。
アインシルトも、さっとジノスに並ぶ。が、剣を振りかざす彼の手をそっと押さえた。
「……破魔の巫女に会いに来られたか?」
「そうだ」
二人の声は大声でもないのに、その場にいる全ての人間の耳にすうっと入り込んでゆく。
ニコとヴァレリアにも当然聞こえていた。顔を見合わせ、そしてうなずき合った。
彼らを囲んでいた人垣が開き、髑髏の騎士の元へと道を作った。
ヴァレリアはニコに伴われてゆっくりと歩き出した。
油断なく騎士を見ているのはジノスと騎士団員たちだ。
アインシルトが、二人に大きく頷く。恐れなくてもよい、そう言っているようだった。
一歩進む度に、ヴァレリアの心臓が破裂するのでは無いかというほどに、激しい脈を打つ。ブルブルと体が震えるが、破魔の巫女の力を使う時が来たのだと、自分に言い聞かせて進んだ。
「娘よ」
ヴァレリアがニコの背から離れ姿を見せると、髑髏の騎士は静かな声で話しだした。
「王から宝玉を受け取ったであろう。玉はどうなった?」
「……と、透明になりました」
緊張に声が震えるヴァレリアだったが、騎士はその答えに満足だったようだ。軽くうなずき話を続ける。
「浄化できたのだな。ならばこの者の中にいる、もう一人も浄化できるだろう。玉を渡して欲しい。……アーリティ聞こえているか。これがお前の願いであろう?」
髑髏の騎士は血塗れのアーリティを地面に横たえた。
取り囲む騎士団員たちはすかさず身構えるが、彼女が起き上がろうとする気配はない。騎士は片膝をついてしゃがみ、骨だけの手をそっと彼女の肩に添えていた。もう片方の手をヴァレリアに差し出す。
「案ずるな。渡すだけでよい」
ヴァレリアはポケットから玉を取り出した。
一点の曇りもない玉を恐る恐る髑髏の気の手に乗せる。その瞬間、シュウシュウと白い湯気が立ち上った。
ニキータがヴァレリアに触れた時と同じものだ。髑髏の騎士は彼女に触れたわけでは無かったが、浄化された玉の効力のためか、骨が溶け出していた。
だが騎士は構わず握りしめ、満足気にうなずいた。
ヴァレリアは騎士がニコリと笑ったように思った。表情などあろうはずもないのに、何故かそう感じた。
湯気が増してくる。
ヴァレリアは、騎士の骨が溶け小指が落ちるのを見ると不安になってきた。妖魔を封じるより前に、彼が消えてしまうのではないかと。
その時、アーリティが薄く目を開けた。
「お前様……どうぞ、滅してくださいませね」
弱々しい声でそう言うと、苦しげに体を起こした。
ドキリとして後退るヴァレリアをかばってニコが前にでる。
アーリティは騎士縋るようにして膝立ちになると、彼の拳の中にしまわれていた宝玉をくれと無言で促す。
玉がアーリティの手にそっと移されると、先程とは比べ物にならない程の蒸気が吹き出した。玉をグッと胸に押し当てると、更にシュウシュウと白い蒸気が湧き上がり、彼女の姿が霞んで見える程だった。
ヴァレリアは驚きに口を押さえる。
ニキータの腕が赤く爛れてゆく速度よりも早く、彼女の体が崩れてゆくのだ。それなのにアーリティの顔には安堵が浮かび、微笑みさえたたえているのだ。
そして彼女はヴァレリアを見上げた。
黒い瞳は澄んだ輝きを放ち、穏やかに微笑んでいる。震える手が握手を求めるように差し出された。
どうすればいいのかと迷うヴァレリアに、騎士が語り掛ける。
「……手を取ってやれ」
アインシルトが頷く。しかしまだヴァレリアは迷っていた。
すでにアーリティは朽ちかけているのに、自分が触れたらどうなってしまうのかと。もちろん、妖魔である彼女を封じる為、滅ぼす為に自分が呼ばれたことは解っている。だが、目の前にいる彼女は、とても伝説のような人喰いの妖魔には見えず、憂いをたたえた瞳にはヴァレリアをいたわるような色さえあるのだ。
両手を握りしめ、おずおずと近づくが差し出された手を握る勇気はなかなか出てこない。それは妖魔への恐れではなく、人を殺せと迫られる恐怖のためだった。
「怯えずとも良いのです……どうかもう一人の私を、妖魔を滅ぼして……私を救って」
アーリティは溶けゆく体を必死に起こしてヴァレリアに微笑み、願いを込めて手を差し出す。
騎士がそれを助けるように支えていた。
救ってくれという言葉に、ヴァレリアは目をうるませて頷いた。
警戒するニコに守られながら、彼女の手に触れた。
パシン!
触れ合った瞬間のスパーク。
キラキラと閃光が飛び散った。
「あああ!」
悲鳴を上げて、ヴァレリアとアーリティはパタリと地に倒れ伏した。
「ベイブ!?」
ニコはすぐさま抱き起こし、彼女の鼓動を確かめる。規則正しい音を確認すると、キッと厳しい視線を騎士に送った。
騎士もまたアーリティの様子を確認していた。
「どういうことだ! ベイブに何をした!」
ニコが怒声を上げると、腕の中の彼女が薄く目を開く。
「大丈夫よ、ちょっとびっくりしただけなの……」
ヴァレリアの目はアーリティに向けられている。
伏したままの彼女のから、白い蒸気とは別の黒い影がモヤモヤと湧きだしていた。
『うらめしや……よもや破魔の巫女が現われようとはなぁ……』
「直にお前は消える。もう足掻くな」
『はっは……我が半身だけを生かしておくことなぞ不可能だぞ』
「……解っている」
『滅びる時は、お前も……』
「ああ、共にな」
『……もう離れとうない……早う、来い……』
「じきだ。待っていろ……」
騎士はアーリティが握っていた玉を再び手にし、黒い影に向かって差し出した。影はするすると吸い込まれてゆき、玉の中で黒い濁流を作っていたが、やがて透明な静かな流れに変化していた。
「……妖魔は消えたのですか?」
「そうだ」
「その女の人はどうなるの?」
騎士はヴァレリアの手に玉を返した。
「半身を失えば、もう永くはない。これでいいのだ」
その言葉と同時に、玉はヴァレリアの手の上でパリンと砕け散った。
倒れ伏すアーリティの身体から、爛れは綺麗に消えていた。蒸気を上げて溶かされていったのは妖魔として肉体だったのだろう。それが消えてしまった彼女の身体は、美しい女の姿をしていた。
だが、どこか存在感が乏しく生気も無かった。目を凝らしてよく見れば、身体が少し透けている。いつ煙のように消えたとして、不思議がない程の儚さだった。
ヴァレリアは不安になる。
アーリティは自分を救って欲しいと言ったが、本当に救えたのだろうかと不安になるのだ。半身である妖魔が消えれば、今倒れているアーリティも消えると騎士も言っている。本当にこれで良かったのだろうかと。
「……これでいいのだ」
まるでヴァレリアの思いを見透かすように、髑髏の騎士は静かに繰り返した。
「せめて最期は聖女の顔で……それがこの女の願いであり、わしの願いでもあった。娘よ、感謝する」




