36 破魔の巫女
空は少しづつ明るくなってゆく。夜が刻々と去りゆき、闇に隠されていたものが露わされる時。影は薄くなり、素顔を隠すものはもう何もない。
「オレがディオニスだ……」
「…………黒竜王のフリをしてたの? それともテオドール・シェーキーを演じてた?」
「どちらもオレだ」
「……ひどい」
つぶやくとヴァレリアの目が熱く潤み始めた。そして、震える手で割れたマスクをテオの胸にバンと投げつけた。
その頬を一筋涙が流れてゆく。
双子でもなんでもない、テオこそが黒竜王その人だった。無情、冷徹、傲岸無比、なんて嫌な男だろうと思っていた人物が、彼女の求め続ける人と同一人物だったのだ。 一体どちらが本当の彼だというのだろうか、とヴァレリアは信じ難い思いで首を振った。
「…………ベイブ」
「すっかり騙されたわ、マスクの時は声まで作っちゃって……。てっきり二人いると思ってたわよ。騙すなら最後まで騙し通さなきゃ……」
つぶやきながら、ヴァレリアはそうかと思う。
テオは詰めが甘いのだ。アンゲロスとの戦いを途中で放り投げてしまうほど、甘いのだ。いかなる時も、黒竜王として振る舞うなんてとてもできないのだ、そう思うとまた涙が零れた。
どちらが本当かなど無いのだ。最初からテオはテオのままなのだと、ヴァレリアは思った。
人間に戻る事ができ兄と共に黒竜王に謝意を伝えに行った時、彼はまともにヴァレリアの顔を見ようともせず早々に話を切り上げさせようとしていた。話せば話すほど、綻びを呈していまうと解っていたからだろう。
「私の顔を見ただけでボロを出すなんて……とんだ大根役者ね」
ニキータが言っていた。テオが口にする言葉に嘘はさほど多くはない、ただ一部分隠してものを言うのだと。その隠していたものが、今あらわになった。
それなら、これからはもう隠し事は無しで話してくれるのではないだろうか。願望半ばにヴァレリアはそう思った。
柔らかに微笑む彼女の頬を、幾筋もの涙が濡らしてゆく。
「一体今までどんな気持ちで二役演じてたのよ。きっと心臓に悪い毎日だったでしょうね」
サワサワと草を鳴らして風が流れてゆく。
決戦の場だというのに、葉がこすれ合う音ばかりが大きく聞こえてくる。
「…………」
テオの喉がゴクリと鳴った。彼女を肩を掴んでいた手から力が抜けてゆく。
どうしてこんなにも簡単に受け入れてしまえるのかと、狼狽え絶句するテオだった。
こっぴどく詰られることは覚悟していたが、微笑みながら全てお見通しだなどと言われるとは、想像の遥か上を超えていた。殴られるよりも酷い話だと、嘆きたくなる思いだった。
ヴァレリアの泣き笑う顔が、あまりにも暖かくて心地よくて愛らしく思えてテオはまた息を飲む。
這いつくばって赦しを乞えればどんなに楽だろうか、そんな迷いを振り切るように大きく息を吐いた。
「……これで愛想が尽きただろう。さあ、帰ってくれ」
「嫌よ。まだ、この茶番劇の理由を何一つ聞いてないもん」
「そんなもの必要ない。帰れ、邪魔だ。足手まといだ!」
テオがサッと腕を振ると、おなじみの扉が現れた。扉の向こうは恐らくミリアルド王宮の、ヴァレリアの部屋へと繋がっていることだろう。
テオはヴァレリアを扉にグイと押しやるが、もちろん彼女は抵抗する。
「私は力になれるわ。破魔の巫女なのよ! あなたがディオニスだろうが、テオドール・シェーキーだろうが関係ないわ。予言からあなたを解放したいの!」
テオの体にさっとしがみついて、彼の服をギュッと握りしめた。絶対に離すものかと、イヤイヤと頭を振りながら彼を抱きしめた。
彼女の柔らかな体温が、テオを熱くする。
「君はバカだ! 放っておいてくれ! こんなことをしている場合じゃないんだ!」
「テオ、私はあなたが……」
ヴァレリアは精一杯つま先立ち、テオの瞳に近づこうとする。切なく熱のこもったつぶやきを彼に届けようとしていた。
しかしテオは、頭を振ってを張り上げる。
「黙れ! 聞きたくない! オレの邪魔をするな!」
「あなたの為なら、私はなんだって……」
テオの頬に両手を添えて、彼女はありったけの愛情を彼に示そうと微笑むのだ。口づけで呪いを解いた彼を真似て、頑なな心を解こうと。
「やめろ! サカリのついた雌犬に用はない!」
テオはヴァレリアの肩を掴んで無理やり引き剥がした。下卑た拒絶を吐き、彼女を直視することも出来ずに唇を噛む。ヴァレリアを傷つける言葉は、そのまま彼の心もえぐっていた。
震えているのは二人とも同じだった。
ザッザッと草を踏む足音が近づいてきた。
あぁーあと、いきなりテオの背後に少年の呆れ声が浴びせられる。
「なにそれ……ドSなの? いやドMかな? 僕には本当に理解しがたいよ……兄さん」
小首をかしげたニキータと、眉間に深いを皺をよせたアインシルトが立っていた。
振り返ったテオはギリッと歯を鳴らして、二人をにらむ。
「……口を挟むな。どこに隠れていたのか知らんが、魔女から逃げ出せたんならさっさと去れ! 目障りだ」
「冷たいなぁ。折角また会えたのに」
「いいや、温情だ。お前がもしまた獣に変化したら、オレは今度こそ……」
テオの目が哀切に歪み、ニキータを見つめる。敵に回らないでくれという願いを目で伝えていた。
「うん、その時は仕方ないよね」
軽く微笑んで受け答えするニキータに、呆れて首を振る。仕方ないでは済まないことだと、なぜ解らないのだとため息をついた。
「やめてくれ。もう、誰も失いたくないんだ。あんな思いはしたくない」
「それは僕のママ、アリシアのこと?」
「……ああ」
テオはヴァレリアに視線を移した。まだ彼女の肩を掴んだままだった指に力がこもる。
「護りたくて、護れなかった。二度はごめんだ……」
過去に失くした人を彼女に重ねたのか抱き寄せそうになり、テオは小さく頭を振って堪えた。
「あれは、あなたのせいでは無いと思うんだけど……っていうか、もしかしてママのこと好きだったの? 雰囲気出してるとこ悪いけど、それ色々ダメじゃん! 義理とはいえ……」
「やかましいわ!」
テオはぐるりと振り返り、ヒエーッと大げさな声を上げるニキータの頭をゴツンと一発殴った。
やれやれと顎ひげを撫でながら、アインシルトが割って入りニキータの肩をポンポンと叩いた。
「テオドール。災いの元凶を絶たぬ限り、大切なものを真に護り抜くことはできぬと、お前にも解っておるじゃろう」
アインシルトは静かな声で諭すが、テオはすっと視線を逸らしてしまう。
そして苛立たしげに、移動の扉をコンコンと叩くのだった。ヴァレリアとニキータに、さっさとこの扉の向こうに行ってしまえということらしい。
ヴァレリアは、いつかのテオの言葉を思い出していた。
――ミモザを好きな人がいたんだ。
あれはドラゴンが町を焼いた日から、ちょうど七年目の朝だった。その人を守れなかったことが、自分の罪だと彼はつぶやいていた。焦がれていたミモザの人を失くしたことが、彼に深い傷を与えていることを知ってしまったのだ。
そのミモザ人がニキータの母親だということは先王の二番目の后であり、テオにとって義理の母ということになる。どういう経緯があったかヴァレリアには知る由も無いが、思いを募らせたところでどうにもならない相手であることだけは分かる。
切ない思いをしたことであろうが、だからといって自分と彼女と同一視してもらいたくはなかった。自分は、テオにとって見つめることしかできない相手ではないし、護られるのではなく護る力を持っているのだから、そう思うヴァレリアだった。
「テオ、私はミモザの人じゃないわ。あなたが思うよりも、私はずっとずっと強いんだから!」
「……世間知らずなだけだ」
「だったら試してみればいい! 私がアンゲロスを浄化して、きれいサッパリ消してやるわ!」
本気だった。迷霧も森でアンゲリキに遭遇した時も、魔女は自分に一瞬触れただけで体が溶け出していたのだから、アンゲロスにも有効なはずだと彼女は信じていた。
君はいつも受け身だ、そう言ったのはテオではないか。今やっと自分から動き出したのに、それを否定されたくはない。
「あんたなんかより、よっぽど役に立つんだからね!」
強気で喰ってかかると、テオは苦笑を浮かべた。そして頑として首を横に振る。
「そんな危険なお試し、やらせるわけないだろう?」
大げさなため息をついたのはニキータだった。
ヴァレリアを護りたいが為だと解っていても、テオのその思考は短絡的だと感じていた。彼一人で倒せるなら、これまでのぶつかり合いでとっくに倒せていただろうに、それを成し得ていないことには目をつぶっていることに腹立ちも覚えるのだ。
「……ねえ、これを見てよ」
ニキータはヴァレリアに近づき、彼女の手を握った。途端に、シュウシュウと白い煙があがり、みるみるうちにニキータの手が赤く爛れてゆく。ヴァレリアは慌てて手を振り払おうとするが、ニキータはしっかりに握りしめて決して離さなかった。
「ほら、これが破魔の巫女の力だよ。邪悪なものを滅ぼせるんだ……このまま握り続けてたら、僕は溶けて無くなってしまうだろうね」
「ダメよ、止めて! ニーカ、離しなさい!」
ヴァレリアが悲痛な声を上げても、ニキータは何でもないような顔をテオに向けて話し続ける。
「解る? 触れるだけでだよ? アンゲロスも、あの妖魔や騎士だって……」
テオの眉間に深い皺がよる。確かに彼女が触れるだけで、アンゲロスは消えて無くなるかもしれない。だが、ヴァレリアは不死身ではないのだ。触れる前に攻撃されれば、簡単にその生命を落とすことだろう。素晴らしい力だからと、利用しようという気にはなれない。
必死に腕を振るヴァレリアと、額に汗をにじませながらも手を離さないニキータの両方の腕をテオが握った。
「……もういい。離すんだ」
テオは二人を引き離そうとするが、ニキータが全く力を緩めようとしない。ますます勢い良く煙が吹き上げ、爛れはニキータの手首の上まで広がっていた。
「ヴァリーを除け者にしないって言ったら離すよ」
「やめてくれ! なんでお前たちはオレを困らせることばっかりしたがるんだ!」
「これでヴァリーを守ってるつもりなの? 檻の中に閉じ込めておけば安心だって? 彼女抜きじゃ、何にも解決できないってこと早く解りなよ」
「……黙れ!」
テオは力づくでニキータの指を開いて、ヴァレリアから引き離そうとした。すると、バキリと嫌な音をたててニキータの人差し指が垂直に立ち上がった。
「イヤー!」
ヴァレリアが悲鳴を上げた。
テオは慌てて手を離した。少年の赤く爛れた指があり得ない角度で折れ曲がり、皮膚もズグズグに崩れている。折れるほどに力を入れた訳ではないのに、この有様だ。このままでは本当にニキータが溶けてしまうのではないかと思われた。
「ニーカ! もう止めて!」
「……結構痛いんだよね。だからさ……」
「バカ野朗、早く離せ!」
「じゃあ、ヴァリーと協力してくれる? それが一番彼女守るために必要なことだと思うよ」
ニキータは青ざめた顔で微笑みかける。
彼の捨て身の行動に、テオは心底腹が立っていた。十四も年下の少年に諭される自分にも、無性に腹を立つ。
ニキータの顔を忌々しくにらみながら、テオはサッと剣を振り上げた。
「オレを脅そうなんて百万年早ぇんだよ! お前の腕を切り落としてやる!」
ギラリと光る剣をグッと握りしめ、本気だと目で威嚇する。
どうしても離さないというなら、体が溶け出す前に腕を切ってでも引き離すまでだった。
「えぇー?! そんな切り返し方、あり?」
「お前のせいだ。脅しじゃないぞ。二人とも動くな」
今にも振り下ろされそうになった剣を、それまで成り行きを見守っていたアインシルトが杖で制した。
「そこまでじゃ。さあ、ニキータ様もそう意地を張らずに……」
アインシルトに言われてようやくニキータは手を離した。思わず、はあっとため息をつくと、折れ曲がった人差し指がポトリと草の上に落ちた。彼の腕は肘の辺りまで真っ赤に爛れて、見るも無残な状態だった。
「……意固地になってるのはこの人の方だよ。せっかく破魔の力を見せて上げたのに、どう使うべきか考えようともしないで……」
腕をさすりながら恨み言を言う。
ヴァレリアに危険が無いわけではないと、ニキータにも解っている。もしもの時には自分が盾になる覚悟もとっくについているのだ。それをテオに解って欲しかった。
ニキータの思いを知ってか知らずか、テオはチッと舌を打つ。
「……今、考えたさ」
テオはポケットから宝玉を取り出した。それは真っ黒に濁り、凶々しい妖気を放っている。
ニキータの腕を癒やそうとしているベイブの前に、ずいと宝玉を差し出した。彼女はオロオロとニキータと宝玉を何度も見比べる。どちらを優先すべきなのかと。
「ヴァリー、僕は大丈夫だから。それを受け取って」
「うん」
ヴァレリアの手の平に、そっと宝玉が置かれた。
その途端、玉の内部に水流が起こったように黒い濁りがグルグルと回転を始めた。濁りは激しく回りながら徐々に減少してゆき、透明な清流へと変わってゆくのだった。
「おお……穢が浄化されてゆく」
アインシルトが感嘆の声を上げた。アンゲロスによって穢された宝玉が、ヴァレリアの力で美しく清浄な輝きを放ち始める。
「絶妙なバランスで清濁の均衡を保っていた宝玉を、血で穢すことで妖魔を復活させた……逆に一点の曇りもなく清めれば、再び妖魔を封じ……」
ドドン!
テオのつぶやきを、爆音が遮った。
ドッとこちらに走り寄ってくる騎士団の背後で、二度目の爆音が響き黒い翼を広げたデュークが舞い上がるのが見えた。アンゲロスと戦ううちに、戦場が移動しているようだ。
邪魔者はどけというように、デュークの羽ばたきが騎士たちを転がすように後退させると、バラバラと黒い羽が血しぶきと共に飛び散った。
その後退する騎士団の中からニコが走りだしてきた。
「アインシルト様! ベイブを守って!」
必死の形相で叫んだ。叫びながら走り、走りながらフクロウに変化しヴァレリアを目指す。
テオの顔に動揺が走り、ヴァレリアを腕の中に抱え込んだ。
「クソ! デュークの奴、しくじったのか?」
上空に飛び上がってゆくデュークを、地上から放たれた紅蓮の炎が太い矢となって串刺していた。紫の目の精霊の体がぐらりと傾ぐ。このクソ豚野郎などと喚いているところを見ると、本気でしてやられたようだ。
そして狂気の笑みをたたえたアンゲロスが、左右に分かれた騎士団の間を稲妻の如き勢いで、こちらに走り来るのだった。




