35 砕けるマスク
ふくろうに身を変えたニコがブロンズ通りから飛び立った。それを追って、ヴァレリアとニキータを背に乗せたビオラの飛竜が続く。
彼らは迷霧の森の手前に広がる草原へ向かって空を飛んでいた。
東の空がほんのりと明るくなってきている。空を飛んでいると、夜の闇が徐々に後退しているのが良くわかる。夜明けはもう直だ。
目的地が近づくにつれて、ニコは肌にピリピリとした痛みを強く感じるようになった。
強い魔力がそこに集中しているのだろう。そう思うと、ゾクリと背が震えた。だがそれは、怖気づいたためではない。覚悟を決めた武者震い、そんな感じだった。
風を切ってぐんぐんと空を飛んでゆく。皆口を閉ざし前だけを見つけて飛び続け、そして四人の目に草原が映った。
点のような人が集まり輪を作っている中央に、常人には見えない魔法の光がいくつもスパークしている。
ニコの内に緊張が増し、一気に加速した。
人影が大きくなり、アンゲロスとディオニスが剣を切り結んでいるのがはっきりと視認できたのだ。
「あそこね! 降りるわよ!」
ビオラは、彼らを遠巻きにしている騎士の集団の中にアインシルトを見つけていた。老魔法使いの方でもビオラ達に気づいたようで、こっちだと手で合図を送っている。
ぐっと高度を下げ、飛竜が草地にそっと着地した。ニコもそれに続いて変化を解き、草の上に降り立った。
アインシルトはニコとビオラに大きくうなずき、それからヴァレリアに歩みよる。
「ヴァレリア姫……危険だと知りながらご助力を請いましたこと、お許し下さい」
「いいの、私は来るなって言われたって来るつもりだったんだから」
深々と頭を下げる老師に、ヴァレリアは慌てて頭を振る。テオやこの国の力になれるなら、自分は惜しみはしない。
ヴァレリアの後ろからバツが悪そうにニキータが顔をだすと、アインシルトは相好を崩した。
「……ごめんなさい」
「良いのです。帰ってきてくれたのですから」
おずおずと老師の前にでた少年の頭をよしよしと撫でてやると、またヴァレリアに視線を移す。
「破魔の巫女の力をどうか我らに貸してくだされ」
「はい……でも、その前に教えてください。救国の魔法使いとはテオのことなのでしょう。宝玉の予言のこと、私も知っておくべきだと思うの。でなきゃ、どうすればいいのか分からないわ」
この予言の中にこそ、テオの背負うものの正体が隠されていいるはずだと、ヴァレリアは確信している。
真摯な瞳を向ける彼女にアインシルトはうなずいた。そして口を開く。
「ディオニス陛下がお生まれになった時に下った予言なのです。――その者、王冠を頂きては亡国の王となる。すなわち、インフィニード王国に終焉を告げる者なり。またその者、精霊の力を授かりては救国の魔法使いとなる。すなわち、祖国を安泰にする者なり――と」
予言の言葉を、老魔法使いの口は一言一句はっきりと紡ぎだす。
静かに聞いていたヴァレリアとニコは顔を見合わせた。生まれたばかりの赤ん坊に、なんとも酷い予言が下されたものだとため息をこぼした。
しかし、今アンゲロスと戦っている黒竜王は、国を滅ぼすどころか守ろうとしているではないか。予言は覆そうとしているかのようだ。
そして予言の後半部分、救国の魔法使いのくだりはテオに下されたもののはずだ。黒竜王誕生と同時に、テオにも予言を与えられた理由を想像し、ヴァレリアの胸がモヤモヤと息苦しさを感じた。
「……その予言のせいで、ディオニスは存在を隠されていたのね。でもおかしいわ、彼はこれまでもずっと、インフィニードを守ろうとしていたでしょう?」
「そう。亡国の王になるまいと、予言に抗ってこられたのじゃ。元々王位への野心も持っておられず、あの乱を起こさずに済んでいれば、ただの魔法使いとして生きてゆかれたじゃろうに……どんなに抗っても、運命は亡国の王を誕生させねば気が済まぬようでなあ」
アインシルトの顔には悲哀が浮かび、形ばかりの笑みでヴァレリアを見つめた。
「でも、王に国を滅ぼすつもりがないなら、予言なんて信じなければいいのよ。それに後半では魔法使いが祖国を安泰にするって言ってるじゃない。こんな矛盾している予言なんかに、どうして振り回されているの? おかしいわ!」
「姫の仰るとおりですな……振り回され過ぎた。じゃが実は矛盾ではのうて……」
「予言の青写真では、ディオニスが滅ぼした後にテオが再建するとでも? 二人への予言が同時に下されたのは……もしかして、ディオニスとテオが双子だから?」
伏し目がちなアインシルトを、ヴァレリアはまっすぐに見つめる。
以前から疑問に思っていたことを遂に老師にぶつけたのだ。黒竜王とテオの間には、何か強いつながりがあることはとうに気づいていた。
だが、自分の推理が合っているかどうかは問題ではない。二人が相反する宿命を背負わされていながら志を同じくしているなら、予言を覆す手助けを自分はしたい。それが自分のやるべきことなのだと今はっきりと自覚した。
どう答えるべきかと苦悶の表情を浮かべる老師に、彼女は慈しむような笑顔を送った。
「答えられないなら、別にいいの。聞いたところで何が変わるわけでもないから」
「ヴァレリア姫はお優しい……」
アインシルトはヴァレリアの言葉に感謝の礼をし、質問したげでありながらじっとこらえているニコを好まし気に見つめた。
雷撃を放って飛び退いたアンゲロスがヒッヒッと嫌らしく笑う。だが、その胸は袈裟懸けにパックリと傷を開いている。
黒竜王の凄まじい猛攻に押されて、アンゲロスは焦っていた。体の動きが鈍くなってきているし、魔力を消耗している訳でもないのに上手く魔法が作動しないのだった。今また、渾身の雷撃もかわされてしまった。
劣勢に臍を噛む。と、先程視界の隅をよぎった白い飛竜のことを思い出し、やけくそとも言える攻撃の一手に変えた。
「また、見物人だ!」
騎士団とアインシルト達に向かって剣を振って示すが、黒竜王の魔剣が止まることは無かった。アンゲロスは顔を歪めて舌を打つ。
「女が来たぞ! 黒髪の女だ」
ガキン! 激しく剣が組み合わされた。二人は間近でにらみ合った。そしてアンゲロスがニヤリと嗤う。
「嫌な匂いするの女だな……」
アンゲロスを睨むディオニスの瞳が僅かに揺らぐ。
ドンと押し返し、肩越しにちらりと振り返った。その途端、ディオニスはピタリと動きを止めてしまった。
彼の目は、ヴァレリアの姿を捉えていた。薄闇の中だというのに、アインシルトと何事かを話している彼女の姿が焼き付くように目に飛び込んできたのだ。
「何故……」
注意が削がれた瞬間、勝機とばかりにとアンゲロスの剣がブンと、ディオニスに向かって振り下ろされる。
ギリッと奥歯を噛んでディオニスが仰け反ってかわす。が、完全には避け切れず、ガギギと音をたたて剣先が彼のマスクに傷をつけていった。
しかし二刀、三刀と繰り出される攻撃は全て弾き返し、爆炎を放つとディオニスは走りだしていた。それはアンゲロスではなく、騎士団たちに向かってだ。
「アインシルトォーー! 貴様ぁ!!」
ディオニスの怒声が響いた。
その背に攻撃をかけようとするアンゲロスを阻んだのはデュークだった。刃物と化した爪を光らせてヘラヘラと笑っている。
「ああ全く、あの方は何やってんでしょうねぇ。目の前の敵を放り出して」
「どけ。お前に用はない!」
「まあ、そう言わずに私と遊んでくださいよ」
そう言うやいなや、デュークはアンゲロスに突進していった。いや、足を踏み出したと思った瞬間には、もう彼の爪がアンゲロスの腹をえぐっていた。そして甘い声で囁きかける。
「ねえ……あなた一体何と契約して炎の魔物なんかになっちまったんですか? あなたにしてもアンゲリキ姐さんにしても、いやにしぶといですし再生力強いですしねぇ。でも、その体はもう限界っぽいですね」
いやらしく長い爪を何度も出し入れして中をかき回しながら、ヌチャヌチャという水音を楽しんでいた。
ゴフリと血を吐くアンゲロスに、悪魔はチロリと唇を舐めて囁き続ける。
「炎の魔神は数多いますが、さてさてどなたと契ったものやら。私がその方の真実の名を知らなければいいですねぇ?」
苦悶の呻きを上げながら舌打ちするアンゲロスを、紫の目を光らせてデュークはあざ嗤っていた。
今まさに剣を切り結んでいた王の、いきなりの反転に騎士団がどよめく。何が起こったというのかと、アインシルトに一斉に注目していた。
そしてヴァレリアは、怒れる王が自分を注視していることに気づき狼狽え、思わず後ずさっていた。
何故王が怒っているのか解らずニコの顔にも動揺が走ったが、反射的にヴァレリアを庇うように前に出ていた。
あっという間に彼らの眼前に辿りついたディオニスが、歯を剥きギラギラと目を光らせてアインシルトの襟首を掴みあげる。
「何故、連れてきた!」
「……破魔の巫女の力が、必ず必要になるのです……」
足が宙に浮き喉を締めあげられたアインシルトが苦しげに、しかしきっぱりと言った。
「あなた一人で解決できるものではない」
「黙れ!!」
ディオニスは、老師を地面に叩きつけた。
ニコにも、ヴァレリアをここに連れてきたせいで王の怒りを買ったのだと解った。だが、なぜそのことで激怒するのか。アンゲロスを追い詰めていた様に見えたのに、それを放り出してまで文句を言いに来なければならないことなのだろうか。
背中を打ち付け呻くアインシルトにヴァレリアが駆け寄った。ニコも老師を助け起こすのを手伝う。
「大丈夫ですか?」
「よい、大事無い」
「酷い! 私が自分から来ると言ったのです! 私にも役目があるのです!」
ディオニスを見上げて、ヴァレリアは挑むように言う。
「何でも自分だけで解決しようなんて奢るのは愚か者のすることだわ!」
「ああ、全くだ! 愚か者さ! だが、これだけは譲れない!」
ディオニスがヴァレリアに向かって思い切り怒鳴った途端に、彼女の目が驚きに見開き唇が震え出した。
構わずディオニスは彼女の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。
「来い、ミリアルドに送り返す!」
ヴァレリアを肩にひょいと担ぎ上げ、騎士団員たちをかき分けてアンゲロスから遠ざかるように走り出した。
何をするのだと、ニコは驚いた。アンゲロスではなく、黒竜王が彼女を攫うというのか、と。いや、送り返すと言っているのだから危害を加えることはないと思いたいのだが。
彼らを追おうとするニコを制して、アインシルトは王の元へと向かった。
「わしに任せよ」
「でも……」
「邪魔しちゃダメだよ」
なおも追いかけようとするニコの腕をニキータが掴んでいた。
「心配しなくても大丈夫、あの人はヴァリーに乱暴なことなんてできやしないから。でも、破魔の巫女の力がどんなものかは、あの人にも見せてあげる必要があるよね」
ニキータはにっこり笑い、ゆっくりとアインシルトを追った。
戸惑うニコをよそに、彼らはどんどんと離れてゆく。蚊帳の外に放り出されたような不安感と憤りを感じたが、拳を握ってグッと堪えるしかなかった。
ディオニスは離してくれと暴れるヴァレリアを草の上に放り投げた。
彼の息が荒いのは全力で走った為ではなく、怒りのせいだろう。燃えるような目でギリギリと彼女をにらんでいた。そのマスクにピシリとヒビが入った。
震えるヴァレリアの傍らに膝を突き、彼女を肩を掴んで揺さぶった。
「このクソ馬鹿ゴブリンめ! 何の為に遠ざけたと思ってる!」
ヴァレリアの顔色は先程から青ざめていた。心臓が口から飛び出そうな勢いで脈打っている。
この声は……。
信じられない思いでディオニスを見上げていた。
「オレは亡国の王だ! 予言は不可避だ! 君は邪魔なんだ!」
ヴァレリアを見つめて叫ぶディオニスのマスクに、ピシピシと更にヒビが広がってゆき、小さな破片がポロリと落ちた。アンゲロスの太刀を受けて出来た傷がマスクを割ろうとしている。
ますますヴァレリアの心臓はドクドクと激しい音を立てる。
「…………あなたは……」
「オレは嘘つきのクソッタレだ。君の助けなんか必要ない!」
王宮で聞いたディオニス王の声は、喉の奥で話すようなくぐもった声だった。それが今、激情のままに発っせられている。それは聞き覚えのある声にそっくりで……。
ニコは気づいただろうか、それとも自分の勘違いだろうかと、ヴァレリアは唇を震わせながら黒竜王のマスクの奥を見つめていた。
先程、王とテオは双子なのかと口にした。その想像通りだから声が似ているのか?
いや、それだけでは説明がつかない。この口調、そして内容。黒竜王の台詞とは思えない。
私をゴブリンと呼び、自らを嘘つきだと言うこの声の主は……
「ベイブ……帰るんだ!」
パシン!
決定的な一言と共に、二つに割れた黒いマスクが二人の足元にコロンと転がる。
呆然と見上げるヴァレリアの目の前で、彼の素顔があらわになった。
ゴクリとヴァレリアの喉が鳴った。不安の色を灯して揺れる彼の瞳から視線を逸らすことが出来ずにじっと見つめていた。
ああ、と彼が苦悶の吐息をすると、沈黙が流れた。
ヴァレリアはゆっくりと割れたマスクを拾い上げた。
「………………テオ、なのね」
「ああ」
「ディオニスはどこ?」
「…………」
じっと目を逸らすことなくヴァレリアはテオを見つめる。テオもまた見つめ返していたが、先に視線を逸らしたのは彼の方だった。瞳に迷いの色が浮かんでいる。
ヴァレリアは、厳しい黒竜王のマスクの下に彼の顔を見つけてしまったことに動揺していたが、それ以上に自分がした質問の答えを聞くのが恐ろしく思っていた。
知りたくない、そう思うのに口はまた同じ質問を繰り返していた。
「ディオニスはどこ?」
「…………ここにいる」
「……本当に大嘘つきね…………テオ」




