32 黒竜王、起つ
リッケンが王の執務室をノックすると、中からアインシルトの入室を許可する声が聞こえた。
深夜ではあったが王宮の中は煌々と灯りが点され、城下の異変への対応に廷臣たちが忙しく立ちまわっていた。
リッケンは妖魔討伐の先発隊指揮を副官に命じ、その脚でここへやってきたのだった。
焦り気味にノブを回すと、影のように佇む黒竜王とその隣に立つ老師、そして見慣れぬ男がいることに気づく。彼だけがソファにふんぞり返っている。貴族然とした黒髪の男が、誰よりも偉そうな態度で座っているのだ。
リッケンは深々と王へ礼をし、そしてアインシルトに近づいてゆく。
「……この者は」
男の不遜な態度に、リッケンは不愉快を全面に押し出してつぶやくと、彼は薄い唇を引き伸ばしてニィと笑った。
「おや? 閣下は私を見たことがなかったのでしたっけ? 私の方は閣下をよーく存じてますので、まあお気になさらずに……」
「テオドールの飼い犬じゃ。お聞きになったことはお有りでしょう」
デュークのふざけた物言いを途中で遮り、アインシルトが答える。
ああそういえばと、リッケンはうなずき忌まわしげにデュークを見やった。国王の前だというのにニヤニヤと薄笑いを浮かべ、畏まった態度など露程にもない。
これが例の精霊なのかと観察を始めた。魔力がいかほどのものであるのか彼には見当がつかなかったが、信用のおけない相手であると強く警戒した。
「……犬、ですか。まったく師弟そろって口が悪い」
わざとらしく肩をすくめるが、アインシルトは取り合わない。
「そんなことよりも、テオドールはまだ戻ってこれんのか?」
「犬呼ばわりしておいて……もう直に戻るでしょうよ!」
リッケンは不貞腐れているデュークの襟首を掴み上げた。
鏡の中に入ったきり戻ってこないテオの事が心配だった。それなのに、この使い魔の精霊は主に対しての忠誠心も足りないように思えて苛立たしくてならない。
リッケンは、デュークに問いただした。
「既に妖魔は解き放たれて、町で暴れているのだ! と、いう事はアンゲロスも鏡の世界から出てきているのではないのか?! なぜ、シェーキーだけが戻らんのだ!」
「野暮用でもあるんじゃないですか?」
すっとぼけた返事だったが、精霊の紫の目がギラリと光っていた。サッとリッケンの腕を掴み返し、ギリリとひねりあげる。
屈強な男が、簡単にやり返され膝を折った。グウとリッケンが喉を鳴らす。
「……大体あなた方はねぇ、私への敬意というものが足りなさすぎる。と、いいますか、侮りすぎですよ……私に命令していいのは、あの方だけだってことを肝に命じておいた方がいい……でないと、次は殺ッちゃいますよ……」
「閣下を離すのじゃ、デューク。このような真似は、テオドールも許すまい」
厳しい表情を作るアインシルトに、デュークはチッと舌を打つ。仕方なしといった具合にリッケンを解放すると、またソファにふんぞり返った。
「あの方が死んだなら、私には一発で分かるんです。だーから、そんなに心配する必要は無いんです。ま、私が信用ならないっていうんなら、お話しになりませんがね」
「……アインシルト」
突然、黒竜王が口を開いた。それまでじっと彼らを眺めていた王がいきなりスイッチが入ったように歩き出す。
「ほら、噂をすれば……」
ニッと笑ってデュークが指差したのは、黒竜王の歩みの先にある鏡だった。
さっと二人の廷臣の視線が集まる。
王が鏡の前に立つと、そこに映し出されたのはテオの姿だった。
「もどったか、テオドール! 何をしておったのじゃ! 心配したではないか!」
駆け寄り怒鳴るアインシルトに、鏡の中のテオがつぶやく。
鏡の中から響く声は少し篭って聞こえる。
『まあ、そう言うなって。ちょっとした野暮用でね』
「ほらね?」
ニタっとするデュークに、リッケンが眉をしかめた。
「その野暮用とは何なのだ!」
『いや、それよりも早くここを出ないと……あの女、今頃暴れてるんだろう? 止めないとな』
テオはデュークに目配せをした。
「おや? 私にご用で?」
『ああ。実はさっき、ここに結界をはった。このままオレが出ても、結界は破れないか?』
「ええ! もちろん破けますとも!」
『………………』
「解って聞いたんでしょうに、そんな睨まないで下さいよぉ。質量保存の法則とでも言いますか、まあそんな感じで」
『……このままは無理か』
二人の会話にリッケンが厳しい顔で割って入る。
「出られないのか?」
『いや、出れなくは無いが……おい、デューク手伝え』
「はいはい」
まったく命令ばかりで人使いが荒いと零しながら、鏡の正面に立つ黒竜王の後ろに回った。
王が鏡面に手を当てると、同時にテオも動き二人の手は鏡を挟んでピタリと合わさっていた。そして二人同じ呪文を寸分の違いなく唱え始めた。
黒竜王の背後に立つデュークがサポートするように、紫のモヤを王に送り込んでいた。ピシピシと極小の火花がテオと黒竜王のまわりで煌めき、ユラリと陽炎が立った。すると唐突に二人は離れた。
「これでいい……」
黒竜王が満足げにつぶやく。
何が変わったというわけでもないのに、リッケンには王の姿が先程までよりくっきりと見えるような気がした。
王は何度か拳を握っては開き、軽く首を回した。
鏡の中のテオはと言えば、急に薄ぼんやりとした表情になり力が抜けてしまったように突っ立っているばかりだった。
ほう、とアインシルトは何やら納得している様子だったが、魔法を解さないリッケンには何事であったのかさっぱり分からない。
入室した時は、黒竜王は確かに部屋の真ん中にいたはずなのにまるで影法師のようで、存在感が薄かった。だが今は違う。いつもの、ピリリと空気を引き締める堂々たる黒竜王がそこにいた。
「……もう、済んだのか?」
何とも呆気ない気がして思わず尋ねるリッケンに、デュークがウィンクで答える。その憎らしい顔を見ると、重ねて質問する気にはなれなかった。
黒竜王はガッガッと足音を響かせて移動し、サッと窓を押し開いた。
「行くぞ! デューク、飛べ!」
「えぇ~、過重労働はもう勘弁願いたいんですけどねぇ」
渋る精霊の首根っこを掴むと、乱暴に窓枠に押し付けた。
「……飛べと言っている」
王の一段と低い声が、デュークの反抗を封じた。
軽くため息をついてから、王にどうぞと背を向ける。
「いや、私が共に行きましょう」
アインシルトが割って入った。
妖魔のもとへ行こうとしている王を、自分がふくろうに変じて運ぶと進言する。どうしてもデュークは信用できないのだ。王をサポートできるのは自分だけだという自負もある。
「いや、コイツでいい。死なないヤツならいくらでもこき使えるからな」
仮面の下で、王がふふっと笑う。
思いきり嫌な顔をしたデュークの背を蹴飛ばすようにして、体重をかける。
「行け!」
小声で悪態を付きながらも、デュークは黒竜王を背に乗せて窓から外へ飛び立って行った。ブンと風を切り、空高く登ってゆく。
アインシルトは軽く頭を振り困った方だとつぶやき、リッケンは鏡の中のテオと飛んで行く王を困惑気味に交互に見比べた後、窓から身を乗り出して叫んだ。
「お、御身大切に!」
デュークの背に乗った黒竜王の姿は、真っ直ぐに西に向かっている。恐らく、その方向に妖魔がいるのだろう。あっという間に二人の姿は夜の闇に紛れて見えなくなった。
その時、ふくろうが、飛び込んできた。
『閣下! 髑髏の騎士が現れました! 妖魔を捕らえて西へ、迷霧の森へ向かっています。自分もすぐに追います!』
ふくろうは、早口でジノスの言葉を伝えた。
リッケンとアインシルトはサッと目を合わせるとうなずきあった。
二人は揃って、王の消えた執務室を退室する。と、アインシルトは歩みを止め、鏡を振り返った。
「ところでテオドール、一体何のための結界を仕掛けたのじゃ?」
鏡の中のテオに向かって、アインシルトは問いかける。
『そうだなぁ……切り札? かな? 多分大した役には立たないな』
「なんじゃ、歯切れが悪いのぉ。まぁよいわ。……今は集中せい」
『ああ、そうしよう……切るよ』
アインシルトに答えた途端に、テオの体が足元からザラザラと崩れていった。テオの形をしていたものは土塊に変じていた。
リッケンもそれを目の端で確認し、納得が行ったようにうなずく。
そして二人は、足早に廊下を歩いていった。
*
ニキータの長い告白そして懺悔が終わると、部屋はシンと静まりかえった。言葉を発するのが怖くなるような静けさだった。月の位置が変わり、部屋の中が先程より薄暗くなっている。
ビオラは、アインシルトからの連絡はまだだろうかと空を見上げた。
と、その上空に駆ける騎馬の姿を見た。
「あれは!」
ビオラの声に、ヴァレリアとニキータがバタバタと窓に近づいてきた。そして同じものを見上げる。
「な…に……?」
「髑髏の騎士だよ」
ブルルと武者震いをして、ニキータがつぶやく。
「ついに、始まったんだ……」
三人が見上げる中、騎士は天を駆け西へ去っていった。
ヴァレリアは、初めてみる異形の騎士に慄きを隠しきれない。自分から協力したいと言ったものの、どうすればいいのかと今更ながらに悩むのだった。
窓を離れ、またベッドに腰かけた時、大きな鳥が飛び込んできた。その白いふくろうは、アインシルトの変げしたふくろうととても良く似ていた。
身構えるビオラの前で、それは少年へと姿を変えた。
栗色の髪の利発顔の少年。ニコだった。
「ベイブ!」
弾む声に呼びかけられ、ヴァレリアの顔に笑顔が広がった。




