27 インフィニードへ
ムズムズと小さな虫が全身を這いまわるような不気味な違和感。身悶えた途端、頭を殴られたような衝撃を感じた。
ヴァレリアは悲鳴を上げることもできずに、跳ね上がるようにベッドから身を起こしていた。
ドッと冷や汗が噴き出してくる。ハッハッと短い呼吸。心臓が恐ろしいほどの速さで鼓動をうっていた。
「……なに、今の……」
部屋の中は真っ暗で、強い風が窓をガタガタと揺らしていた。
ヴァレリアはぞくりと震えて、自分の体を抱きしめる。
夢の中で聞いた声が、まだ頭の中で来る返し響いている。
――あの男は何処じゃ!
ヴァレリアは、ああと小さく悲痛な声上げて頭を振る。恐ろしい声だった。
あの黒く濁った玉……あの女性は……いや、あれは人ではない……。
一向に静まらない鼓動を落ち着けようと、懸命に息を吐くがブルブルと唇が震えただけだった。
そして突然と、一つの事実に気付いてしまった。
ヴァレリアはベットから降り、バタバタとドアへと走った。隣室に控えている侍女に向かって叫ぶ。
「ビオラを呼んで! 早く!」
真夜中に叩き起こされたにも係わらず、ビオラは即座に身なりを整えヴァレリアのもとへと参じた。
ドアを開けるなり駆け寄り、蒼白になっているヴァレリアの両手を握る。彼女がただならぬ様子だと侍女から聞いていたため、安心させるように静かな声をかける。
「落ち着いて、お話を聞かせて下さい」
「ああ……大変なことが起こるの……いいえ、もう起こっているかもしれない! 宝玉から妖魔が復活したのよ。そして、誰かを捜しているの……」
ビオラの顔に緊張が走った。ついに太古の妖魔がこの世に再び現れてしまったと愕然としていた。
「……妖魔が誰かを捜しているのですか?」
「ええ……あの男は何処にいるって……叫んでいたわ」
ヴァレリアはガタガタと震えている。
「ビオラ……どうしよう、もしもアレがテオを捜してるんなら……ああ、テオが!」
「落ち着いて……」
今にも泣き出しそうな彼女をそっと抱きしめて、ビオラは優しく囁く。
「あの妖魔が封じられたのは千年も前のことだと聞いています。テオの事を知っているとは思えません。……きっと、髑髏の騎士のことでしょう」
ヴァレリアの髪をそっと撫でながら、努めて穏やかに言い聞かせていたが、その背中には冷たいものが流れ落ちてゆくようだった。
アインシルトから聞かされた惨禍の予感が、更に彼女の体を冷やしてゆくのだった。
ヴァレリアは小声で、髑髏の騎士とつぶやく。テオではなく騎士を探している、そう考える方が自然だった。
「ビオラ……私をインフィニードへ連れていって。お願い」
つい今しがたまで震えていたヴァレリアが、キッと顔を上げて言う。
どうすればいいのかは分からない。でも『破魔の巫女』の力がある自分なら、きっと役に立てるとヴァレリアは思うのだ。
アンゲリキはこの力を恐れて、ゴブリンに変え卵に閉じ込めたはずで、それは裏を返せば妖魔を止める力があるということになる。自分がやらねばならない役目だと思った。
「危険ですよ。…………それにテオが……」
「テオが?」
「私がここに遣わされる直前に、絶対にミリアルド王宮から貴女を出すなと釘をさされました」
ビオラが困り顔で首をかしげると、ヴァレリアは意を決したように言う。
「あなたに命令できるのはテオじゃなくて、アインシルト様でしょう」
「ええ……」
「……テオはそんなにまで私を近づけたくないのね、顔も見たくないってことかしら」
ふうと悲しげに吐息し、彼女は続ける。
「……でもアインシルト様なら、そんな事はないでしょう? 私を邪魔者扱いしないでしょう?」
「その通りです……師は、ヴァレリア様の協力を願っておいでです」
「なら、連れて行って」
ビオラは思わず目を閉じ、眉間に皺を寄せる。
計らずも老師から与えられた密かな命令を、相手の方から申し出てくれた。だが、ビオラの思いとは相反することだったからだ。
表向き黒竜王からの命令は、ヴァレリアの身の安全を守ることだったが、アインシルトから付け加えられた指令は、彼女の『破魔の巫女』の力をインフィニードの為に使ってくれるように、彼女とミリアルド王を説得することだった。もちろん王女の安全と、相応の見返りも約束してのことだ。
故にこれは、願ったりかなったりな展開なのだが、王女を危険に晒すことにビオラは抵抗があった。テオからの厳命に従ういわれはないが、彼の言うように王宮から連れ出したくない気持ちがあるのだ。ヴァレリアのことを愛しい妹のように思っていた。
「本当に危険です……他国の危機の為に姫が身を削ることはないと」
「ねえ、ビオラ。バカな事を言うと思うかもしれないけど、ブロンズ通りで過ごした数ヶ月は、私にとってとても輝いた日々だったの。今までで一番幸せだったわ。もう他人事ではないの。この災厄は、いずれミリアルドや近隣諸国にも広がるわ……。出来ることがあるなら、私は迷わない。アインシルト様も待ってくれているのでしょう。インフィニードへ連れいって」
「……覚悟ができておいでなのですね。分かりました……」
ビオラはひざまずいて頭を下げた。
「でも、一つ訂正してもよろしいですか?」
小首をかしげるヴァレリアに、にっこりと微笑みかける。
「テオはあなたを邪魔者だなんて思ってませんわ。ただ、貴女を守りたいだけ」
「…………そうかしら……私はそうは思えないの。テオは私に会おうともしなかったわ。ミリアルドの王女という私の存在が重たいのね」
そう言ってヴァレリアは目を逸らした。
ニコにも似たことを言われた。でもそれならあの手紙はなんだったというのか。
――君に嘘をついた。真実は何処にもない。だからさようなら。
あのブロンズ通りでの日々に、テオの真実は無かったというのか。輝いていたと思っているのは自分だけで、彼にとっては本当は煩わしい日々だったのか。ついに切り捨てられたのだと、ヴァレリアは何度も涙を流したのだ。
ビオラやニコのいうことは何の慰めにもならなかった。
「……会えると良いですね。でもその前に、ミリアルド王の許可を得なければ……」
口ごもるビオラだった。
インフィニード行きを了承しておきながら渋るビオラに、ヴァレリアは今すぐ行かなければならないと強い口調で迫った。
父の説得は後回しでいい。侍女に魔法をかけてヴァレリアに化けさせておけばよいと、大胆なことを言う。
「グズグズしてられないの! ね、ビオラ、魔力はほぼ回復したって言ってたでしょう? 朝まで待っていたら手遅れになるかもしれないの!」
強引にビオラの手を取って、ヴァレリアは急かしていた。
二人はビオラの白い飛竜の背に乗って空を駆けていた。
半ば命令するように、ヴァレリアはインフィニード行きを決行させたのだ。
ゴウゴウと激しい風の中、飛竜は時折態勢を崩しつつも懸命に西の隣国に向けて飛ぶ。手綱をつかむビオラの腰にしがみつきながら、ヴァレリアは遠く地上に熱い視線を送っていた。
彼に会えなくてもいい。少しでも近くに行ければいい。そう思うだけで胸が高鳴った。
だが、自分は惨事を防ぐ為に行くのであって、片恋の相手に会いに行くのではないのだからと、自身の心を戒める。
飛竜は迷霧の森の上空を飛んでいた。森が切れれば、そこはもうインフィニードだ。
風がますます激しく吹き付けてくる。
「しっかり掴まっていて下さい!」
ビオラが叫んだ。それすら暴風で聞き取り辛い。
遠くに町の光がポツンと見えてくた。
「ブロンズ通りにお願い」
「分かりました」
飛竜は風を引き裂いて飛び、懐かしいあのブロンズ通りへと急行するのだった。




