26 褐色の肌の女
不意に起きたカチリという微かな音に、アンゲロスは振り返り跳ねるように立ち上がった。
割れた鏡の破片が猛スピードで木枠に吸い寄せられ、ピシピシと音を立てながら再生してゆく。何が起こったのかと顔をしかめた時、鏡の中からゴウッと爆炎が吹き込んできた。
「なに!?」
咄嗟にアンゲリキを抱えて飛び退る。
ゴウゴウと燃え盛る炎を忌々しげににらむと、その中に人影が揺れるのが見えた。と、次の瞬間にはその影が勢い良く飛び込んできた。
炎を切り裂いて、彼にとって一番邪魔な男が姿を現したのだ。ギリッとアンゲロスの奥歯が鳴った。
鏡の中を自由に行き来できるデュークの能力を得て、テオはこの場所を突き止めた。ここでケリを付けようと、息つく暇もなく大きく開いた手の平を差し向ける。
「火炎槍!」
特大の炎の槍を放つ。
敵の顔、元はユリウスだったその顔を見れば迷いが生じる。だから、一気に攻勢をかけなければならないのだ。
アンゲロスはアンゲリキを抱いたまま、横っ飛びにかわした。炎の槍が彼の背後の壁を焼き鎮まる頃には、二撃目三撃目が既に放たれている。
「貴様……こんなところにまで……」
もう避けることはせず、アンゲロスもうねる大蛇のような炎を放って攻撃を制していた。
ギチギチと歯を鳴らして、テオをにらみ付つけてくる。知的な印象をあたえるユリウスの顔が、アンゲロスに奪われたことで醜く歪んでいた。
テオは友人の体を奪った魔物の顔には酷く嫌悪を覚える。
そして目の前の敵と、その腕の中でぐったりとしている魔女を交互に見つめた。
魔女の血の気のない青白い顔には、まるで生気がない。その首にくっきりと浮かんだ手形を発見すると、強まる嫌悪に侮蔑の念が混じった。
双子の片割れにも手にかけるとは……。
「仲間割れかぁ?」
目の前の男の醜悪さ酷薄さに吐き気がこみ上げてきたが、己を奮い立たせるためにも事更にニタリと笑ってみせる。
そして、さらに顔を歪めるアンゲロスをあざ笑ってやるのだった。
「だったら、オレの手間を省いてくれてありがとうと言っておこうか」
「……愚かにも自ら死にに来た輩が何を言う」
怒りがアンゲロスの顔をどす黒く染める。
憤然とつぶやきアンゲリキを床に降ろすと、懐から宝玉を取り出した。清濁混合の玉がキラリと光った。
自分にはこの奥の手があるのだと、いやらしい笑みを浮かべる。
わざとらしくテオに向かって掲げてみせると、ガリリと唇を噛んだ。アンゲロスの口端からこぼれた血が、赤い線となって顎から滴り落ちる。
「穢すつもりか!」
テオは顔色を変えて叫んだ。
玉が穢されてしまったら、一体何が起こるのか。
予言の力が失われるだけならまだいい。だが、妖魔が復活してしまうのではないか、とテオは危惧していた。
目をむいて踏み出してくるテオを制するように、アンゲロスは宝玉を見せつける。
「そうとも……」
テオの放つ火炎よりも早く、アンゲロスは宝玉に唇を落としていた。透き通り清浄な光を放つ半球に、忌むべき烙印のように血の跡がつく。
「止めろ!」
猛進してくるテオをいなすようにかわすと、嗤いながら玉をベロリと舐め上げた。赤い血がベットリとまとわりつく。まるで元から真紅であったかのように。
そしてすぐに、血はすうっと玉に吸い込まれて消えてしまった。
「……動くな。お前も何が起こるか知りたいだろう?」
アンゲロスが言い終わらぬうちに、玉が生き物のようにふるふると震え始めた。
そして黒い靄のようなものが吹き出してきたかと思うと、アンゲロスを跳ね飛ばして床にストンと落ちた。
何が起きる?
だが、テオはそれを確認しようとはせず、玉に手を伸ばした。
この凶々しい靄を堰き止めなければならないと思っていた。それができないなら、破壊しなければと。しかし、見えない強い力に体が弾き飛ばされてしまう。
したたかに尻を打ったが、素早く立ち上がった。
靄は急速に人型になり固形化した。そして、女の声が響いた。
『あああああぁぁぁ』
靄の中から褐色の肌をした女が現れた。
部屋の温度が一気に下がった。
ザワザワと全身の毛が逆立ってくる。これが伝説の妖魔なのかと、緊張に目が見開く。
女の出現に動きと止めているのはテオだけではない。アンゲロスも、食い入るように女を見つめていた。
その女。
黒く長い髪をバサリとたらし、どこか夢見るような陶然とした顔は、エキゾチックな美しさを放っていた。肌の色といい漆黒の髪といい、異国の香りのする女だった。
だらりと腕を下げ、体は脱力しているようでゆらゆらと揺れている。
「…………よもや、現し世に再び出る日がこようとは……」
顔にかかった髪を払いもせずに、女はゆっくりと周りを見渡す。
石のように固まりつつも目だけはギラつけせているアンゲロスを見、そしてゴクリと唾を飲むテオに視線を移した。
途端に、女の顔に動揺が走る。そしてみるみるうちに目に光るものが溢れてきた。
「ああ、お前様……お前様!」
すがるようにテオに抱きついてきた。
ひやりとする手に抱きしめられ、テオの背にゾクリと冷たいものが駆け上がる。ドッと冷や汗が吹き出し、身動き一つ取れず掠れた声を絞り出した。
「な、なにを……?」
「……違う」
女は頭を大きく振り、よろよろと離れていった。
「ああ、違う……あの方ではない……」
テオを見つめる女の目から涙がポロポロと零れた。
「あの方であるはずもない……あの方はもう……。そう! わしが骨に変えてやったわ!」
泣いていた女が突然ヒャッヒャッと笑い出し、ブンと長い髪を振り上げると悪鬼の顔が現れた。
二本の角が突き出し、牙をむいて嗤っている。
ヒュン!
鋭く尖った爪が、間近で立ち尽くしているテオの胸元に向けて走る。咄嗟に身をかわしたが、ローブは切り裂かれ肌に細い朱線が入っていた。
女はまた爪を振りあげ叫ぶ。
「何処じゃ! あの男は!」
憎悪をむき出した女は錯乱しているようにも見えた。
彼女から距離を取ろうとするテオを押し倒し、その腹に膝の重い一撃を食らわせて叫ぶ。
「わしを閉じ込めた報いを受けさせてやる!」
叫びながらテオの首を片手で締めあげる。憎しみの全てをこめているのか。
テオは喉をきつく握られ呼吸できず、必死に抵抗した。だが重く冷たい氷の固まりが乗しかかり体温までも奪っていくようで、はね退けることがまるでできなかった。
テオをにらんでいるのに、女の目には他のものが映っているようでどこか焦点が合わない。
苦しさにあえぐテオの口にかじり付き、なおも叫んだ。
「何処じゃぁ! わしの愛しい男は何処じゃ。あの憎い男は!」
ビリビリと空気を震わせる女の声に、アンゲロスがゲラゲラと高笑いで答えた。
「あれはもう目覚めている! お前が来るのを待っているぞ」
女がブンッと顔を振り上げる。テオの血を長い牙から滴らせて、ニィっと唇を釣り上げた。
もう用は無いとばかりにテオを蹴り飛ばし、アンゲロスが指差す鏡に目を向ける。それはテオが再生し、鏡の世界と現実の世界とを繋ぐ出入口になった鏡だ。
なんてことだと、テオは息を呑む。
キヒヒと小さく笑うと、女は猛然と鏡へと走りその中に飛び込んだ。
すかさずアンゲロスも後を追って鏡の向こうへと走り去る。
「ま、待て!」
ゲホゲホと咳き込みながらテオは立ち上がるが、足がもつれてすぐに膝をついてしまった。顔を上げた時にはもう、アンゲロスの姿も鏡には映っていない。
ゴンと床を殴った。策も練らずに猪突した結果がこれだ。
何故、一撃でヤツを殺せなかったか。
妖魔復活も予想できたはずだと、自分を呪った。
後を追おうと立ち上がった所で、床に倒れ伏すアンゲリキが目に入った。
死んでいるのだろうか。これは本当に仲間割れなのかと訝る。
アンゲロスがこの魔女を手に掛けた理由など、自分にとってはどうでもいい。だが、癒着しきっていた二人の関係が壊れたことで、アンゲロスがどう動くことになるのかが気になった。
そして、彼らと共にいると思っていたニキータがいないことにも不審を覚える。
テオは、注意深くアンゲリキの顔を覆っていた髪を払う。
指先に触れた肌はしんと冷たかった。ピクリとも動かないアンゲリキだったがその顔はどこか安らかで、テオが嫌悪し続けてきた稀代の魔女と呼ばれた女とは思えない、極普通のありふれた少女のようだった。
――もしもこの顔を始めに見ていたら、オレはコイツを憎めただろうか。
テオはハッと頭を振る。既に憎しみが薄れて哀れみに変わり始めているではないかと、舌を打つ。
こんなだから、詰めが甘くアンゲロスを仕留められないのだと自嘲した。
「……デュークがいたら、クソ甘いガキだって言われそうだな」
いつか言われた言葉を思い出す。
『貴方はめちゃめちゃにブチ切れないと、殺せないでしょう? だから私が殺ってあげると言っているのに。代わってあげますよぉ?』
「誰が、クソッタレに代わってもらうか……」
テオはきつく唇を結び、アンゲリキの首に手を伸ばした。