11 森に潜むもの
霧が再びまとわりついてきた。
テオは白い霧の中をゆっくりと歩き出す。静かだった。草を踏み分ける音だけが耳に届いてくる。
そして、しばらく行くと立ち止まった。サッと手を降ると、彼らの周りから霧がゆるゆると後ずさっていく。そこは少し開けた草原の中だった。
「拾ったのはこの辺りだが、君が知るはずないな。あの獣にも、心当たりはないんだろう?」
「ええ」
「さあ、どうしたもんかな」
目を閉じてじっと考えこむ。
人差し指と中指を眉間に当てた。感覚を研ぎ澄ませると、周辺の景色が頭の中に浮かび上がってきた。
足元の草の中に、小さな薄ピンクや白い花が咲いている。幾種類もの小さな虫達が地面を這い、それを餌をする大型の虫も跳ねまわっている。
頭上では、梢にとまった数羽の小鳥が遠巻きにこちらをうかがっていた。少し遠くにたぬきのたぐいが息をひそめているようだ。
草陰にはピクシーも数人。霧に巻かれて森を出損なったようで、途方に暮れた顔だった。
特別なものは見当たらない。あたりはしんと静まりかえっている。
退けられていた霧がゆっくりと近づいてきた。再び、彼らは真っ白な霧に包み込まれた。
ベイブは、音もなく色もなく方向さえも定かでない白い闇の中で、五感が遮断される恐怖を感じた。唯一、確かなものであるテオの胸にしがみつく。その心臓の音を聞いているうちに、少し落ちついてきた。
「ねえ、ここに何かあるの?」
「いや、手がかりになるものは見つけられないな……期待させて悪かった」
テオはつぶやくと、歩きはじめた。
迷いもなく、またどんどんと歩いて行く。ベイブにはもうどこをどう進んだのかまったくわからない。
そして不意にニコの姿が現れた。哀れなほど青くなっていて、テオたちを見つけた途端へなへなとしゃがみ込んだ。
「ああ、よ、良かった。置き去りにされたかと……」
「なんだよ。迎えに戻るって言っただろうが。情けない顔するなよ」
テオはニコの背中を思い切りバンっと叩いた。
よろよろと立ち上がったニコは、顔を引きつらせながら先を進むテオのローブの端をつかんで付いていった。
「さっき、何かいたみたいですけど、どうなったんですか」
「別にどうもしないさ。逃げられたからな。ま、一つ解ったのは、ベイブはこの森にいる何者かに卵に閉じ込められたってことだな。あの獣はソイツの使い魔ってとこだろう」
「それって、例の……ですか?」
「多分な」
そっけなく言う。
その後は、三人ともずっと無言で歩き続けた。そろそろ正規のルートに戻るはずだ。
すると前方の霧の中に、ぼんやりと数人の人影が見えてきた。
「誰だ!」
人影が鋭く詰問してきた。
ガチャリと銃を構える音がした。
「待て! 撃たないでくれよ! 怪しい者じゃない。オレたちは道に迷ったんだ」
テオはベイブをローブの中に隠すと、右手を上げてゆっくり近づいた。
ニコも両手をあげて続く。
霧の中に四人のあずき色の制服を来た兵士の姿が見えた。見慣れないその制服はインフィニードの兵士のものではなかった。
彼らはジロジロとテオとニコをにらみつけてから、銃を下ろした。
妙なローブを着た男と真面目そうな少年は、彼らの警戒対象とは違っていたのだろう。うさん臭げに見てはいるが、反面安堵しているのがニコにも判った。
「ここで何をしていた」
「ああ、助かった。ちょっと薬草を摘みにきたんだけど、道に迷って散々でしたよ。あ、オレたち魔法使いやってるんでね。で、インフィニードはどっちですかねえ」
テオはペラペラと嘘を吐く。
「……あっちだ」
ふんと鼻を鳴らして、兵士は指さした。
ペコリと頭を下げて立ち去ろうとすると、リーダーらしき一人が呼び止めた。
「お前たち、この森の中で何か見かけなかったか?」
「何かとは?」
「……お前たちのように道に迷った者とか、馬とか」
「いえ、何も。こんな深い霧の中じゃ誰かいたって、気づきませんよ」
テオはほんの少し、唇の端で笑った。黒い獣が潜んでいることを教えてやる気は、さらさら無いようだ。
テオの皮肉に、兵士は不快そうに眉をしかめる。
四人の兵士たちは、テオとニコの姿が見えなくなると、反対のミリアルドの方角に歩き出した。
「こんなに霧が深いと、何も見つけられやしない。今日はさっさと引き上げよう」
「まったく面倒な仕事だよ……」
ほとほと嫌気がさしたというように、彼らはつぶやいた。
リーダーを先頭にしばらく歩いていると、少し霧が晴れてきた。
前方に人影が見える。一人だ。
「こんな霧の日に森にはいるなんて、今日は物好きが多いな……」
リーダーは目を凝らした。
そして、先ほどと同じように鋭く問いかける。
「誰だ!」
素早く後ろの三人が銃を構える。
だんだんと霧が薄くなる。小さな人影が見えた。
「あら、怖いわ、兵隊さん」
大きなウェイブのかかった黒髪の少女だった。
雪のように白い肌の美しい少女だ。唇が血のように赤い。レースとリボンに飾られた、少女趣味な黒いドレスを着ている。妙に艶やかな笑みを浮べていた。
怪しむ兵士達に、少女はゆっくりと歩みより指をパチンとならした。
途端に兵士は銃を下ろし、木偶人形のように突っ立った。そして彼女は、まるで彼らがそこにいないかのように通り過ぎていく。
少女が十歩と離れぬうちに、兵士たちはまた歩き出した。
ただ、一人を残して。
「こんなに霧が深いと、何も見つけられやしない。今日はさっさと引き上げよう」
「まったく面倒な仕事だよ……」
彼らは、自分たちが同じセリフを繰り返していることに気付かず歩いていく。もちろん、仲間を一人取り残していることにも気付いていない。
元から三人だったように、何の疑いもなく彼らは去っていった。
少女は微笑みを浮かべた。
彼女の後ろには、呆けたままの兵士が付いてきていた。
兵士の瞳は異常なものに変化していた。明るさが変わったわけでもないのに、瞳孔が黒目いっぱいに拡張したかと思うと、すっと収縮して点のようになる。そしてまた拡張しては収縮するという、不気味な動きをしていたのだ。
兵士の顔は意志を持たぬ人形のようになっていた。
「あの子ったら、あの魔法使いのところに転がりこんで……面白いじゃない」
少女は立ち止まり、クスクスと笑う。
「いいわ、今は見逃してあげる。これからお楽しみが始まるんですものね」
少女がもう一度指を鳴らすと地面から霧が湧きおこり、二人の姿をかき消した。
「さっきのはミリアルドの兵士ですか?」
足早になるテオの背に向けて、ニコが尋ねる。
そうだとうなずいて、テオはうんざりした声をあげた。
「クレイブがオレに押し付けようとしていた厄介事。王女の捜索だろうな」
「え!? この森で迷子になったんですか? それじゃ助からないですよ」
「そうとは限らないさ。どこか、南の国へバカンスに行っただけかもしれないし。とりあえず、色々調べてるんだろうさ。ま、オレたちには関係のない話だ。……行こう、ベイブの様子がおかしい」
テオの腕の中でベイブはガタガタと震えていた。
「……だから、行きたくないって言ったのよ……」
彼女は声も震わせて、身を硬くしていた。
その小さな体を優しく抱えて、テオは森の出口に向かっていった。
森を出たところでキャットが待っていた。彼は馬の背の上でのんきに昼寝をしていた。
家に戻ってからのベイブは、何も言わずにクーファンに潜り込んでしまった。そしてキャットはその側でうずくまると、近寄るなと言いたげにテオ達をにらみつけた。
二人は彼女が落ち着くのを待つことにしたのだが、十分もたたずにテオは様子を見にいってしまった。しばらく放っておけとニコには言ったくせに、気になって堪らないようだ。
「どうした、ベイブ。あの獣や、森が怖かったか?」
テオはカーテンを開け、クーファンの隣に座った。
キャットが鼻を引くつかせながら、片目だけ開けて眺めている。しっぽをゆさゆさと振って、テオの足にぶつける。もっと離れろとでも言っているのだろうか。
テオは構わず、独り言のようにつぶやき始めた。
「なぜ君は森に入ったんだろうなあ。恐ろしい森だと知らずに足を踏み入れたのか、知っていたが何か目的があったのか……。この質問には、答えられないんだろうね。呪いが邪魔して」
返事はない。
毛布の上から優しくベイブをなでた。
「危険な目に合わせてしまったな」
テオの声は沈んでいた。
魔女はベイブを殺すつもりで卵に閉じ込めたはずだ。それが生きているとバレてしまった。あの獣が襲ってきたというのは、そういうことだ。
迷霧の森にベイブを連れていくべきでは無かったと、テオは後悔していた。小さくため息をつく。
「とても本気で襲ったとは思えない。すんなり引いたってことは、魔女は君の生死にもう興味が無いのかもしれないな。希望的観測かな。……ベイブ、絶対に君を守るから、そんなに怯えないでくれよ」
ベイブが顔をのぞかせた。
「……違うの。あんたのせいじゃないの」
その大きな目が涙で潤んでいる。テオは息を飲む。
彼女の涙に、たじたじになっていた。
「そ、そんな、か弱い小動物みたいな目をするなよ。なんだかオレが、子羊をいたぶる狼みたいだ……」
ベイブはクスリと笑う。指で涙を拭いながら笑う。
彼の言い訳じみた口調がなんだか可笑しくて、固くなっていた心が解けてゆくように感じた。
「確かに怖かったけど、あんた、あたしを守ってくれたじゃない。頼もしかった……と思うわ、よ?」
「そう?」
「……自分のことを話せないのが、苦しくて堪らないだけなの」
「オレにそれを見抜くことができれば、呪いは全て解けるんだろうな。……時間がかかりそうだ。それでもいい? 何かヒントがあればな……」
ベイブはすがるようにテオを見つめ、うなずいた。
キャットの耳がピクンと動き、静かにまた尻尾をゆらした。
*
薄暗い廃屋の中に、コツコツと足音が響いていた。
幾つも小さな穴の開いた天井から、白い線となって陽光が幾筋も差し込んでいる。埃がその光の帯の中で、キラキラと輝きながら舞っていた。
部屋の真ん中には、がっしりとした体躯の男が立っていた。
そのあずき色の制服を来た兵士の周りを、黒いドレスの少女が歩いている。
足音は彼女のものだ。
色の白い、あどけなく美しい少女だった。十代前半といったところだろうか。
「私、ミリアルドに住んでいたこともあるのよ。むかーし昔のことだけど……」
ふと立ち止まり、ぼうっと突っ立ているミリアルド王国の兵士のあごを、人差し指でつつきあげる。
イタズラっぽい仕草だった。
「どこへ行っても同じだった。……私達はいつも忌み嫌われる。いるだけで厄介者扱い……。ねえ、どうしてだか解る?」
少女は兵士の胸にしなだれかかった。
鼻にかかった艶っぽい声で、囁き続ける。
「双子だからよ。不吉なんですって。男と女の双子は特に。あなたもそう思う?」
兵士の胸に頬をよせ、指で「の」の字を書いてすねたように見上げた。
兵士はぼんやりとうす目を開き、だらしなく開いた口からは涎がたれていた。少女の声は、果たしてその耳に届いているのだろうか。
と、ギラリと少女の瞳が光り、急にその顔は大人びたものに変わった。百戦錬磨の毒婦の顔に。見かけどおりの年ではないのだろう。
「下らない俗信。無知な民衆。低俗な魔法使い。……そんなものに私達は虐げられた。生まれながらに強い魔力持っていたのも仇になったわ。……悪魔の生まれ変わりだなんてね」
少女はくるりと兵士に背を向けた。そしてまた兵士の周りを歩き始めた。
コツコツと足音が響く。
「でも、いいの。そのおかげで、素晴らしい力を手に入れることができたんですもの。今じゃ私の名前を知らない者は、一人もいないんだから」
声がワントーン低くなった。
兵士の前で立ち止り、下から睨めあげた。
「私の名前を言ってごらん」
ざらついた声だった。一瞬にして、百歳も年をとったようだった。
兵士の唇がぶるぶると震えだし、かさついた喉から懸命に声を絞り出した。
「ア……アンゲ……リキ……」
魔女は名前を呼ばれ、年端もいかぬ少女のように嬉しそうにニッコリと微笑んだ。
天使のように清らかな笑みだ。
「よくできました。では自分の運命も、もう解っているわね」
愛らしく輝くような笑顔なのに見る者の背筋を凍らせる、そんな微笑みだった。
部屋の隅から、静かに黒い影が近づいてきた。そのボディラインはしなやかでかつ筋肉質であり、まるで豹を思わせるネコ科の動物のものだった。しかし豹にしてはかなり大き過ぎる、真っ黒な獣だった。
「それにしてもあの子、どうやってあの魔法使いに取り入ったのかしら? それとも彼の方から、首を突っ込んできたのかしら」
あごに人指し指を当てて小首をかしげる。
獣がアンゲリキの胸に頭を擦り寄せてきた。グルグルと喉を鳴らしている。
「お前が言うから見逃してやったたけど……。いずれは取り返さないとね」
よしよしと獣を撫で抱きしめた。小さな子どもをあやすように、背をトントンと優しく叩く。
獣はうっとりと目を閉じ、ますます喉を鳴らした。
アンゲリキも満足そうに微笑んだ。そして、ゆっくりと身を離した。
「さあ、はじめましょう」
彼女の言葉に獣がうなずく。
アンゲリキは兵士の手を取り、歩き出した。
大きな姿見鏡の前へと進んでゆく。
「さあ、一緒にいらっしゃい。あなたに手伝ってもらいたいの」
片手を鏡面に添えると、ザワザワと水面のように波紋が浮かび上がった。そして、すうっと手が鏡の中に入り込んでゆく。
魔女は鏡の中に入っていった。
彼女にしっかりと腕を掴まれた兵士は抗うこともできず、鏡の中へと引きずり込まれていった。獣もその後に続く。
廃屋は静まりかえり、誰もいなくなった。
しかし大きな鏡には、魔女と兵士の歩いてゆく姿が映っている。
彼らは鏡の中をどんどんと歩いてゆき、扉を開けて屋敷の外へとでた。が、そこは現実世界の屋敷の立っている場所とは違っていた。
暗い森の中だった。
暗闇の中に、ボウっと光るものがあった。
それは卵のよう形をした石だった。緑色にぼんやりと光っている。その表面には深いヒビが入り、今にも割れそうだった。
アンゲリキと兵士はその石の前で立ち止まった。
魔女はひざまずき、愛おしそうに石に頬ずりをした。
「もうすぐよ……」
優しく石を撫で上げると、ドクリと脈動を感じた。
アンゲリキの頬が紅潮する。
立ち上がり、兵士に向かって微笑んだ。
「私の半身を取り戻すの。だから、死んでね」
カッ目を見開き、魔女の体が発光した。
すると、彼女の頭の位置がずんずんと高くなっていった。あっという間に、兵士の身長を追い越し、両腕で兵士の頭部を胸に抱え込める程になっていた。
彼女の下半身は、白くヌメヌメとした蛇の胴に変化していたのだ。蛇は、兵士を容赦なくキリキリと締めあげる。
ヒヒっと魔女は嗤った。
それを合図に、獣が獲物の喉に喰らいついた。
ボトボトと大量の血が、石に降り注ぐ。
兵士の膝がガクリと崩れ、石の上に更に鮮血をまき散らした。石は真っ赤に染まり、兵士の流した血をゴクゴクと吸い込んでいた。まるで生き物のようだった。
バン!
大きな音を立てて二つに割れた。
その割れ目から、ゴウゴウと炎が立ち昇った。
四、五メートルはあろうかという、巨大な火柱だった。
「あああ……。あああ! やっと!」
魔女は、うっとりとその炎を見つめ上げた。




