24 居場所
アンゲリキが本当の母でないことなど、とうにニキータは分かっていた。
分かってはいたが、いつすり替わったのかはまるで見当がつかない。気が付けば、母は鏡に向かっていることが多くなり、侍女たちがまるで仕掛け人形のようになっていたのだ。
アンゲリキが、初めて自分に魔力を分け与えてくれた時、不思議なものを見た。
目の前の母は笑っていたのに、鏡の中の母は涙を流していた。何かがおかしいと感じた。しかし恐怖はなかった。なぜ泣いているのかも分からなかった。
日に日に強烈な力が自分の中に注ぎ込まれてゆくと、黒髪の少女が母の姿に重なって見えるようになった。
それでも不思議と恐ろしいとは思わなかった。それが母の本当の姿なのではないのかとさえ思った。自分が知っているそれまでの母と、少女の言動も表情も何も変わらなかったからだ。
目の前にいる彼女は、昨日と同じように変わらず優しく抱きしめてくれる。いつも一緒にベッドに入ってお伽語を聞かせてくれる。叱ってもその後必ず抱きしめて「お前はいい子ね」とささやいてくれる。
そして、鏡の中で泣いていた母は、いつしか見えなくなった。
どこへいったのだろうと心配になったが、目の前にいる母が心配無いと微笑むと、不安は消えた。
ニキータは泣いている母よりも、笑っている母の方が好きだったから。
今となっては、本当の母に対してなんて薄情だったのだろうと思う。生母を哀れにも思う。しかし、それでもニキータにとって母とはアンゲリキだったのだ。
「ねえ、僕との約束覚えてる? 王宮の地下に一緒に行ったのは、ヴァリーを人間に戻す方法を教えてくれるって言ったからだよ?」
ニキータは、アンゲロスに向かって皮肉っぽい笑みを投げかける。
取引の代償として目の前の男が教えてくれた解呪の方法は、片手落ちなものだった。
「大事なところが抜け落ちていたじゃない」
「はっは! 全てを言えば、お前は従うのを渋るだろうからな。文句なら姉上に言え。呪いをかけたのは我ではない」
アンゲロスも笑みを浮かべていたが、その目は笑ってはいない。彼の苛立ちは更に強くなっている。
一歩、少年に近づく。すると、冷たい圧がドンと発せられた。
ニキータはゴクリと唾を飲むも、足は引かず踏みとどまっていた。
「もう一つの約束もまだ叶えてもらってない。墓所まで暴いたのに」
ニキータの額にうっすらと汗がにじんでいる。微かに震える指を隠すように、グッと拳を握った。
彼の背後にいるアンゲリキが、ピクリと眉をよせる。
スッと立ち上がり、少年に尋ねる。聞き捨てならない話だった。
「それはどんな約束なの?」
「ママを解放して……って。あんたたちの絆ってやつは、まるで呪いだよ」
「ニキータ……」
アンゲリキは思わず口に手を当てた。その指が震えている。
自分の為にアンゲロスと取引をしていたとは、と驚き動揺していた。無茶な取引だと、思わず首を小さく振っていた。
「ふん……ガキが知ったふうな口を利くな。お前が勝手に要求しただけではないか。約束などしていない」
「酷いな。あんたは確かにうなずいた」
「言葉で了承しなければ、契約にはならない……」
アンゲロスの髪がバチバチと火花をまとって逆立ち始めた。眉根を寄せて、目が釣り上がってゆく。その内面に激しい怒りをたぎらせているのだろう。
「……お前が我と対等な契約を交わそうとすること自体……小賢しい!」
怒声が発せられたと同時に、ブオッとニキータの足元で炎が燃え上がった。
「ダメ!!」
アンゲリキは、少年の腕を引っ張って大きく後ろに後退する。それまでニキータがいた場所に火柱が上がる。炎がニキータの顔をかすめてゴウッと天井まで一気に駆け上がった。そして、黄色く変色したクロスを一瞬で真っ黒な炭に変えてかき消える。
「ダメよ。アンゲロス」
アンゲリキはニキータの前に出て、両手を広げる。
弟が何をしようとしているのか、彼女には解りすぎる程解っていた。それは決して容認できることではない。
「どけ」
「止めて」
姉の拒絶に、アンゲロスはイライラと首を振る。
ニキータはずりずりと右へ右へと移動してゆく。彼の動きに同調してアンゲリキも動く。アンゲロスから少年を守るように立ちふさがりながら。
「どけ! アンゲリキ!」
ガンと足を踏み鳴らし、片手を振り上げた。その腕に炎が蛇のようにグルグルと巻き付いて燃えている。
「どかないなら……」
バチンバチンと音を立てて、更に激しく炎は燃え盛る。
その炎の蛇が跳びかかってきた、そう見えた瞬間ニキータは眼前に立つアンゲリキを引き倒した。
そして彼女を姿見鏡の方に思い切り突き飛ばした。
「早く、ここから出て!」
「ニキータ?!」
アンゲリキが叫んだ時には、少年は炎に飲まれていた。そして炎の魔物の手刀がその腹に突き刺さっていた。
「死ね! 死んで太古の妖魔の糧となれ!」
ゴブリと、ニキータの口から血が吐き出される。
アンゲリキは悲鳴を上げて、アンゲロスの腕にしがみついた。爪を立てて引き抜こうとする。だが腕は微動だにしない。
少年は顔をしかめて、ブルブルと首を振る。苦しんでのことではない。逃げるチャンスを作ったのに、彼女が思い通りに動いてくれなかった為だ。
魔女は蛇に姿を変えて、少年を襲う炎を飲み込んだ。
そして魔物の腕に牙を立てた。バキリと骨の折れる音が響く。
「いい加減にしろ! ソイツはただの手駒だろうが!」
腕を噛み砕かれたアンゲロスは、ニキータから一歩足を引いた。
見開いた目は、驚きを隠せず揺らめいていた。
アンゲリキが自分に真っ向から抵抗するなど、信じられないといった顔だった。
「殺してはダメ!」
「邪魔をするな」
「私を先に殺せばいい!」
シャーッと牙をむいて、アンゲロスに挑みかかっていった。グルグルと身体に巻きつき締め上げる。
大きく尾を振り、ニキータを姿見鏡へと弾き飛ばした。
蛇は突進しようとするアンゲロスの足を絡めとり、床に倒して妨害する。
「……マ、ママ、一緒に……」
そして苦しげに言うニキータに、更に尾を振り上げた。
ニキータは転がされ鏡にその背が触れると、それは水面のように波打ち、あっという間に少年の身体を吸い込んだ。
「……ママも!」
鏡の向こうで手を伸ばし叫ぶ少年の声が終わらぬうちに、白蛇は尾で鏡を叩いた。
蜘蛛の巣のようにヒビが入り、幾百にも分かれた鏡面一つひとつにニキータが映っている。
「姉上ぇ! よくも!」
アンゲロスは、ギリギリと締めあげてくる蛇の胴体を必死に振りほどこうとしていた。驚きが急激に怒りへと変容してゆく。二人で一つであったはずなのに、我を裏切るのかと。捨てるのかと。
アンゲリキは急いで、鏡に二撃目を与えた。
更に細かいヒビが無数に走り、鏡は真っ白に濁った。そして、パンと音を立てて粉々に砕け散った。
この鏡の世界と現実の世界とをつなぐ出入り口を破壊したのだ。
それは、アンゲロスがすぐさまニキータを追うことは出来なくなったということだ。
違う出口を探しだすには、アンゲロスといえども時間がかかるだろう。その間にニキータはきっと逃げ延びることができるはずだと、アンゲリキはホッと力を緩めた。
途端に、アンゲロスが蛇を振りほどきその頭を押さえつけた。
「なんてことをしてくれたぁ!」
ガンと殴りつけると、蛇はゆるゆると少女の姿に戻る。
美しい愛しい姉の首に指を食い込ませた。
彼女は抵抗しなかった。息苦しさに口を半開きにして、じっと弟を見つめている。
アンゲロスはなお力を込める。
ニキータに逃げられたことよりも、彼女の裏切りが許せなかった。彼女と一つでなくなったことが恐ろしかった。
自分が泣いていることにも気づかずに、アンゲロスはギリギリと歯を鳴らしながら細い首を握りしめていた。
*
ニキータは放り出された鏡の前で立ち尽くしていた。
もう、鏡の中に入ることは出来ない。今まではアンゲリキの導きで、自由に出入りしていただけなのだ。自分ひとりでは、あちらとこちらをつなぐ出入り口を作ることなどできはしない。
目の前の鏡は白く曇り、もう役を果たしていないことはありありと分かったし、中の様子を伺うことさえできない。
どうすれば良いのか、途方にくれていた。
それでも腹を押さえ、ゆっくりと歩き出す。ここに留まっていては、いずれアンゲロスに捕まってしまうだろう。アンゲリキが必死にかばってくれたのを無にしてはならない、そう思った。
彼女を逃がすつもりだったのに、結局守られたのは自分の方だった。
無力感がニキータの体を重く沈めようとする。しかし、歯を食いしばって鏡に背を向けた。
痛む身体を引きずって、廃屋の中を歩きはじめるのだった。
ここは、アソーギの町外れの幽霊屋敷と噂された廃屋だった。何度もここを出入り口として使ったものだった。
屋敷の外に出ると、真っ暗な空をゴウゴウと吹く風に雲が流されてゆくのが見えた。少しかけた月がその雲の切れ間から時折顔を見せる。
――お前の居場所に戻りなさい……
鏡の外に押し出される時、アンゲリキの声を聞いたような気がした。
自分に居場所なんてあるのか、戻る場所なんてないのに、そう思った。
うつむくと、月の光が作り出す自分の影が頼りなげに揺れている。しばらくすると雲が月を隠し、影は闇に飲み込まれていった。
「……どこへ戻ればいいんだよ」
ニキータは悲痛なつぶやきを吐いて、路地の闇を歩いてゆく。
あてなどなかった。
ただ歩き続けるだけだった。
ひっそりと静まりかえった町をひたすらに歩いていた。
石畳の通りをズルズルと影を引きずりながら進んでいくと、気がつけば見覚えのある景色の中にいた。
ブロンズ通り。
ニキータの目にキラリと光るものが溢れだし、頬を伝った。
そのままゆっくりと歩き、懐かしいドアに手をかける。
「ただいま……って言ってもいい?」
誰に尋ねるでもなくつぶやき、そっとノブを回した。
カチリと鍵の開く音が聞こえた。
ああ、こんな僕でも受け入れてくれるのかと、更に涙がこぼれた。
ニキータは部屋に入り、二階へと上がってゆく。
懐かしい匂いがした。
ベイブのブランケットを抱きしめ、テオのベッドに横になり目をつむった。
「ごめんね。許してくれないよね。ごめんね……」