23 恩人
愕然としながらもクレイブは、猛然と反撃を試みる。
この近距離で魔法を発動させれば、自分もただでは済まないしのんびり詠唱している余裕もない。
腕力勝負しかないが、まるで猛獣を相手にするようなもので、勝てる自信も全くなかった。
ええいままよと、牙をむき迫るその口中に思い切り拳を突っ込んだ。同時に膝を突き上げる。
覆いかぶさっているテオをどかさなければ、その爪か牙の餌食になるだろう。
グリグリと拳をねじ込みつつ、身体を捻って膝蹴りを夢中で繰り出していた。
テオの目が不気味に紫に光っていることに、クレイブは気付いた。瞬きもしないガラス球のような目は、尋常な人間のものではない。
テオはグフゥとうめいてクレイブの拳に噛み付いたまま、その腕を握りへし折ろうとしていた。
爪が突き刺さった肩が燃えるように熱い。
自分の血とテオの唾液が、ポタポタと顔面に滴ってくる。
腕を折られ、拳も噛み砕かれるのではないかと恐怖が走った。
「止めろ! シェーキー! 目を覚ませ!!」
その声は悲鳴に近かった。
先ほど自分に逃げろと言ったテオの言葉にすがるしかない。
何かに憑かれているのは一目瞭然だ。
彼を正気に戻すしか助かる道はないように思える。もしくは自身も巻き込むこと覚悟で、攻撃魔法を繰り出すか……。
クレイブの背をゾクゾクと怖気が駆け上る。
テオは喉の奥でグルルとうなっていた。
頼むから元に戻ってくれとクレイブは怒鳴った。
「叫べ! シェーキー! お前はテオドール・シェーキーだ! 自分の名を叫べ!」
己を取り戻してくれと、彼の名を叫ぶ。名を唱えることに効果があるかは解らないが、それしか思いつかなかった。
口に拳を咥えて、話せないテオの代わりにクレイブは必死に叫び続ける。
「シェーキーだ! テオドール・シェーキーだ!」
そのクレイブの絶叫に、ゆらゆらとテオの瞳が揺れる。
僅かにテオの力が緩むと、これは好機とその腹に思い切り蹴りを入れた。
更に、グウと吠えて身を丸めるテオを殴り、素早く逃れた。
そして火炎魔法の詠唱を始めたが、集中できずまごついてしまう。
するとクレイブを制するように、テオの開いた手がすっと差し出された。
ドキリと焦ったクレイブが後ずさり、慌てて中途半端な火炎を放とうとした時、テオがふわりと顔を上げた。
「ストップ……」
荒い息を吐き汗にまみれたその顔は、いつも魔法使いの顔に戻っていた。
いくらか精彩を欠いていたが、ニッと口角を釣り上げる笑みは、普段通りの憎らしいブロンズ通りの魔法使いの笑い方だった。
クレイブの手の平の火球がスウと縮んでゆく。
「シェーキー……か?」
「助かった……あんたに焼き殺されるなんて洒落にならん……」
「……戻ったか……」
ああぁとため息をついて、クレイブがその場にへたりこんだ。
ドッと身体の力が抜け落ちたが、まだ膝がガクガクと震えていた。
恨みがましくテオを見ると、こちらも脱力しきってあぐらかいて項垂れている。まだ息があがっているようで、肩が揺れていた。
チッとクレイブは舌を打ち、肩の傷を確認した。想像していた程にえぐれてはいなかった。
拳を握ったり開いたりしてみる。皮膚が裂けてはいたが骨に異常はないようだ。逃げろと言った位だ、完全に我を失っていたわけではなく、必死で手加減していたのかもしれない。
咄嗟に名前を唱えろと叫んだのは、良い閃きだったようだ。
一方テオの方も、シャツの腕の部分が切り裂かれていて、ダラダラと血を滴らせている。爆ぜたような肉色の太い線が何本も見えて、こちらの方が怪我の程度としては酷いのが見て取れた。
その傷はテオが自らつけたものだったが、クレイブの知るところではない。何かに襲われ、それに憑かれたのかと想像していた。
「……何があったんだ」
「んあぁ……話すと長いから……」
眉根を寄せて尋ねるクレイブの顔も見ずに、すっとぼけた声が答える。
「まあ、無事だったし……いいんじゃない?」
「お前! 人に襲いかかっておいてはぐらかそうっていうのかぁ!」
思わず殴りたくなる。
もう一度詠唱を始めてやろかとクレイブは立ち上がりかけたが、テオが低く唸りながら腹をさすっているのを見てふんと鼻で笑った。かなり効いていたようだ。こっちも怪我をさせられているのだ、ざまあみろといった気分だ。
「さっさと話すんだな。諮問会議にかけてやる!」
「まあまあ……」
「何がまあまあだ! 只事じゃ無かっただろうが!」
「確かにな。あんたの機転のおかげで戻れた……。ありがとう」
「…………!」
諮問会議程度では済まない裁判だ、と続けようとしていたクレイブだったが、思わぬ言葉に絶句していた。
一番口にしなさそうな言葉が、テオの口から飛び出して驚いていた。
まだ、憑き物が落ちていないのかと不安になる。
「オレの顔になんか付いてるか?」
「…………いや」
ゴフンゴフンと咳払いをした。
そして、自分を見て小さく笑っているテオをもう一度よく観察した。爪も牙も消えている。恐らくいつも通りのテオだろう。しかし、一点だけ異変が残っていることに気付いた。
「……お前、右目だけが紫だ……」
「ん? そうなのか? 左目は黒のままか?」
「ああ」
「そうか、左目のおかげでもあったってわけか……清浄に保たれ穢れることがない……」
「だから何の話だ!」
「……巫女姫とあんたが、オレの恩人だって話だよ」
テオはふふふと笑って立ち上がった。
「精霊を喰ったんだ。危うく人間捨てるとこだった」
軽いノリで言うテオを、クレイブは座り込んだまま見上げていた。
唖然として言葉が出ない。
精霊を喰った、その一言でクレイブは全てを理解することができたのだ。
ひらひらと手を降って、立ち去ってゆくテオの後ろ姿を息の詰まる思いで見送った。それはどこか凶々しさを感じる背中だった。
只者でない奴が、更に厄介事を背負い込んだと、不穏なものを感じてクレイブはゴクリと唾を飲む。
「待て。一応、手当してやる」
クレイブは、テオの腕の傷に癒しの魔法をかけてやった。
怪我を直せない魔法使いを怪我したまま送り出すのは、彼の矜持が許さなかった。
「まさか、あんたに世話になるとは思いもしなかった。人間どこでどうなるか分からないものだな」
「軽口はいらん。何をする気か知らんが、絶対に取り込まれるなよ……」
「ああ……」
*
古い洋館の窓のない部屋。
燭台のろうそくの火が、ゆらりゆらりと風にあおられ踊っていた。男が何度もその前を行き来しているせいだった。
壁に写った片腕を失った男の影が、壁を這うように右に左にと動きまわる。その影が大きな姿見鏡に差しかかると、ピシピシと鏡面が音を立てた。そして離れれば鎮まる、それを繰り返していた。
男はその小さなの物音にも苛立つように、部屋の中を歩き続けていた。
揺り椅子に座って膝に乗せた黒猫を愛おしそうに撫でながら、美しい少女は男の様子を眺めていた。
陶器のように白い肌を際立たせる漆黒のドレスを着た、魔女アンゲリキだった。
「ようやく解き放ったというのに!」
憎々しげにアンゲロスはつぶやく。
「アレさえ掴んでおければ一気にアソーギを、いやインフィニード全土を焼き払ってしまえたのに」
目論見が外れ苛立っていた。
アンゲロスは飛び去った髑髏の騎士を、懸命に探したが見つけることは出来なかった。ニキータさえ手中にしておけば彼を意のままに操れると踏んでいたのに、考えの甘さをあざ笑われたようで更に苛立ちを募らせていた。
「だが、いい……こちらには宝玉があるのだからな。いずれ騎士の方から必ず我らに接触してくるだろう」
口の端に、歪んた笑みを浮かべる。
アンゲリキは優しく黒猫を撫で続け、アンゲロスを見つめていた。双子の弟の一挙手一投足を見逃すまいと、じっと見つめているのだ。この後の彼の行動に、彼女はある程度予測が付いていたからだった。
アンゲロスは立ち止まり、彼女の全身を舐め回すように見つめ、最後に膝の上の黒猫に目を止めた。
ゴロゴロと喉を鳴らしていた猫がピタリと静かになり、挑むように見つめ返す。
そして、スタッと軽やかに床へ飛び降りた。と、同時に猫は少年に姿を変えていた。
金色のゆるい巻き毛、少女のように愛らしい少年。
ニキータはその小さな身体で、アンゲロスを阻むように揺り椅子の少女の前に立ちはだかる。
目の前に立つ長身の男を、負けじとにらみ付けるのだった。
本当は立っているのも辛かった。めまいを感じ、身体がふらつきそうになる。
まだ体調は万全ではなく、アンゲロスの導きがあったとはいえ、アインシルトの結界を破くのにもかなりの労力を使ってしまった。そして、洞窟での立ち回りも、全く余裕などなく体力のギリギリだったのだ。
だがニキータを苦しめているのは、肉体的な消耗ではなく心の問題だった。テオと相対した時の事が頭を離れず、胸が苦しかった。驚き愕然とするテオの顔に浮かんだのは怒りではなく、哀れみのように見えたのだ。祖国を裏切り続ける自分を、痛ましげに見た彼の顔が忘れなれない。
そして、裏切りはあの時の事だけではない。これまでにも多くの命も奪ってしまったのだから。
自分はやってはいけない事を、罪を、幾つも重ねてしまった。その事実が腹の中で固く重い石となって、ニキータを沈めようとしていた。
もう、アンゲロスの命令など聞きたく無かったが、彼の元にアンゲリキがいると分かっていて、無視することはできなかった。
そう、無視しようと思えばできたのを、しなかったのだ。
今だにアンゲロスは意のままに、彼を獣に変えて手駒に使えると信じていたが、アインシルトの下に匿われている間に呪縛は解けていたのだ。老師の解呪が功を奏したというのもあるが、呪いをかけた本人であるアンゲリキが呪いを手放したせいでもあった。
ニキータを縛るものは、もうアンゲリキへの思慕だけだった。
彼女の為にニキータはこれが最後と、アンゲロスの言に従い洞窟へと赴いたのだ。
この機会を逃せば、アンゲリキを解放できないとそう感じたのだ。