10 山の麓で2
ドリスはじっとテオを寝顔を見つめていた。
体調がすぐれないのかもと思って観察すると、心なしか隈ができているように感じた。
ベッドに腰掛け、彼の額に手をかざす。キラキラと輝く微細な光の粒子が無数に注がれていった。
「これで少しはマシになればいいけど」
「頼むよ」
ユリウスが言った。
王宮ではアインシルトや他の王宮付き魔法使いが、必死に手をつくしたのだ。それでもまだ影響が残る毒の威力に、自然と重いため息が零れた。
ニコはドリスが与える光を見つめている。四つ目のゴブリンの桜色の柔らかな光とは違うが、この光の粒子もテオを守り助けようとしていることは充分に分かった。
自分もアインシルトの指導でいくらか回復魔法を使えるようにはなっていたが、彼女らのようにはいかないことも身にしみて分かった。
彼女は真剣な顔で、テオを見下ろしていた。
「ドリスに任せておけばいい。彼女の回復魔法は一級だ」
ユリウスの言葉にニコが頷いた。
「そのようですね。僕なんて足元にも及ばないって、見ただけで分かりました。あ~あ、テオさんの言った通り、僕の役割はやっぱりパシリくらいなもんなんですね」
肩をすくめて笑って見せる。
この宿について、ニコが最初にした仕事はアインシルトへの連絡だった。ニコでなけれなできない仕事などでは無い。が、それをしなかったら本当に仕事が無いような気がして、ニコは自ら率先して雑用をこなしていた。
ついでに、ヴァレリアへの伝言も飛ばした。テオの了解を取っていなかったので、詳しいことは言えなかったが、アンゲロスの目論見を阻止するために少し遠出をしていると伝えた。無事にテオの仕事が終わるように祈ってくれと。
ユリウスとニコはしばらくテオ達を見つめていた。
ドリスをここに置いて、今夜はもう一つの部屋で休むことにしようとユリウスがつぶやいた。
「この様子じゃ、ヤツは朝までぐっすりだろうしな。朝、目が覚めてドリスが隣のベッドで寝てるのを見たら悔しがるだろうな」
ニっと笑うユリウスに、ニコは苦笑を返す。
ユリウスが言うようなリアクションを取るテオを、ありありと思い浮かべた。
でも、それは形だけのものだろう。例えドリスに気づいていても、テオは寝たふりを続けるだろうと思うのだ。今、彼の心にあるのは別の女性なのだから。
二人はゆっくりと立ち上がった。
「え!? ちょ、ちょっと、テオ!!」
突然ドリスが大声を上げた。ガクンと彼女の身体がベッドに沈み込む。
テオの腕が彼女の背と腰に回されて、ガッチリと抱きすくめられていた。
「ヤダー! 離して!」
「……テオさん?」
「この寝ぼけ野郎!」
ユリウスは即座にテオの頭を叩いた。パッシーンと、小気味良い音が響く。
「グガ!」
「起きろ! この色ボケ!」
ユリウスがテオの髪を掴んで怒鳴りつけると、彼はぼんやり目を開けた。そして、目の前にドリスの紅潮した顔を発見すると、驚きの声を上げた。
「……え……ニコじゃなくてオレを喰うのか?」
「馬鹿か!」
再びユリウスの拳が振り下ろされ、ニコは思わず手で顔を覆った。
やれやれと力が抜けてしまう。たった今、ドリスに手を出すことは無いだろうと思ったところだったのに。
寝ぼけて無意識だったのだろうが、何やってんだかと呆れてしまう。
「痛ってえなあ!」
「離してよ! ドスケベ! お尻触らないで!」
「んあ?」
ドリスは真っ赤になって叫ぶ。目が覚めたくせに、テオはまだ彼女の腰に腕を回したままだったのだ。
言われてようやく状況を理解したらしく、パッと手を離した。
「いやいや、これは故意では無く単なる事故だ。そう怒るなよ」
彼女が飛び退くと、ゆっくり起き上がってニヤニヤと笑う。悪気は無かったと言いながら、スケベったらしい笑い方をする。
ドリスはムッと顔をしかめて、にらみつけた。
「何が事故よ!」
ドリスは叫んで部屋を出て行った。バン! と勢い良くドアが閉まると、バリバリと壁まで振動した。
「ったく、そんなにヒステリックにならなくても」
「直ぐに手を離さなかった所に、意図的なものを感じるぞ。忠告しておく。今度彼女に不埒な真似をしたら……分るよな」
ユリウスがボキボキと指を鳴らすと、眼鏡がキランと光った。
「お、おう……って、わざとじゃないのに」
「わざとでなくても、指一本触れるな! わかったか!」
「なんで、お前がそこまで怒る? やっぱ狙ってたんだな。オレは今更、彼女とどうこうなろうなんて気はないぞ。ま、お前を応援する気もないから、不審な行動は全力で邪魔させてもらう」
イヒヒと笑う。
しかし、目は笑っていななかった。からかいの中に、何か不穏なものを含んでいるようにニコは感じた。
「邪魔する? 私が何をすると言うんだ。何を邪魔しようって言うんだ」
少々ムキになってユリウスは問つめる。
「とぼけるなよ。お前が昔のままなら、何をしようが別に問題はないんだがな…………そこのところ、どうなんだろうな」
テオは不意に冷えきった視線を彼に送った。抑揚をなくした声。感情を読み取らせないその口調に、ニコはドキリとなった。
アンゲロスが王宮に入り込んでいる――――。
要人たちは皆疑心暗鬼に陥っていると聞いていた。
まさか、テオも彼らのように誰もかれも信じられないと思っているのだろうか。
「…………私に疑いを晴らせと言いたいのか。いいだろう、それなら良く観察しておけ」
挑戦を受けて立つ、そういったユリウスの態度と、テオの冷めた顔とを見比べて、ニコは先行きに不安を感じはじめていた。
ドリスは部屋に入ると、そのままベッドに身を投げて天井を見上げた。
まだ、頬が赤らんでいる。
「いやだ……私ったら」
両手で顔を覆った。まぶたに浮かんでくるのはテオの笑顔ばかりだった。
彼とのことは、もう昔の思い出でしかないのに、ドキドキと胸が高鳴ってしまう。
今更昔のように恋人同士に戻れるとも、戻りたいとも思ってはいない。ただ、あの頃の甘い感情が大波のように押し寄せてきただけだ。こんなものは、直に引いてゆくだろう。
ドリスはコツコツと額を叩いた。亡き夫に小さくごめんねとつぶやいた。
夫は初恋の人とは全く違うタイプの人間だった。物静かで大らかで、包み込むような優しさを持っていた。声を荒らげたころなど一度も見たことはなかった。
その彼が力の限り叫んだのは、あの獣が現われた時だった。それが最初で最後だった。
<ドリス! 逃げろ!>
叫ぶと同時に彼女をドンと突き飛ばし、彼は獣の爪に引き裂かれた。
ズキリと胸が痛む。あの人はもういないのだ。これほどの痛みは今まで感じたことなど無かった。夫を失うことなど、考えたことも無かった。
じっとしていると夫の事ばかり考えて、子供に微笑むことも忘れてしまう。いっその事、二人で死んでしまおうかなどと愚かなことも考えた。
これではいけない、そう思ってユリウスの誘われるままここまで来た。現状を変える必要があると思ったのだ。力を貸して欲しいと言う、彼の言葉も彼女にとって救いになった。
何もかも失くした訳ではない、自分を必要としてくれている人がいるのだど。これから先自分に何が出来るか考える為に、子供の為に、もう一度頑張ってみようと思った。
懐かしい彼らと一緒なら、きっとこの先の生き方を見つけられる、そう感じた。
テオのささやきがまだ耳に残っていた。
彼が自分を抱きしめたのは、夢の中の誰かと間違えたからなのだと分かっていた。
<ベイブ……>
微かな声だった。ユリウス達には聞こえなかっただろう。
ドリスは、唇にほんのりと笑みを浮かべる。
良かった……心からそう思った。ちゃんと恋人がいるんじゃない、もう誰とも恋しないなんて言ってたくせにね、と。
ホッと息を吐き、ドリスは部屋のあかりを消した。
*
翌朝、ニコはユリウスよりも早く目が覚めた。まだ起き出して朝食を摂るには早い時間だったので、音を立てぬよう静かにベッドを抜けだした。
窓を開けると、待ちかねていたようにふくろうが飛び込んできた。
サッと手紙をニコの手に落とす。
ヴァレリアからの手紙だ。
随分と早い返信に、ニコは軽く首を捻り素早く目を通す。
――ニコ、気を付けてね。
短い手紙だった。
どうしたのだろう、と不思議に思う。いつもなら、今日はまたお兄様が……と愚痴を言ったり、仲の良い女中とお菓子の話しで盛り上がったとか、他愛のない話を織り交ぜてくるのだ。
それが、今日は一行だけ。
不意にニコは、彼女がこの頃テオの事を話題にしていない事に気付いた。
彼に会いたいと綴っていたのは、最初の二、三回だけだったのではないだろうか。今日の手紙にしても、自分のことは気遣ってくれているが、テオには触れていない。
もう、諦めてしまったのだろうか。
ニコは、自分が上手く立ち回れなかったせいなのだろうかと、罪悪感のようなものを感じた。
「ごめんね、ベイブ……」
空を見上げてつぶやいた。
宿で出された朝食は素朴ながらもとても美味しかった。
しかし、なんとも気まずい雰囲気が食卓には流れている。
「なんだ、みんなして辛気臭いな。朝から機嫌の悪い面しやがって」
テオがあぁあと声を上げると、一斉にお前のせいだろうと無言の視線を送った。特にユリウスはギンと鋭くにらみつけている。
テオに疑われたことが、余程気に触ったようだ。
さっさと食事を済ませたテオは、立ち上がるとニコの胸ポケットから少しのぞいていた紙に手を伸ばした。ヴァレリアからの手紙だ。ニコが拒もうとするより早く、ひょいとつまみ上げる。
「あ……それは」
チラリと目を通すと、テオは直ぐまたニコのポケットにねじ込んだ。いやみったらしい笑みを浮かべている。
「……また勝手に。……本当は密会の約束でもしてんじゃないのか?」
「すみません。でも詳しいことは何も言ってないです。大事な仕事があるってことだけ伝えたんです」
ニコは後ろめたげに言い訳をした。
ドリスが首をかしげる。
「どうしたの?」
「こいつ、ガールフレンドと文通してるのさ。毎日毎日マメな男だな」
ハハッと笑って、食堂の出口に向かった。
「さあ、あと一時間したら出発するぞ!」