9 山の麓で1
テオを先頭にユリウスとニコは、それぞれの馬に乗って王宮を出立した。石畳の上を、三頭の馬は軽やかに蹄の音を響かせて駆けてゆく。
心地よく髪をなぶる風や雲ひとつない空の様相にも、テオは爽快感を感じてた。王宮の中は息苦しい。外の空気を吸うと生き返ったような気分になる。
少々飛ばし気味のテオの後を、ユリウスとニコは互いに苦笑を見せながら付いていった。
アソーギの大通りを真っ直ぐに北上し、町の出口が見えてきたところで唐突にテオは手綱を引いた。そしてユリウスを振り返る。
「どういうことだ?」
「彼女は力になる。私が声を掛けたら、協力すると言ってくれた」
テオの見つめる先には、旅支度をした妙齢の女性が佇んでいる。
ニコはその女性に目を凝らした。懸命に記憶をたぐり寄せる。
「あれは……ドリスさんですか?」
確かめるようにユリウスに問うと、彼はにっこり頷いた。
かつて、テオとユリウスそしてドリスは、共にアインシルトの下で修行をした仲間だった。彼女は少し痩せたようだったが、アソーギを黒い獣が蹂躙した日の亡霊のような顔はなりを潜め、昔のように溌剌とした笑みを浮かべていた。
彼女の元気そうな姿に、テオは口元を緩ませる。
「ユリウス……あまり感心しないな。夫を亡くしたばかりの女性に言い寄るなんて、弱みにつけ込んでいるとしか思えない」
「……おい、何故そういう展開になる。確かに何度か彼女を見舞ったが、それは昔の馴染みで……」
「言い訳することろが、なお怪しい。下心があったんだ。だろう?」
彼らは馬の速度をゆるめてドリスに近づいてゆく。
「お前じゃあるまいし」
「ん? オレは下心なんてやましいもの持ったことは一度もないぞ」
「勝手に言ってろ」
戯言を言いながら馬を降りた。その彼らに、ドリスはスタスタと近づいてくると、ニコに軽く会釈した。長い髪を結い上げて、背筋をピンと張った立ち姿はとても爽やかだった。
ドリスは、いたずらっぽくテオに笑いかける。
「久しぶり。何の話してたの? 私はお呼びじゃなかったのかな?」
「そんなこたぁないが、小さな子供がいる母親を引っ張り出してくる、この眼鏡の無神経ぶりがちょっと癪にさわったんだ」
言葉と裏腹に、テオの顔は嬉しそうだった。
彼女の立ち直りと、ユリウスの気遣いに気持ちのいいものを感じている。
恐らくユリウスは、夫の死に打ちひしがれその遠因がテオにあると口にした彼女を必死に慰め、逆恨みは止めるように諭したのだろう。
そして、彼女がテオへの失言を取り消し、テオが彼女への負債の気持ちを無くせるようにと、この場をセッティングしたのだ。以前の三人に戻れるようにと。
「ありがと、心配してくれて。大丈夫よ、あの子は母に預かってもらってるから」
「その辺の気配りくらい私だってしたさ。全くお前ってヤツは、人の気持を踏みにじるのが得意だな」
ユリウスが溜息をつくのを、クスリと笑ってニコは見ていた。
メンバーを四人に増やして、彼らは更に北へ進んでいった。
ドリスはニコに軽く自己紹介をして、彼の隣に馬を付けていた。前をテオとユリウスが行く。
誰も目的の山や目指す場所についての話はしなかった。代わりにユリウスが昔話に花を咲かせ、テオが馬鹿話を講じ、ドリスとニコは笑いながら聞いていた。
ふと沈黙が訪れ、ドリスはテオの背中を見つめた。
「ごめんなさい……あの時は酷いこと言って」
ドリスの長い睫毛が伏せられると、彼女の表情が急速に陰った。夫の死に動揺し、一方的に彼をなじってしまったあの日の事を思い出すと、未だ胸に残るしこりがキリキリと痛んだ。
ちらりとユリウスが振り返る。そしてテオの横顔に目配せしたが、彼は答えずピシリと馬の尻に鞭を入れた。一騎だけ飛び出してゆく。砂煙がモウモウと舞い上がった。
「今更、十年前の事を謝られてもなあ! 全くこっぴどく振ってくれたもんだよ!」
テオは、振り返らずに大声でハッハと笑った。
三人はきょとんと先を行く彼の背を見続ける。何の話だと思わずドリスは首をかしげた。
「……え? そ、そうじゃなくて!」
自分の言わんとしたことが分からないなんてと、ドリスは慌ててテオを追いかけようとする。それをユリウスは腕を広げて止めた。
「ちゃんと伝わっている。もう気にするなということさ」
「そうですね。テオさんは素直じゃないから、あんな風にしか言えないんですよ」
ニコも、ユリウスに同調してクスリと笑ってそう言った。
目指す山が大きくなるに連れて、街道は徐々に寂れていった。
キュール山の西側だけが赤い。残雪が傾く日の光を浴びて、中腹から山頂に掛けて燃えるような朱に染まっているのだ。
荒れた道を砂埃を立てながら、長い影を引きずって馬は歩を進める。
途中で何度か休憩を入れたが、何時間も馬に揺られたせいかドリスとニコは、すっかりくたびれた顔をしていた。今夜はキュール山の麓の村に一泊する予定だった。
そこは静かな小さな村だった。しかし、高山の絶景を堪能できる格好の観光スポットでもあり、夏になると途端に人口密度が上がるのだった。
村に入るとニコは早速、宿を探しに行った。観光の村だけあって宿泊施設自体は数多くあるのだが、どこも満室で空きがない。
ようやく見つけた宿屋は、かなり年季の入った建物で周りの民家と対して変わらぬものだった。眺望が全く期待できない立地であるため、空いていたようだ。
その宿の狭い一室で、夕食を済ませた四人はワインと紅茶を楽しみながら談笑していた。ニコとドリスはソファに腰掛け、テオは一人がけの椅子にふんぞり返っている。椅子が足りない為、ユリウスはベッドに腰掛けていた。
ワインをぶどうジュースのようにガブガブ飲んでしまうテオから、さり気なくボトルと遠ざけ、ニコはなぜ扉の移動魔法を使わなかったのかと尋ねた。
いつも使っていたのに、なぜ今日に限って使わないのか疑問だったのだ。時間もかかるし体力も使うというのに。
「たまにはのんびりと乗馬するのもいいだろう?」
などと言って、テオはまともに答えようとはしなかった。そして腕を伸ばしてボトルを掴むと、また自分の前に置いた。肩をすくめるニコの隣で、ドリスがクスリと笑った。
「ところでニコ、宿屋のじい様が四人なら二部屋で充分だろうと言ったが、どういう部屋割りを想像していたと思う? オレとドリスが恋人か夫婦と見られたか、お前とドリスが姉弟に見られたか」
実際の部屋割りは、当然ながらドリスが一室を使い、もう一室を男三人で使うことになっている。
しかし、テオはもう一部屋空きはないのかとごねていたのだ。自分は一人で部屋を使いたかったらしい。そうは言っても、空きがないのだから我がままを言ってもどうにもならなかった。
ユリウスはワイングラスを片手に苦笑している。
野郎に囲まれて寝るなんてむさ苦しくてたまらんと、文句ばかり言っていたかと思うと、今度は宿の主人がドリスと同室するのは誰だと思ったか、などと下らないことを言い出す。
まったくと呆れていたが、多少の酔いも手伝ってテオの冗談に乗っかった。
「なあテオ、何故、私とドリスという組み合わせはないんだ」
「ほっほぉ。やはり本音はそこか。……お前とドリスを同じ部屋にできる訳ないだろう。オレが許さん。ムカつく」
「言っておくけど、私は二人共お断りよ。全くあなた達は昔から私の意志は無視して、勝手なことばかり言うんだから。……そうね、ニコなら一緒でもいいわよ」
テオとユリウスが一斉にニコに注目した。途端にニコはオドオドし始め、顔を伏せてしまった。
「ニコ……気をつけろ。ドリスに喰われるぞ」
「ちょっと! なんてこと言うのよ、失礼ね!」
「失礼なのはお前だろう。ニコなら無害だと思ったんだろう。甘いな、十五はもう子供じゃないぞぉ」
「テ、テオさん!」
ニコは真っ赤になっていた。
もうっと、ドリスがつまみのチーズを投げつけると、テオはさっと受け止めてゲラゲラと笑った。パクリとチーズを口に放り込むと、ワインと一緒にごくりと飲み込む。
立ち上がり、窓際のベッドの方に座り直した。
「ここはオレが占領させてもらう。お前らは二人で寝るなりソファを使うなり、勝手にやってくれ。オレはもう寝るよ」
そう言って、ポイポイと靴を脱ぐとゴロリとベッドに横になってしまった。ふわぁと大きなアクビをすると目をつむった。
茶化すだけ茶化して、さっさと寝ようとするとはなんだという、非難の視線などどこ吹く風だ。
文句を言い足りないドリスは腰に手をあてて、テオの側に寄ると枕元でドンと足を鳴らした。反応しないので、覗きこんでみると、驚いたことにテオはもうスースーと規則正しい寝息を立てていた。
まさか本当に寝ている? たぬき寝入りでは? とドリスは指で彼の鼻を突いてみた。すると口をポカリと開けて、ンガァと間抜けな声を出したきりで、目も開けないし身体も全く動かない。
パチパチと瞬きしてドリスは振り返った。
「……どうしたの、この人」
「い、いきなり寝ちゃいましたね」
ニコも驚いてテオの顔を覗きこんでいた。テオが寝付きのいい方だということをニコは知っていたが、それにしてもこれは早過ぎる。眠いのをずっと我慢していたのだろうか。
「なるほどな。だから一人がいいって言ってたのか……まだ体調が完全じゃないんだろう。あの獣の毒が抜けきってないのかもしれない」
獣から受けた傷は表面的には癒えていたが、まだ体内にはその毒が残りテオの体力を奪っているのかも知れないと、ユリウスは言う。
今回の旅で、テオが魔法による移動を使わなかったのは、魔力も低下しているからなのだろうかと、ニコは不安になった。
しかし、昨日は王宮の地下を勢い余って破壊したらしいし、能力の低下ではなく制御不能であるとしたら、それはそれで不安な話だった。
「……テオさん、そんなこと一言も……」
「言わないんだよ、こいつは」
ユリウスは眼鏡の奥で静かに微笑む。
一人で抱え込むなと言ったところで、通じる相手ではないことはもう身にしみていた。