序章
王宮内に戦慄が走った。
斬撃の金属音と怒号が響き、そこは野戦場と化していた。
漆黒の甲冑に身をつつんだ長身の男が大剣を振う。
ザン!
無残にも敵を両断すると、激しい血しぶきが男の鎧を濡らした。兜に隠された男の表情は解らない。だが、顔を覆うバイザーの下はネックガードが外され、あごと口元だけは見えている。
彼は大きく肩を震わせ、ぐふうぅ……ふうぅ……と獣のような息を吐く。
唇の端に飛んだ生暖かい血の滴りを、赤い舌がなめ取った。すると、口角がきゅうぅっと釣り上がり、狂った笑みが浮かんだ。
バイザーのスリットからギラギラと光る目が、敵を見すえる。
幾度となく華やかな舞踏会が開かれ、厳かな式典が行われた大広間は、今や血の匂いの充満する殺戮の舞台に変わり果てていた。幾つもの死体と血だまりが、絨毯の替りを務めているのだ。
甲冑の男はただ一人で、黒いローブを着た集団に囲まれていた。だが、恐れた様子もなく毅然と剣を構えている。
むしろ強烈な圧力を放っているのは男の方だった。ぐっと、剣を握る両手に力を込める。その剣はつい先刻、自らの父である国王を殺めたものだった。
両者の睨み合いが続く。ピリピリと空気が張り詰めていた。
耐えきれず一人のローブの男が、甲冑の男に向かって一歩踏み出す。その瞬間、黒ローブに向かって神速の一撃が走った。
また一つ死体が増えた。
男は動きを止めた敵集団に、剣を差し向ける。
小声で何事か呟くと、ドクンと剣が脈打ちその形状を変えた。長さと厚みが増し、ゆらゆらと湯気のようなものが刀身から立ち昇った。
「地獄の猛火よ、焼き尽くせ! 火焔槍!」
途端に剣はゴウゴウと燃えさかる炎を宿す。
と、その炎は一直線に敵に向かって飛びかかり、突き刺さった。数人の男たちが一斉に燃え上がる。
「ギヒャアアアァァァァ!!」
絶叫を上げてのたうちまわり、数秒後には真っ黒な炭の固まりになっていた。
その時、甲冑の男の背にもギラギラ輝く光の矢が何本も迫っていた。
が、男が振り向きざまにブンと剣をひと振りすると、矢はいとも簡単に消滅した。ローブの男たちの放った光の矢は、十分に殺傷能力を備えていたはずだ。しかし、男の前では線香花火の瞬き程にも威力を発揮できなかったのだ。
男は再びゆがんだ笑みを浮かべて、矢を放った者達にさっと剣を向ける。そして彼らは、先程の男たちと同じ末路をたどる事となった。
男を囲んでいた集団が、ジリジリと後ずさる。
それを瞬きもせずに見すえたまま、彼は両の手甲を投げ捨てる。汗ばんだインナーの下に隠していたものを、さっと抜き出し拳の中に握った。
「もう後は無いぞ……」
低い呟きの途中から、異変が起きていた。握りしめた指の間から、紫の煙がゆらりゆらりと立ち上り始めたのだ。
「黒きドラゴンよ! 今こそ我と契約を交わせ!」
叫びが終わらぬうちに、雷の爆音が王宮を打った。バリバリと壁が震え、明滅する白光が窓から差し込む。その目を射るような光が、何度も男の半身に濃い影を作り出した。
ガゴゴゴゴォォォ!!
天空から轟音が響いてきた。
男は広間を駆けぬけ、テラスへと出た。
真っ暗な夜空。
見上げる先には、漆黒のドラゴンがいた。
闇に溶けこむような真っ黒な躰、瞳だけが血のように赤く光る巨大なドラゴンだった。
「わしを呼んだは、お前か……」
低い声がビリリと空気を震わせる。
男を見下ろして嘲笑うように、ドラゴンは真っ赤な口を開いた。そして紅蓮の炎を吐き出すと空が赤く染まった。
バサリと翼を羽ばたかせ、ドラゴンはズンと重い音を響かせて王宮の屋根に乗った。
「来るが良い。契約を結ぼう」
男の体がふわりと浮かび上昇してゆく。そしてドラゴンの頭上へと降り立った。途端に男は苦しげに膝をつき、身悶える。
だが直後には、ガッと顔を上げしっかりと足を踏みしめて立ち上がった。
その瞳はドラゴンと同じ真紅に染まっていた。
凶々しい程の赤だった。
「うがああぁぁぁぁ!!」
ドラゴンは舞い上がり、男は天に向かって雄たけびをあげる。
更なる殺戮が、始まった――――。
*
インフィニード王国は、近隣諸国に比べて比較的豊かな国だった。
軍事的にも強国であり、これまで他国に侵されることもなく独立を保ち、永い歴史を培ってきた。
しかしこの夜、突如起きた内乱は大いに国を揺るがすことになった。
第一王子ディオニス。
まだ二十歳を過ぎたばかりの王子が、自らの父である国王を弑逆したのだ。
彼は一夜のうちに、何百人もの魔法使いや廷臣達を斬り殺した。
たった一人の反乱だった。
だが彼が決起したと知るや、驚くべきことに近衛隊は王子の側についた。これは、本来であれば謀反人を抑えるべき王直属部隊の背信という、あり得べかざる事態だ。この為に国王側についたのは、ごく一部の陣営のみとなり王子は圧倒的戦力を手にしたのだった。
戦況は最初から王子派の優勢だった。そしてあっという間に城内を制圧した後、逃げ出した国王派の貴族や魔法使いたちを追って、戦場は城下へと拡大していった。
王子ディオニスが起こしたこの事変は、平和なれした国民を震え上がらせるのに充分なものだった。
この時、王子は禁断とされる魔法を使っている。
黒のドラゴンを召喚したのだ。
召喚魔法自体は禁断ではない。ただ、この忌むべきドラゴンを召喚することだけは禁忌とされていたのだ。
その禁を破って呼び出されたドラゴンは、無情にも町を焼き火の海に変えた。
手当たり次第に火焔を吐き、破壊を続けるドラゴン。この妖獣は血と戦乱を好む。召喚した者に従わないことさえある。
それが召喚を禁じる所以だった。
市民の多くがそのドラゴンを見た。黒一色、瞳だけが血の色をした凶々しい竜を。
そして巨大なドラゴンの頭上に仁王立ちになり、咆哮し猛り狂うディオニスを見た。
それは恐ろしいまでの怒りに満ちた姿だった。
*
町は一夜にして焼け野原になった。
朝焼けの中で、少年はその絶望的な風景を見ていた。
何が起こったのかまるで理解できなかった。ただ焼け落ちた家の前で、なす術もなく立ちつくすばかりだった。
夜が明け、黒竜が去った後もまだ町の一部は燃えていた。
そして小さな戦闘も続いている。逃げようとしている貴族の馬車に兵士たちが襲いかかっていた。
広場では家を失った人々が身を寄せ合い、肉親とはぐれた者が泣きながら名を呼んでいる。
少年ニコは呆然とそれを見つめていた。
その時、頭上から声がかけられた。振りあおぐと若い兵士が微笑んでいた。紺色の制服を来た青年兵が、馬の上から彼を見下ろしていたのだ。
ニコには、その兵士の所属など解らなかったが、それは近衛騎兵の制服だった。
この人は誰だろうとニコは戸惑い、また、どうでもいいやと投げやりに兵士を見上げていた。
青年兵は手を差し出してにっこりと笑う。彼の頭には包帯が巻かれ顔が半分隠れていたが、見えている右半分は人懐こく心地の良い笑みをたたえていた。
その笑顔につられて、ニコも手を差し出した。
青年兵はニコを馬の背に引っ張りあげる。力強く温かい手だった。髪をくしゃくしゃとかき混ぜるように撫で、そっと抱きしめた。
「もう大丈夫だから」
優しい声だった。
途端に緊張の糸が切れ、ニコは泣きじゃくり始めた。
母がいない。父がいない。家もない。
皆、焼けてしまった。
ドラゴンが焼いてしまった。
一人ぼっちになってしまったのだ。
声を上げて泣き続けるニコを、若い兵士はぎゅっと抱きしめて小さくつぶいた。
「ごめん。ごめんな……」
事変の後、旧体制側を完全に鎮圧したディオニスは、正式に王位につくことになった。そしてこのクーデターによって、黒竜王とあだ名されるようになる。
黒竜王は、魔力と恐怖をもってこの国を統治した。
それから、六年の月日が過ぎた―――。