新都新聞 社説(2059年4月10日掲載)
本社説において、昨日、国際ロボティックメディア協会で驚くべき勧告が採択されたことを取り上げなければならない。
詳報は記事本文に譲るが、今後、ネットワーク媒体で提供されるロボティックメディアは歩調を合わせて新たなる暦を採用するというものである。これは、一貫した暦により秩序だった因果関係のもとにニュースを提供するというニュースメディアの本質に対する大きな挑戦であり、本紙がこの試みを認めることは到底ありえないものだ。
新たなる暦の採用を求めたのは、ごくごく一部の市民団体だ。彼らの主張は複雑奇怪で共感の余地の無いものである。すなわち、彼らは彼ら自身の「ライフタイム」と国際協定時間の乖離を許容しないという頑迷で非受容的な意見を強固に主張し続けてきたのである。
彼らの言う「ライフタイム」とは一体何を意味するものであろう。過去の議論であるため記事本文では触れなかったが、本社説で改めて振り返ってみたい。
そもそも国際協定時間とは、標準時間を意味するものであり、経度〇度の基点において、太陽の正中時間を基準として午後〇時の時刻がずれないように管理された時間である。しかし、地球の自転は一定しておらず、基準秒による二十四時間よりやや長いことが知られており、このために、自転速度と標準秒による一日の長さは徐々にずれることとなる。これに対して、うるう秒が時折挿入されることによって、地球の自転と国際協定時間の同期が確保されているのである。
この合理的な仕組みに対し、件の市民団体の主張は次の通りである。いわく、生まれたその日から現在まで生きてきた時間すなわちライフタイムを国際協定時間の差分により算出することは、実際に生きてきた時間よりもうるう秒分だけ短い算出結果を導くものであり、その「ライフタイム」の損分は償わなければならない、と言うのである。
一般的に言って、誕生日から本日までの間に挿入されたうるう秒の数は判明しているのであるから、その数により補正を行えば十分であると思われるが、彼らの主張によれば、うるう秒の挿入は一定しておらず、生まれた日時によって補わなければならない秒数が異なることは、生まれ日によりライフタイム算出の煩雑性が異なるということであり、ライフタイムの不平等であるというのである。
たかが数秒の人生の時間の不平等にここまで熱心になれる神経も理解しがたいものがあるが、彼らの主張に同調するものは徐々に増え、独立した度量衡組織を国際的に立ち上げるまでに至った。彼らの作った暦は、「経過暦」と非公式に呼ばれ、一九五八年一月一日〇時〇分〇秒を基点とした単純な経過時間である。これは古くから国際原子時間として管理されていた秒数であるため簡易に計算が可能であるとされている。
このようなことを身内での数字遊びとして進める分にはなんら問題は生じないのであるが、彼らは次に、この新暦を、暦にかかわりの深い業界に採用させようと活動を始めた。
コンピュータ業界はこの試みを比較的容易に受け入れた。それは、不規則なうるう秒により左右されるコンピュータ時間を整然とさせるために有効ではあるだろう。画面に表示される時刻を国際協定時間に変換さえしてくれればなんら問題は無い。
しかし、コンピュータ業界に近しい「国際ロボティックメディア協会」の採用表明は、我々新聞社を含めたマスメディア業界に大変な衝撃を与えることとなった。
コンピュータによるニュースの自動収集・編集と配信を主な手段とするマスメディアが多く加入する同協会が採択したということは、今後、自動ニュースの多くの日付は、経過暦が併記されることになる、ということである。
一方、伝統を守る当紙を含む各紙は西暦による表記を維持するものである。同協会の決定は、メディア間の協調を混乱させ、なおかつ将来的にその混乱の度が深まることは議論の余地が無い。同じ紙面上に異なる年数が併記されるということは、特殊な(たとえば宗教的な)理由等が無い限りありえないものなのである。
当紙は断固として同協会の決定に反対するものであり、我々の属する業界団体は同協会に対して再度の議論を強く促すものである。