その3
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10月も下旬に入ったと言うのに今日は暑い。世間一般ではこれを異常気象と言うものらしく、高気圧がどうとか温暖化がどうとかで朝からテレビは騒がしかった。あつい、と言えば軌道に乗った綱図君との交際も周りから見たら熱々で、バカップルと称される日も近いのではないかと私は思う。もっとも、私と彼が付き合っていることを知っているのは極々少数であったが。
『共存関係』『偽りの友情』。私と周りとの関係を表すとそのような言葉になるのだろう。嘘の嫌いな正義気取り野郎の前では人を傷つけるのが怖いと言ったが、実際はそんなことは微塵にも思っていなかった。自分の体裁のため、相手の機嫌をとる。嫌われたくない、相手に。これも嘘。嫌われたくない、自分が。これも嘘。嫌いたくない、自分を。嘘をつく。嘘をつく。嘘をつく。こんな私の状態を『泥沼』だとか何も知らない人は言うかもしれないが、私にはこの泥の沼が心地よかった。生暖かい泥で自分を隠していられるのが心地よかった。
───でも、それも建前だ。自分に対する都合のいい言い訳だ。私は、自分が傷つけられるのが嫌なだけ。傷つけられるのが嫌なだけ、それだけだった。見ないよう、考えないようにしていたそのことに向き合わされたのは最近で、その原因になったからこそ余計に奴に腹が立つのだった。
「でさー、この前言ってた映画ねー。見に行って来たのよ」
「ガチカミってタイトルのヤツだよね。 前言ってたヤツって」
「へー、それでどうだった? 面白かった?」
「チョーサイコーだったのよ。 シブタクヤバすぎ、マジカッコ良すぎ」
「シブタクマジヤバイよねー。 あんなにカッコいい顔してあんなヤバイセリフ言っちゃうんだよー」
「落ち着け、落ち着くんだ! 女子高生のスカートの折り目を数えて落ち着くんだ!! だっけ?」
「そうそう、CMでやってるヤツ」
グループで談笑しつつ廊下を歩く。私は映画もドラマも話について行くためにチェックは欠かしていない。いや、それらだけではない。ファッションや漫画、アイドルグループに邦楽洋楽。どんな話題を口に出されてもついていける自信がある。もちろん、今回のシブタクが主演を演じている映画も知っていた。だから、ついていける。話ができる。
体育後の蒸しばんだ体には窓から吹き込むそよ風が気持ちよかった。
「で、誰と行ったのよー?」
「えー。 それ聞いちゃう?」
「またまた、嬉しそうな顔しちゃってさ」
「えへへ、やっぱりわかっちゃう? やっぱりやっぱりわかっちゃうかな!?」
「男、なんでしょ?」
楽しそうな顔をしてはしゃぎまわる。私もそれに笑顔を構えて混じる。そして時々、ハチャメチャで意味不明なことを言う。天然キャラ、それが今の私の立ち位置だった。
「……私ね、私ね。 みんなに報告しないといけないことがありまーす」
私の後ろにいた子、河合良子が手を上げて喋り出した。夕日が出ているというわけではないのに少し、少し頬が赤く見えた。何故だろうか、妙に胸が騒ぐ。
「なになにー?」
「あ、もしかして彼氏できちゃった宣言っ?」
「えー!? なんでばれちゃったの?」
───彼氏、そのワードを聞くと綱図君の顔が思い浮かぶ。締め付けられるような切なさが幸せな気持ちで心をいっぱいにする。これが、恋と呼ばれ愛となる気持ちなのだろう。
「彼には恥ずかしいから黙っててって言われたんだけどねー。 実はね、私────」
恥ずかしいそうに、だけど嬉しそうに。河合良子が相手の名前を言おうとした時、誰かの悲鳴がそれを遮った。黄色い声援なんてものではない、もっと鋭くて耳を劈くような、恐怖にまみれた声。誰も予想もしなかったその声に対して全員の身体がこわばりる。会話は途切れ、息が止まる。
「な、何なの。 今のって」
「……知らないけどさ、あれ」
隣の女子が指差すその先には私達の教室があるだろう場所があった。しかし、今は悲鳴を聞いて駆けつけたらしい野次馬達によって中の様子は見えなかった。誰と誰がトラブったのだろうか。誰であろうと私に影響がなければそれが一番である。ただ、私はトラブルが起こったことに対して野次馬根性もなければ、憤りも感じない。ただ素直に面倒臭いなと思っただけだった。
人垣の中から何人かの男子が這い出てきた。教師を呼びに行くのだろう。その中の一人に私達は声を掛ける。
「何があったの?」
「喧嘩だよ、喧嘩 」
「誰と? 誰が? 喧嘩?」
男子は頭を掻いた。そして、私達の方から眼をそらして言った。
「綱図と───」
「綱図君がっ!?」
まるで私の心の中を代弁したかのように誰かが叫んだ。言葉を発するために口は開いていたが、そこからはなにも出ず、ただ空気が循環されるだけだった。
「ごめん、どいてっ!」
周りの状況とは関係なしに静寂していた耳の中にいの一番に飛び込んできたのはそんな言葉だった。力が入らない体が軽く押され世界が揺れる。風のように去って行く誰かが眼から離れなかった。
「河合さん、だよね。 今のって」
「うん、そうだけど……」
「取り敢えず、私達も教室の方へ行ってみようよ」
誰かが言い出したそんな言葉に釣られ、教室へと歩き出した。正直、何がどうなってるのかが全くわからない。綱図君が喧嘩してて、河合さん────河合良子が飛び出して行って。クラスのアイドル的存在の河合良子、彼女がどうして。
意味がわからない。
人垣の中に混じり、人を押しのける。退いてよ、と先頭の子が言うと、まるでモーセが祈った時のように私達の人達はサーっと引いて行った。何も、何も聞こえなかった。誰も、誰も喋らなかった。ピリピリとした嫌なムードである。喧嘩が起こった、というのだからこういうものなのだろうか。
教室の風景が見える。倒れた机に、散らばった教科書。中身がぶちまけられた筆箱に、まだ消されていない黒板。口から血を流し、顔にあざを作り、尻餅をついた綱図君。抱きついて泣いている河合さん。そして、体格のいい男子に抑えられ、肩で息をしている男子生徒。────それは、私に好き、と澄み切った眼をして言ったあいつ、嘘が大嫌いなあいつだった。
意味がわからなかった。いや、わからないふりをした。知らなかった、気づかなかった。今すぐに叫びたかった、泣き出したかった。しかし、声が出せるわけでもないし、涙が出るわけでもなかった。錠のかかった喉は息を飲み込むだけだし、動くことのできない眼球はただただ乾いていくだけだった。
あいつと目が合う。奴はとても悲しそうなに眉をひそめるとキュッと唇を吊り上げ、顔をうつむかせた。今の自分がどんな表情をしているのかは全く検討もつかないし、彼が何故あんなにも悲しそうに見えたのかもわからない。世の中わからないことだらけだ。だけれども、自分の頭の中でこれだけはハッキリしていた。予想ではない、確信だ。
────綱図躍と河合良子はかなり深い仲らしい。幼馴染だとか、どうとかそんな噂は聞いたことなかった。多分、付き合っているのだろう。
開け放たれた窓の外では鳥が飛んでいくのが見えた。もうそろそろ秋が終わる。そんな予感がした。
***
開け放たれた窓から外を見る。窓際に置かれたベットからの風景。昼下がりの空は今日も依然変わらず青く、黒い線の上では小鳥達がさえずっていた。黄色く変色したこの葉が鮮やかに街を彩り、季節が変わっていくことがありありと感じさせられた。
「……二週間も会えないなんて。 いや、自業自得か」
この三日間僕は家で反省中である。綱図との喧嘩、いや喧嘩ならもう少し処分は楽であったのだろう。しかし、僕がやったのは喧嘩ではない一方的な暴力。マウントポジションからのタコ殴り。先生達にはこっぴどく叱られ、このような処分になったわけなのだ。しかし、少なくとも自分の気は晴れた。そして、綱図の行った許せない行為もみんなに明らかにできた。
それでも────彼女に見られたのはまずかったかもしれない。見られただけでない、トラブルに巻き込んだのだ。もっと、もっと穏便に済ませることだってできたはずだ。冷静になってもっと卑劣に穏便に彼を陥れれたはずだ。それなのに、僕は彼女を……。
僕は最低だ。
いや、もうぐちぐちと思い返しても仕方がない。今度あった時に誠心誠意謝るしかないのだろう。しかし、彼女はこの僕と口を聞いてくれるだろうか。『付き合っている』と言った時の彼女の顔、幸せそうだった。とても、とても幸せそうだった。それを僕はぶち壊しにしたのだ。いつか、誰かにぶち壊しにされていたのだろうとはいえども、今回の直接的な原因は僕なのだろう。それを考えるとやはり、口を聞いてもらえないのだろうな、と思う。
こんなマイナス思考は心にチクチクと刺さる。僕はベッドに体を放り出し、枕に顔をうずめた。やはり、考えるばかりではダメなのだ。こうやってダメな方ばかりに向かってしまう。今の僕に必要なのはなにかしらの行動を起こすことなのだ。と、そこまで思考しても現実というのは残酷である。学校からの処分は自宅謹慎だなんて、現実というのは残酷である。もう、現実など考えたくもない。僕は逃げるように目を閉じる。暗闇は、何も考えないということは今の僕には心地よかった。
「────君が好きだーと、叫びーたい」
バイブレーションの音とともに携帯の着メロが静まった部屋に反響する。机の上に置いてある携帯に目をやると、液晶画面には香月浩と表示されていた。時計を見ると時刻はもう夕方だ、学校の授業もすでに終わっている頃だろう。それに、どうやら僕は眠っていたらしい。それにしてはかなりいい目覚めだ。数秒、携帯の液晶とにらめっこした僕は通話ボタンに指を落とす。
「やっほー。 元気してる?」
片耳に香月の軽い口調が入り込んでくる。正直、この時点で僕は彼からの電話に出たことを後悔した。
「香月……、だよな。 電話なんかしてきて何の用だ?」
「だめだね、全くダメだね。 俺がやっほーって言ったら君はるんたったって答えないと」
携帯から聞こえる声はニヤニヤとした笑みを浮かべながら発せられているのだろうか。軽い調子でふざける彼に少しながらイラつきを持たずにいられない。というより電話を切りたい、今すぐにだ。
「……で、何の用なんだよ」
顔もよし、成績もよし、運動神経もよし、そんな風に完全無欠に見える香月だが、彼には欠点がある。こんな風に相手の顔が見えないメールや電話だと必要以上にふざけるのだ。いつもの爽やかな感じなど微塵も感じさせず、ウザさだけが全面に売り出される。正直言ってそこに奴がいるのなら殴り倒したくなるくらいにだ。
「いやーさ、今から駅前のマクドに来れる?」
「マクド? なんでたってそんな場所に? それに俺は今自宅謹慎中であって────」
「いいからさ、来てよ」
言葉を遮って香月は言った。そのためらいのなさにはなにかしらの強い思いが含まれているようにも思えた。だからと言って、簡単に心を動かす僕ではないのだ。
「無理だ」
と一言で即座に返す。そもそマクドみたいなファーストフード店にはこの時間帯、高校の奴らがいっぱいいる。そんな中に飛び込んでいくだなんてただの自殺行為で、もっと謹慎させてくださいと自らアピールしているようなものだ。それに、僕は一刻も早く学校へ行って彼女に謝りたいのだ。それができなくなるようなことは絶対にしてはいけない。
「……行かないと二度と喋ってあげないよ?」
「嘘だ脅しだ脅迫だー」
「……俺は本気かもよ?」
香月は神妙に言う。しかし、俺はわかっている。奴の言っているのは嘘だということに。彼は人の嫌がることを言ったりしたりはしない。それは人として当たり前のことなのかもしれないが、彼はそれがさらに顕著なのである。
「もし嘘だったら僕がお前と口を聞かないからな」
「本気かよ?」
「本気だよ?」
「……あー、もうやりにくいなぁ!! 嘘をついてはいけない奴相手にどうやってなにも知らせずに誘導したらいいんだよー!」
苛立ちと苦悩が携帯電話の向こうから僕の耳へと流れ込んで来る。どうやら、彼は僕の知らないところで苦労しているらしい。それも、僕関連で。
「あの女め……。 こうなるのわかってて押し付けやがって」
携帯から小声で香月が呟いているのが聞こえる。なんというか、彼が文句を言っているところなんて久しぶりに聞いた気がする。というより、『あの女』というのは誰のことなのだろうか。僕は香月と違って女子の交流は多くないのだ。
「────そりゃ、決まってんだろ。 あの猫被り毒舌女だよ」
それは誰なんだと聞いての香月の反応だが、『猫被り毒舌女』とやらに当たる人物が思いつかなかった。いや、思いついたことには思いついたが、今の僕と彼女の関係を考えるとあり得ない話へと昇華されるのである。しかし、一応聞いてみるべきなのだろう。
「香月、もしかしてのことだが。 ……彼女か?」
「……お前のいう彼女が誰かは俺にはわからんが、彼女っていうのは嘘つきちゃんのことだぞ」
お前の大好きな大好きなな、とハートマーク付きの台詞が電波に乗って飛んできたが無視を決める。それにしてもというか、やはりというか僕のありえないな、と思ったことが当たるだなんて。────今日は雨が降るのに違いない。彼女のことを傷つけた僕に、当の本人から……。もしかして、罵られたりするのだろうか。そうだとしたら本望だ。それは別に僕がMであるわけではない。彼女が僕を罵ること程度で彼女の気が晴れるならいくらでも罵られてもいい、という意味での本望だ。
「もう言っちゃうけどさ、嘘つきちゃんがお前と話がしたいだなんて相談ふっかけてきた。 だからこうやって電話して待ち合わせ場所を伝えた」
「……嘘じゃないよな?」
「さぁ? お前に恥をかかせたいがために彼女がここまで仕組んだのかもしれないよ」
香月は電話の向こうでクツクツと笑った。
「でもまぁさ。 この俺に言えることはやらずに後悔するなら、やって後悔するべきだってことだぜ」
「その台詞はある物事を他人事だと思ってる奴の口からしかでないんだぞ」
「まぁ、実際他人事だしー」
僕は笑った。携帯の先で香月も笑った。窓から差し込む夕日は美しかった。
「でもさ、もしお前が落ち込んだ時に慰めるのは俺ぐらいしかいないんだぜ?」
「……そうだな」
僕はベットから立つ。地面に足を付けて立つ。そして、直立二足歩行をする。
「香月、ありがとう」
「そりゃ、どーも」
繋がっている電波の先で香月の声と共に女の子の声がした。とても可愛らしい、鈴のような声。それを合図としてか香月の声の調子が上がり、早口へとなる。
「じゃ、俺もそろそろ行かなきゃだから切るよ。 お前も頑張れよ」
ブツッという音と共に繋がっていた電波が途切れる。電波が飛んで行く代わりにか、窓の近くの木から鳥が一羽飛び立った。空は綺麗で、今の僕にはもう悩むことはなかった。




