その一
『そいつは根っからの正直者』
そいつは根っからの正直者。うんざりするぐらいいつも正しいことを言って、嘘を嫌い、いつもみんなに煙たがられていた。多分、私も彼が嫌いだ。──まさしく、愛と勇気だけが友達。そんな奴だった。
「どうしてだい? どうして君は思ってもない事を、そう軽々しく話せるんだい?」
目の中の瞳をキラキラさせながら彼は私に聞いてくる。10月上旬、橙色の光が差し込む教室は私と彼の二人きりだった。
「え? 別にそんなことないよー」
乾いた言葉が口から漏れる。黒板に書かれた落書きの一つである汚らしいお爺さんが私を睨んでいるような気がした。
「好きでない事なんて言わなければいいんじゃないのか?」
わけがわからないよ、と彼は呟くと私の方に背を向けた。トゲトゲしい沈黙が私に突き刺さる。何故、好きでもない事を言わなければならないのか。私はその理由を知っていた。それでも彼には言えなかった。
───いや、言いたくなかった。ほとんどの人に嫌われた彼には言いたくなかった。
「ところでさ」
机から教材を取り出し、自らの鞄に放り込んだ彼が背中越しに喋りかけてくる。鼻にかかったような声が静かな教室で少しだけ木霊する。
「なに?」
手のひらで握りしめていた手紙を鞄の中にしまってから私はその声に答えた。それは、自分でもびっくりするぐらい不機嫌そうな声だった。
「君、この教室で何をしてたんだい?」
振り向いた彼の鋭い視線が私を突き刺す。その黒い瞳は私の身体を貫き、心を浮き彫りにしそうだった。少し、彼の眼が怖く感じた。私の心臓の音が少し、速度を増した。
「別に、何もしてないよ」
口をついて出た言葉。私は止められなかった。覆水盆に返らず、溢れ出した言葉はもう帰って来ない。前言撤回なんて私にとっては選択肢になかった。
「嘘、だよね?」
冷え込んだ眼が私の目を真っ直ぐと見ていた。心がえぐられる気さえする。鞄の中に突っ込んだ腕が上がってこなかった。手紙をつまんだ指先すらそれから離れなかった。
「嘘じゃない。 私はまだ何もしてないもん」
今度は本当の言葉が出た。そう、私は『まだ』なにもしていない。しかし、言った本人でさえもこの言葉は嘘臭く思えた。彼が移ったのだろうか。
「まだ、ね」
ニヤリと笑って彼は答える。その後で少し眉をひそめて彼は答えた。しばらく彼と会話を続ける。話しているうちに手紙から指が離れ、腕が鞄から解放された。私は鞄の紐を持ち、肩にかける。このまま彼とは話したくなかったからだ。彼と話していると、全ての本心が彼の前に出て行きそうだったかから。嘘をつくことが悪いことだということ、それがいやに確認させられる。私は彼とのそういうところが苦手だった。
「あなたこそこんな時間に何故、ここに来たの?」
なんとか、会話の手綱を握ろうと私は質問を返した。別にこのまま帰っても良かったのだが、このまま帰ってしまうと、彼の私に対する印象が悪くなるような気がしたのだ。だから、私は会話を続けるのである。気にしすぎ、なんてことは
私は既に自覚していた。
「僕はただ教材を教室に忘れただけだよ」
彼は一瞬、目を逸らしてから答えた。先ほどの鋭い目つきはいつの間にか弱々しくなって見えた。
「じゃ、私帰るね?」
そう言いながら私は彼に笑いかけた。私は早く彼から、この場所から逃げたかった。早く、鞄の中にしまった手紙を処理したかったのだ。足を早め、私は彼から去ろうとする。────が、彼は目を伏せながら言った。
「そうなんだ、じゃあちょっと待ってよ。僕も帰ろうと思っていたところなんだよ」
***
図った結果か、僕は彼女と一緒に帰ることになった。少々ながら彼女は不機嫌に見えたが、僕がそのことを聞くと、きっと彼女はそんなことないよ、と作り笑いを浮かべてからそう言うのだろう。オレンジ色に染められた街並みは彼女が隣にいるせいか、いつもよりも綺麗に見えた。
「あなたってなんでそんなに嘘が嫌いなの?」
夕陽に目を細めていると、隣から彼女の声色が聞こえた。横を見ると彼女の横顔。心なしかその長い睫毛は物鬱げに見えた。
────なんでそんなに嘘が嫌いなの、か。小さい頃から長い間考えてきた。昔は答えが出ないことがあったけれども、年をとった今の僕なら答えなんて簡単に出せる。それは、その場その場で嘘をついて自分を殺し、後で後悔するなんてこと、僕には耐えられないから。それにそんな行動は誰の特にもならない────
────そう思っているからだ。そんな感じに一瞬で整理した思考の塊を僕は彼女に伝える。
「……それに、小さい頃からお母さんに言われてきたからかな。正直者として生きなさいって」
と小さな声で付け加えた。頭の中に浮かんだことだ、言わなければ少し後ろめたい気持ちになってしまう。
「マザコンなのね」
「なんでだよ! 君は母親の言うことを胸に大切にしまいこんで生きるのがマザコンだというのか!?」
「そう言ってるのよ」
「価値観の違いだね」
「客観的視点に基づいた事実よ」
「嘘だ!」
「本当よ」
彼女はニヤリと笑って少し得意顔を作って見せた。それは油断した時やたまに見せる素の彼女だった。
「嘘をつく君が『本当よ』なんてね」
そう僕が彼女に言うと苦虫を噛み潰したような顔になる。天然装っている感じの彼女が一瞬見せた素顔。そこから一気に本音を全部引き出してしまえないか。唇を噛みしめていた彼女の横顔を見ながら僕は思った。
「───だから、だからあんたといるのは嫌なのよ」
隣の女の子は暗い顔をして呟いた。少し──いや、だいぶ気まずくなった気がして、僕はキラキラと光る夕日を横目に見る。
「『嘘をついてない僕は間違ってない』なんて顔してさ。 人の ……人の嫌なところ引き摺り出してなにが楽しいのよ!」
僕から顔を背けた彼女は一気に言葉を吐き出し始める。多分、それは彼女がずっと僕に向かって言いたかった言葉で、彼女がずっと抑えてきたことなのだろう。僕はそう思った。
彼女は優しい。だから、自らが言いたいことを極端に制限したり、偽ったりする。言ってしまったら僕が傷つくと思って。
「あなたは! あなたはなにもわかっちゃいない!」
「そうだね、僕はなにもわかっていない」
「だったら、私に構わないでよ! 知らないなら黙っててよ」
「黙ってたら、君は教えてくれるのかい?」
僕は彼女の方を向いて言った。彼女は答えなかった。
「僕は知りたいと思った」
君のことを、知りたいと思った。それが僕がここにいる唯一の理由だった。
「教えてよ、君が嘘をつく理由」
「知らないわ、自分で考えなさいよ」
「わからないから聞いてるんだって」
彼女の後頭部に向かって僕は言った。今、彼女はどんな顔をしているのだろうか。怒ってる、泣いてる、はたまた笑っている? それすら、それすら僕にはわからなかった。こういう僕みたいなのを自己中心的と世間一般では言うのだろう。
「本当に、本当にわからないの?」
顔を背けたまま、彼女は呟いた。それは蚊の鳴くような声声だったが僕にはきちんと聞こえた。
「本当にわからないのさ」
僕はヘラっと笑う。自虐のつもりだった。
馬鹿みたい、そう言った彼女は背けていた顔を僕の顔と向き合わせる。目は少しうるんで見えたが、確実に僕を睨んでいた。
「そこまで言うなら教えてあげるわよ」
彼女の唇が上下にくねくねと踊り出す。僕の耳はそれを見ていた。
「 私は嫌なのよ、人を傷つけるのが嫌なのよ。 本当のことを言ってその人のことを傷つけるのが怖いのよ、だから──」
「──嘘をついて自分を傷つける」
言うことの見当は途中でついた。彼女が言うことを先回りして僕は呟く。少し気に障っただろうか。
「そうよ、わかった?」
キッと顔を正面に向けた彼女はテクテクと歩き始めた。彼女の目の前にある夕日は眩しかった。今まで見たどんな夕日よりも眩しかった。
僕は少し駆け足で彼女の隣へと向かった。足音で気づいたのか振り返った彼女は明らかに不機嫌そうな顔をしていた。それに僕は苦笑を漏らす。
「なによ、まだ何かあるの? あなたと一対一の時にはもう嘘をつきません、これでいいでしょ?」
棘を含んだ言葉。眉をひそめて彼女は言った。
「どうせ帰り道は一緒なんだから、仲良く一緒に帰ろうよ」
「嫌よ。 それに、こんな嫌いな嘘つき女と一緒に帰ってもあなたも辛いんじゃないの?」
「別に、僕は君のこと嫌いじゃない。 だからいいよね?」
彼女の目の前に回り込んで僕は言った。夕日は背に預けたから彼女の表情はよく見えた。
「だったら私のこと、好きだって言うの?」
僕の長い影に入り込んだ彼女はジトっとした目つきのまま言う。少し暗くなった顔の中で彼女の目は鋭く光っているな気がした。
「あぁ、好きだよ」
たったこれだけの言葉なのに言うまでに長く時間がかかったような気がした。体感時間では『あ』から『よ』までに地球が何回転もしたようにも感じる。それだけ緊張していたということなのだろう。全身の勇気を振り絞ってやっと言えたことなのだ。
しかし、神様というのは残酷というか、これまでの僕の行動に対する仕打ちというか、現実というのは当然のように僕に襲いかかる。余韻、というものは存在しなかった。
「そう、でも私。 あなたのことが嫌いだから」
彼女は冷酷にそう言い放ち、僕の隣を通り夕日の中へと消えていった。わかっていた、知ってたなどとは言わない。少し期待したところもあったからだ。ひょっとしたら、もしかしたら、という感じに人間というのは甘い幻想を抱くモノである。
それにしても、いくら僕が嘘が嫌いでもストレートに嫌いと言われるのはかなり凹むところがある。それでも、僕はまだ、彼女が好きだった。




