寛弘五年(1008年)秋
秋の気配が漂い始めた頃の土御門殿には、言うに言われぬ風情がございます。
お庭の池の辺りの梢や敷地の中を流れる遣水の辺りの草むらがそれぞれ色づき始め、それが空の美しさに更に引き立てられているのです。
そんな中に響く絶えることのない読経の声が、いっそうしみじみと感じられますね。
読経の声は、夜になるにつれて徐々に涼しくなる風に乗って、絶え間ない遣水の音に入り混じって一晩中聞こえてきます。
私がお仕えする中宮彰子様はご懐妊中でご気分が優れないに違いないのに、傍近くに侍る人々が取り留めのない話をするのをお聞きになりながら、それを何気ない様子でお隠しになっています。
今更あえて書くようなことではありませんが、そんなご様子を拝見するにつけ、このようなお方をこそ探し求めてでもお仕えすべきであると思うのです。
常日頃とは違って、宮様のお傍にお仕えしておりますと、自然と憂いも全て忘れられるというのは、また不思議なことでございます。
さて、まだ夜更けの、月に雲がかかって木の下が暗くなっているような頃に、
「御格子を上げてしまいたいわね。」
「でも、女官はまだ来ていないでしょう。」
「だったら女蔵人がお上げなさい。」
などと言い合っておりますと後夜の鐘が鳴り響き、それを合図に五壇の御修法が始まって、導師に付き従う僧侶たちが我も我もと競って上げる声が、遠くからも近くからも絶え間なく聞こえるのは非常に尊く感じます。
観音院の僧正が東の対から二十人のお付きの僧たちを引き連れてお勤めに参上なさる足音、渡殿の橋をどんどんと踏み鳴らす音さえ、他の時とは違うように聞こえます。
法住寺の座主は馬場の御殿に、浄土寺の僧都は文殿などに、お揃いの浄衣姿で優雅な唐橋などを渡りながら、お庭の木の間を帰っていく様子も、ずっと眺めていたいような、そんな趣がございます。
さいさ阿闍梨も大威徳明王を敬って、腰を屈めて礼拝なさいます。
やがて他の女官たちも参上してくると夜も明けました。
渡殿の戸口にある部屋から外の方を見ておりますと、うっすらと下りた朝露もまだ落ちていない程早い時間ですのに、道長様が庭をお歩きになっていて、御随身をお呼びになり、遣水のお手入れを命じていらっしゃいます。
橋の南にとても美しく咲いている女郎花を一枝摘んで、私が隠れております几帳の上から差し出して少しお見せになりました。
その仕草があまりに素敵で、こちらが寝起きの顔のままなのが恥ずかしくなる程で、
「これに対する返事が遅くなるのは感心しないな。」
と仰るのにかこつけて、硯のある場所へと離れました。
そしてお返しした歌がこちらです。
朝露をまとった女郎花の美しい花の色を見るにつけて
露さえ分け隔てして下りない我が身の醜さが思い知らされて、耐え難い思いです。
それをご覧になった道長様は「さすが、早いね。」と微笑んで、硯をお取り寄せになります。
白露は分け隔てしている訳ではないだろう。
女郎花は自らその美しい色を染め出しているのだ。
静かな夕暮れ時に同僚の宰相の君と二人で世間話をしておりますと、道長様の御子息で三位の君である頼通様がいらして、御簾の端を引き上げて、そこにお座りになりました。
十七歳というご年齢よりも大人びていて上品で、
「女性はやはり気立ての良さこそ一番だけれど、これはなかなか得難いものであるようだね。」
などと世間話をしんみりとなさっているご様子は、まだ年若いとあなどるのは間違いであると思う程にご立派です。
まだ打ち解けた感じにはならない時に
「女郎花がたくさん咲いている野原に」
と有名な和歌を口ずさみながらお立ちになるご様子は、物語の中で称えられている男性のように思えました。
このように徒然に思い出されるような、その時は興味深いと思えたことでも、時が過ぎてしまうと忘れ去ってしまうこともあるというのは、どういうことでしょうか。
碁の勝負で負けた播磨守が勝った人をもてなす宴を開いた日はちょっと実家に帰っておりましたので、こちらに戻ってからその時の碁盤の様子を拝見いたしましたら、碁盤の足などは優雅で、州浜の畔の水の下にこのように書いてありました。
紀伊の国の白良の浜で拾ったというこの碁石が大きな岩となる日まで
長くこの御代が続きますように
その頃は、檜扇も趣向を凝らしたものを人々は持っていました。