海の涙
むかしむかし
美しい声を失うかわりに脚を手に入れた人魚は
海の泡になりました
では
美しい尾びれを失った人魚は
泳げなくなった人魚はどうなるのですか
深い深い海の底に沈んでゆくのです
私は、自分がなんという名前の魚なのか知りません。目はほとんど見えませんが、それでも自分は醜い姿をしているのだということだけは分かります。
月の光も届かない、深くて暗い海の底。ずっと眠りについているようなこの世界で、私はときおり、おっくうだけども口をあけてプランクトンを呑みこみ、ほとんどじっと動かずに、眠りの海に同化するようにして生きているのです。
ぷくぷくと、細かな泡が昇っていく音がたまに聴こえます。ここには私の他にも魚たちがいるのでしょうか。みな息をひそめて生きているから本当のことは分かりません。
ああ、だとしたらここはなんとさびしい場所なのでしょうか。自分の名前を知ることも叶わず、他の魚を見ることもなく、ただ自分の醜さだけを感じながら、生まれ、壊れゆくだけの泡を吐き出す。それは私にとって一生で、永遠です。
永遠だった、はずなのです。
ある日のことです。夜なのか、昼なのかもわかりません。満月なのか新月なのか知ることも叶いません。ここは海の底なのですから。
だから、もう無限に繰り返してきた同じ毎日の中の「ある日のこと」と言うより他ならないのです。
生まれてからずっと繰り返してきた時間に、その日変化が起こりました。
海のずっと上のほうから、なにか大きなものが、ゆっくりゆっくりと落ちてきました。はじめは、死んだ大きな魚かと思いました。ときおり、あるのです。命をなくした大きな魚が、その身をすべて食べてもらうことも叶わずに、無惨な姿で落ちてくることが。
しかし、すぐにそうではないことが私にはわかりました。その魚は、泣いていたのです。あまりにも透明で、音のないこの世界でなければかき消されてしまいそうな、か細い声で。
「あなたは誰ですか。どうして泣いているのですか」
私は思わず訊ねて、そのあとで、自分に声が出せたことに驚きました。それは私にお似合いな、とてもとても醜い声でした。
泣き声が、怯えたような声に変わりました。私は自分の醜い声のせいで、驚かせてしまったのだと思いました。
「驚かないでください。私はここに住む深海魚です。私は自分の名前もわからない醜い魚ですが、ここには危険なことなんてありません。だから泣かないでください」
私はこの美しい声の、泣き声以外のものを聴いてみたくなったのです。音のない世界ではじめて、自分の呼吸以外の音を知りました。それだけで、この海の底にも、光が射してきたような気持ちになったのです。
泣き声がぴたりと止まり、こちらに大きな魚が寄ってくる気配がしました。私はほとんど見えない目を、できるかぎり大きく見開きました。すると、私の視界に、きらきらと光るものが映ったのです。
それは、鱗でした。反射する光などここにはないのに、それは様々な色に変わりながら、なまめかしく光るのでした。
それは、とても魚の持つ鱗とは思えませんでした。ほとんど記憶も持たない私が、どうしてこのことを知っていたのでしょう。とても美しい声と、光を放つ鱗を持つ生き物のことを、私は知っていたのです。
「あなたは、人魚ですね」
すこしの静寂のあと、涙を含んだような声で返事がありました。
「はい」
それはたった一言なのに、歌のようだと思いました。私は歌なんて一度も、聴いたことがないのに、です。
「どうして人魚がここに落ちてきたのか、ふしぎに思ってらっしゃるでしょう」
そう、人魚は私に訊きました。
海のどこかに、人魚たちの棲む美しい入り江があると、人魚はそこに棲んでいるのだと、私はそう信じていました。ではなぜ、こんな海の底に落ちてくる必要があったのでしょうか。
私の疑問に答えるかのように、人魚は訥々と話し始めました。
「私の尾びれは、病気で失われたのです。何十年……何百年に一人というような、めずらしい病気らしいのです。治療のすべはなく、私の尾びれは朽ち、この鱗たちも、いずれ朽ちてゆくでしょう。泳げなくなった私は、海の底に落ちてゆくしか、生きてゆく方法がなかったのです」
「泳げなくても、人魚たちで、助けあって生きてはいけなかったのですか」
「この病気は、人魚同士でうつると言われているのです。殺されるか、海に落とされるか選べと言われ、私は海を選びました。もう泳げなくても、死ぬのを待つだけでも、海にいたいと願ったのです」
この人魚の悲しみと絶望を思うと、やり切れませんでした。苦しみが一瞬ですむことを思えば、殺されたほうが、あるいは楽だったかもしれないのです。ここで朽ちるのを待つということは、生きたまま化石になることと同じなのです。
「私はもう朽ち果て、命が尽きるのを待つだけの身です。どうかこの海底を最期の地として身を置くことをお許しください」
ここはもとから海の墓場のような場所です。主のような魚はもとい、他に魚がいるのかどうかもわからないので、誰に許可を取る必要もありません。私にできることは、どうかこの地が、人魚にとって安らかなものになりますようにと願うだけです。
私がそれを告げると、人魚は透明な声で「ありがとうございます」と言うのでした。
しかし私にはどうしても、この人魚に頼みたいことがありました。
「でも、ひとつだけお願いがあるのです。あなたの美しいその声で、歌を聴かせてくれませんか」
ためらいがちに、人魚は歌い出しました。それは、この世のものとは思えないような旋律でした。妖しく、美しく、なのにどこまでも清らかな。人魚の歌に惑わされて沈む船があるというのにも、納得できました。
きっと、人魚は歌いたかったのでしょう。ずっと、歌いたいと思っていたのでしょう。はじめは震えていた声が、だんだんと伸びて、光のように海を昇っていくのを、私はいつまでも、聴いていました。
人魚がここに来た日から、私の目はだんだんと見えるようになってきました。今までは、光となるものが何もなかったから、目が発達しなかっただけなのでしょう。それは、人魚の光る姿をもっとはっきり見ようとするために、私の身体が進化を急いでいるようにも思えました。
悲しいことは、私の目が見えるようになるのと比例して、人魚の身体はだんだんと朽ちてきていることです。人魚は、自分の醜い姿を私に見られるのを嫌がりました。
剥がれた鱗の跡は岩のようにごつごつと硬くなり、顔や体のあちこちに、フジツボのような突起ができました。糸のような髪の毛は抜け落ち、頭は苔や海藻で覆われてゆきました。誰もこの姿を見て、かつての人魚だと気付く者はいないでしょう。
人魚は、海が泣いているのかと思うような悲しい旋律を、毎日歌いました。そうして涙を流すのです。真珠のような美しい涙を。
人魚がどれだけ嘆こうとも、人魚の身体が朽ちていくのは止まりませんでした。しかし、人魚の声も、涙も、姿がどれだけ変わっても、その美しさは変わりませんでした。そしてもうひとつ、変わらず美しいものがあることに、私は気付いていました。
どれだけの時間が流れたのでしょう。とうとう人魚は、動くこともできなくなりました。その身体は、ほとんど岩肌と同化し、かろうじて原型を留めているのは、岩から生えた、フジツボだらけの顔だけです。
「ああ、ああ、私はとうとうこんなにも醜くなってしまった。どうか私を見ないでください。私が完全に化石となってしまうまで、私からは目を背けていてください」
人魚は私に懇願しました。しかし人魚に情が移ってしまっていた私は、人魚の願いを受け入れることはできませんでした。
「あなたは、醜くなんてありません」
私が言うと、人魚ははらはらと大きな涙の粒を零しました。この涙がどんな真珠よりも美しく、価値のあるものだということは、世界で私しか知らないことです。
「慰めは、およしになってください。自分の醜さは、自分が一番よくわかっているのです」
「いいえ。慰めでは、ございません」
私は、もう見えるようになった目で、しっかりと人魚の姿を見つめました。この醜い声を人魚に聞かせるのはためらわれましたが、それでも告げねばならないことでした。
「あなたの声も、涙も、変わらずに美しいままです。いいえ、悲しみを吸って歌はどんどん清らかに、涙はどんどん透明になってゆきました。それはあなたの心が、変わらず美しいままだからなのですよ」
恨みごとも言わず、呪いの言葉も吐かず、ただ歌だけにその悲しみを託した人魚の心を、私は美しいと思いました。化石となっても永遠に海に在り続けたいと願った、その強さも。
「いいえ。いいえ」
私の言葉を聞いた人魚は、悲鳴のような声で泣き叫びました。
「私の心も、美しくなんてないのです。あなたは、自分のことを醜い魚だと思っていましたが、あなたは本当は、とても美しい姿をしているのです。あなたの目が見えるようになっても、あなた自身の姿は自分では見ることができなかった。あなたに嫉妬して、それを教えられなかった私をどうか許してください」
永遠だと思っていた時間に、人魚が与えてくれた光と、歌は、どれだけ私の希望となったことでしょう。嫉妬も、執着も、人魚の心を汚しはしませんでした。それは最後の最期に、私を救ったのですから。
「私は、美しいあなたに、醜くなった自分を見られたくなかったのです……」
その言葉を聴くと、私は人魚の岩肌に自分の身を打ち付けました。鋭く尖った突起が、私の背びれを貫きます。痛いですが、すぐに死ぬことはないでしょう。
私は、共にここで朽ちることを、人魚と共にひとつの化石になるということを告げました。私はもう、この悲しい人魚のそばから離れることはないでしょう。
幾千年の時が過ぎても、いくつもの悲しみを海が洗い流しても。私たちの墓標はこの海底で、共に在り続けるのです。
人魚が瞳から涙を流すと、真珠のような水の泡になって、海を昇ってゆきました。
もし海で、昇ってくる美しい泡を見つけたら、どうか思い出してください。海に浮かぶ泡のいくつかは、人魚の流した涙なのです。