ハッピーエンドまで、あと少し。
「なあ知ってるか?」
「何を」
「屋上には、雨の日でもフェンスの向こう側に立ってる奴がいるって噂があるんだけど」
そんな生徒の会話を、何度か耳にした事があった。
でも、噂は噂。実際には存在しないと思っていた。
フェンスの向こう側に行くものは、大抵死にたいとか思ってる奴か、本物の変人。
俺は絶対に死ぬことが怖くてフェンスの向こう側には絶対に行かない。というか、行こうなんて思わないだろう。
「はあ……」
憂鬱だ。
問題の屋上を見回らなくてはいけない。
例の死にたがりは幽霊だって噂もある。
幽霊なんて見たくなんかない。
「憂鬱だ……見なくてもいいよな?」
屋上へと続く目の前の扉。
開けたら死にたがりさんと出くわすなんてそんな運命的なのはいらない。
お願いだから誰もいないでいて欲しい……。
「いない、よな」
勇気を振り絞って扉を開ける。
「嘘、だろ……?」
フェンスの向こう側。
誰かいる。
まさか、自殺?
「は、早まるな!」
そういって近づこうとした俺は、振り返った生徒の顔をはっきりと見た。
見たことのある顔だった。
確か三年生の片岡、だっただろうか。
俺の担当するクラスの生徒。
何度か廊下で楽しそうに友人と話しているのを見かけた事がある。
そんな彼が、どうしてこんな所にいるのだろうか?
「あー井上先生だー」
「わ、笑い事じゃない!こっちに早く来なさい!」
俺を見てゲラゲラと笑う片岡は、フェンスをゆっくりと乗り越える。
俺は、それを黙って見つめていた。
いや、正しくは落ちてしまうのではないかと気が気じゃなかったので何も言えなかったのだ。
「ふぅ……。んで、なんですか先生」
「なんですかじゃないだろ……あのフェンスは絶対に越えちゃいけないんだぞ」
「だって、空が近くにあるように感じるんだもん」
だもんって……。
そんな風にキラキラした瞳で言われても。
とりあえず、自殺ではなかったみたい――あ。
「もしかして、例の――」
「死にたがりって訳じゃないけど、噂になっちゃってるみたいだね」
楽しそうに笑う片岡。
でも誰もその死にたがりの正体を知らないみたいだ。
俺が今まで聞いた噂に、片岡の名前が出たことなんてないし。
「皆俺がその死にたがりの正体だって知らないで、俺に怖いよなーとか言ってくんの!もうおかしくておかしくて……っ!」
腹を抱えて笑っている片岡。
俺もつられて笑ってしまった。
「……先生ってさ、好きな人とか……いる?」
「は?」
突然何を言い出すかと思えば。
でも片岡の目が少し游いでいるように見えた。
どうしてだ?
「わっ、あ……今の気にし――」
「好きな人とか付き合ってる人はいないよ。誰も俺なんかに目もくれないし。そういう片岡は?」
聞きたいことに答えてやるのが教師の仕事だと思っている。
キョトンと俺を見つめている片岡を見て、思わず噴き出してしまった。
そのキョトンとした表情が思いの外可愛かったからだろうか?
幼い子供を見ているようで何だか気が抜けた。
「なっ、なんで笑うの!」
「いや、わるい……くくっ」
「……俺、好きな人ならいるよ」
「へぇ、可愛いのか?」
そう訊ねると、うーんと唸って考え込んだ。
「んー、なんかね。その人の声を聞いてると、凄く安心するんだー」
「癒し系?」
「ん、多分。実際に話したらもっと好きになった」
凄い惚れ込み様だな。
それほど可愛い女の子なのかもしれない。
俺はいつも片想いだったし、片岡の気持ちは少しだけ分かる気がする。
「でもね、男の人なんだー」
「え?」
男?
それは、片岡はそういう部類の人間という事だろうか?
俺は、こういう悩みを抱えている生徒と話したのは初めてだ。
だから返答に困っている俺に、片岡は笑いかけてきた。
「最初は、憧れだと思ってたんだ。でも、いつの間にか好きになってた」
「……それはクラスメイトか?」
「年上」
「そうか……」
会話も続かなくなってしまった。
沈黙に耐えきれず、ここから去ろうと決断した時、片岡が呟いた。
「ここからの景色を、その人と二人で見たいなって、ずっと思ってた」
「……誘ってみたらどうだ?」
「ううん、もう叶ったからいいんだ」
叶った?
どういう事なんだ。
誰もここに近づかないと笑っていたのは、片岡じゃないか。
「叶ったって……」
「ずっと、井上先生と見たかった」
俺、と……?
さっき片岡はこの屋上からの景色を好きな人と見たいと言っていた。
その好きな人は、男で年上。
つまりそれは……。
「片岡は、俺が……?」
「うん、好き」
「――でも、俺は教師だし」
「……もうすぐ卒業だから、こうして告白したんだ」
卒業すれば、たとえ振られたとしても、会うことはない。
だから今の時期に?
それは、俺に振られてもいいと思っているのか?
「振られる覚悟で告白、か」
「……」
「俺は、片岡の事あんまり知らないから、このまま振ってもなんとも思わないけど……降られたくないんだろ?」
「……?」
振られたくないのなら、好きだって言えばいい。
誰だってフリーで、本気で好きだと言われたら振る前に悩む。
俺だって、真剣に好きだっていうのなら、性別を抜きにして考えてやるさ。
諦めているくらいなら、最初から好きなんて言わない方がいい。
「振られたくないなら、本気でぶつかって来いよ」
「本気、で……」
「振られても良いって言うなら、俺はこのまま大人の対応ってやつをして職員室に戻るけど」
前から、どこか内気な生徒だとは思っていた。
俺が教室を見渡した時に、よく視線が交差したのを覚えている。
なんとなく、何かを伝えたいといった瞳が気にかかっていたのだ。
彼の少し垂れ下がったような大きな瞳に、天使の輪が出来るようなサラサラとした漆黒の髪の毛が、雲一つないような晴れ渡る青い空にとても映えていて、胸が少しだけ高鳴った。
「――っ、好き、です。 俺と付き合って下さい」
俺がこの手に握っている手綱。
引っ張れば何が起こるのだろうか。
それは引っ張ってみなければ分からない。
ハッピーエンドまで、あと少し。
fin.