給食のおばちゃん、異世界に転移する〜定年退職後は異世界でご飯作ります〜
私は六十五歳。学校の給食室に勤めている。
わかりやすく言えば、給食のおばちゃんだ。
結婚はしていないし、子どももいない。
けれど、昔から子どもは好きだった。
大量の野菜を切っているとき、窓の向こうから聞こえてくる笑い声。大きな鍋をかき混ぜているとき、廊下を元気に走っていく足音。
先生に「走らない!」と注意されて、急に足音が小さくなることもある。
そんな気配を感じるだけで、私はなんだか嬉しくなった。
今日もお腹を空かせているんだろうねえ。
もう少し待っていてね。美味しくなぁれ…そう思いながら、毎日ご飯を作ってきた。
腰も肩も痛くなる仕事だったけれど、私にとっては、間違いなく天職だった。
そして今日、その仕事を定年退職した。
「長い間、お疲れさまでした」
「たまには顔を見せに来てくださいね」
後輩たちに見送られ、とても綺麗な花束までいただいた。
「あらまあ、こんな立派な…ありがとうねえ」
何度もお礼を言って、職場をあとにした。
腕の中の花束を見るたび、胸のあたりがぽかぽかした。
明日からは、目覚ましをかけなくてもいいし、時計を気にしながら身支度をすることもない。
それは嬉しいけれど、毎日家にいるのも退屈になりそうだ。
少しだけゆっくりしたら、週に三日くらいのパートを探してみようかしら。
できれば、また子どもに関わる仕事がいいな。
学童のおやつを作る仕事なんて、あると良いわねぇ…。
そんなことを考えながら、帰り道の階段を降りていたときだった。
腰の奥に、ぴりっと嫌な感覚が走った。
あ、いけない。ぎっくり腰になりそうだわ。
何度か経験があるからわかる。
ここで無理に動くと、しばらく靴下さえ自分で履けなくなるやつだ。
私は慌てて、空いている手で手すりをつかんだ。
がたん
「…え?」
支えになるはずの手すりがすっぽ抜けた。
根元から外れている…そう気づいたときには、階段から足を踏み外していた。
花束を抱えた腕に、思わず力が入る。
もう片方の手も、手すりを握ったまま離せなかった。
ああ、明日から休みなのに。
せっかくの花も潰しちゃうねえ。
私はぎゅっと目をつぶり、身を固くした。
階段から落ちるのだから痛いに決まっている。
身構えていたが何も起こらなかった。
体を打ちつける衝撃も、転がり落ちる感覚もない。
……あら?
恐る恐る目を開けると、まず目に入ったのは、土だった。靴の下には、踏み固められた茶色い地面がある。
土なんてなかったのに…と言うか階段は?
顔を上げると、テントのような大きな布の屋根がいくつも並んでいた。
その間を、見慣れない服装の人たちが行き来している。木箱を抱えている人もいれば、毛布にくるまって座っている人もいた。
遠くから子どもの泣き声もする。
私は花束を抱えたまま、ゆっくり振り返った。
今降りていた階段も、道路もない。
代わりに、ずっと向こうまで木々が続いていた。
「……ここ、どこかしら」
「おい、あんた!」
声の方を見ると、革の上着に金属の胸当てをつけた男の人が、こちらへ歩いてきた。
その人は私の数歩手前で足を止め、手元を見た。
「その杖……魔女様か?」
「杖?」
つられて見下ろす。
右手には、外れた手すりが握られたままだった。
「ああ、これ…手すりなんですよ。つかんだら取れてしまって」
「手すり……?」
男の人は、手すりと私の顔を交互に見た。
私にも、何が何だかわからない。
とりあえず立ってはいられるし、どこも痛くないようだった。
花束も、少し包み紙がくしゃっとしただけで済んでいる。
「これ、どうしようかねえ…」
腕の中を見てつぶやくと、男の人も花束に目を向けた。
「おお、綺麗な花だな」
「今日、いただいたんですよ。定年のお祝いに」
「…テイネン?」
「ええ、そうなんです」
「それはそうと、こんな花は今まで見たことがない」
男の人は少し顔を近づけ、それから、改めて私の服を見た。
「もしや、あんたは落ち人か?」
「落ち人?なんですか、それ」
「よその世界から、こっちへ落ちてくる人のことだ」
「よその世界…?」
思わず、もう一度あたりを見回した。
布の屋根に、見慣れない服。男の人の腰には、長い剣のようなものまで下がっている。
「話には聞いていたが、本当にいるとはねえ。あんた、ここへ来る前は何をしていた?」
「階段を降りていたんですよ。そうしたら手すりが取れて……」
「それで、ここに?」
「ええ。目をつぶって、開けたら」
男の人は、困ったように顎を撫でた。
「そりゃあ、難儀だったな」
「……帰れるんでしょうか」
「すまんが、俺にはわからん。町へ行けば、詳しい奴がいるかもしれないが」
そうですか、と答えて、私は手の中の手すりを見た。
帰り道だったのに。
家には、昨日の煮物も残っているのに。
よその世界と言われても、すぐには実感が湧かなかった。
ただ、ここが私の知っている場所ではないことだけは、わかる。
「ひとまず、そっちで座るといい。その重そうな手すりも置いときな」
男の人が、近くの木箱を示してくれた。
「ありがとうございます。助かります」
手すりを地面に横たえ、木箱に腰を下ろした。
花束は膝の上に置く。
座ってみると、足にずいぶん力が入っていたことに気づいた。
男の人は近くにいた若い人に声をかけ、木の器に入った水を持ってきてくれた。
「お水まで。ありがとうねえ」
ひと口飲んで、ようやく息がつけた。
少し離れたところで、小さな子どもがお母さんらしい人の膝に顔を埋めている。
その隣では、年配の女性が毛布を肩にかけ、ぼんやり座っていた。
荷物を抱えた人たちも、疲れた顔をしている。
「あの、ここは何かあったんですか?」
男の人の顔が曇った。
「近くの村に、魔物の群れが出てな。住民をここへ避難させている」
「魔物……」
聞き慣れない言葉が、また出てきた。
けれど、家にいられなくなった人たちが集まっていることはわかった。
「まだ村に残っている人もいる。動ける連中は、討伐やら護衛やらに出ていてな。俺たちは、ここの警護だ」
「まあ……大変なときに、すみませんねえ」
「あんたが謝ることじゃないだろう」
そう言ってから、男の人は私の膝の上に目を落とした。
「その花、何か祝いだと言っていたな?」
「ええ。今日で仕事が終わりだったんですよ」
「ほう、何の仕事をしていたんだい?」
「給食のおばちゃんだったのよ」
「キュウショクって、何だ?」
「学校で、子どもたちのお昼ご飯を作る仕事ですよ」
男の人が、ぱっと顔を上げた。
「おお、飯が作れるのか!」
声が大きくなったので、近くにいた人がこちらを向いた。
「今、炊き出しの人手が足りなくてな。いつも飯を仕切ってる奴らも、村の住民を連れてくる護衛に出てるんだ」
「そうなんですか」
「残った連中でやってはいるんだが、どうにも追いつかん。……来たばかりのところ、悪いが。よければ手を貸してもらえないか?」
私は、膝の上の花束を見た。
今日で、ご飯を作る仕事はおしまいだった。
次に働くとしても、少し休んでからと思っていたのだけれど。
ふと顔を上げると、お母さんの膝にいた子が、こちらを見ていた。
「ええ、私でよければ」
何が起きたのかも、これからどうしたらいいのかも、まだわからない。でも、ご飯を作るのなら、できる。
「何人分かしら?」
「今いるのが五十人ほどだ。まだ増えると思う」
「そう。もう食べた人は?」
「まだだ。そろそろ子どもたちも、腹が減ってるだろうが……」
五十人。
それなら、材料と道具を見せてもらわないとねえ。
「あんた、一度にそんな人数の飯を作ったことはあるか?」
「ええ。毎日、数百人分作っていましたから」
「数百…!?」
男の人が、口を開けたまま止まった。
「ああ、もちろん、私一人で作っていたわけじゃありませんよ。みんなで手分けしてね」
膝に手をついて立ち上がる。
腰は少し気になるけれど、歩けそうだ。
「じゃあ、まず、鍋を見せていただけます?」
花束は、座っていた木箱に置かせてもらった。
風に飛ばないよう、包み紙の端を少し折り込む。
「こっちです」
男の人について歩くと、薪の煙と、何かを煮ている匂いがしてきた。
布の屋根の下に、食材を載せた台が並んでいる。そしてその向こうでは、石で囲った火に鍋がかかっていた。
「おい、助っ人を連れてきたぞ。飯を作る仕事をしていたそうだ」
台の前にいた若い女性が顔を上げた。
「本当ですか?助かります!」
彼女は包丁を置きかけて、隣の桶を覗き込んだ。
「あ、水がもうない。汲んできます」
「俺が行くよ」
火の前にいた若い男の人が立ち上がる。
「待って、そっちは鍋を見ていて。さっきも吹きこぼれたでしょう」
「でも、肉を切ってるうちに薪がなくなって……」
「この薪、どこに置くんだ?」
束を抱えた別の人が、台の横で立ち止まっていた。
私は少しだけ、その様子を見ていた。
台には、形の揃った野菜が並んでいる。
肉を切っている人の手つきも、迷いがない。
薪を運んできた人は、あんなに重そうな束を軽々と抱えている。
みんな上手じゃないの。
ただ、何かが足りなくなるたびに、していた仕事を途中でやめている。
そのたびに、誰かが代わりを探していた。
段取りが良くないみたいねえ…これでは落ち着いて作れないから大変だったでしょうね。
「今、こちらを取りまとめているのは、どなたかしら?」
若い女性が、おずおずと手を上げた。
「一応、私です。村では家族のご飯を作っていたので。でも、こんな人数は初めてで…」
「そうよねえ。しかも、まだ増えるんですってね」
女性は困った顔でうなずいた。
「よかったら、仕事を分けるところから、お手伝いしてもいい?」
「お願いします。何から手をつければいいのか、もうわからなくて」
「ありがとう。じゃあ、お水はどこから汲んでいるの?」
すぐ近くに湧き水があり、そこから運んでいるという。使える桶も、まだいくつかあるらしい。
薪を抱えた人に、私は声をかけた。
「それ、重かったでしょう。ありがとうねえ。火のそばの、邪魔にならないところへ置いてもらえる?」
「ああ」
「そのあと、お水をお願いしてもいいかしら。こちらの人が、場所を教えてくれるから」
案内してくれた男の人がうなずいた。
「俺が連れていこう」
「ありがとうございます。助かります」
若い女性には、台の野菜を示した。
「きれいに切るねえ。これだけ揃っていると、煮え方も揃うから助かるわ」
「そ、そうですか?」
「ええ。続きもお願いしていい?お水や薪は、運んでもらいましょう」
女性は台を見下ろして、少し笑った。
「はい」
火を見ていた若い人にも、その場をお願いする。
肉を切っている人には、どんな肉なのか、どう料理するとおいしいのか教えてもらった。
聞いたことのない名前だったけれど、煮込みに向いているそうだ。
私は手を洗い、袖をまくった。
さて、鍋は。
火にかかっているもののほかに、空いた鍋が二つあった。どれも家で使うものよりは大きい。でも、五十人分となると、何度も作らなければならない。
しかも、これから人が増える…。
「もう少し、大きなものはないかしら」
「鍋はこれで全部です」
女性が答えた。
私は、調理場の端に置かれた、大きな金属の桶に目を留めた。
「あちらは?」
「道具を洗う桶です。持ってきたばかりで、まだ使っていませんが」
近づいて覗くと、底が平らで、かなり深い。
厚みもありそうだった。
「これを作った方は、いらっしゃる?」
「俺だが」
肉を切っていた人が、顔を上げた。
「まあ。金物を作るお仕事?」
「ああ。肉の方は、狩りをするから慣れてるだけだ」
なるほど、道理で上手なわけだ。
「この桶、鍋と同じ金属かしら。火にかけても大丈夫?」
「同じだ。…ってこれで煮るつもりかい?」
「ええ。置き方をしっかりさせられれば、一度に作れそうでしょう?」
その人は桶を見て、それから火の方を見た。
「石を組み直すか。少し待ちな」
「ありがとうねえ」
近くの兵士たちも呼ばれ、桶を据える場所を作ってくれた。その間に、私は桶を洗い、食材を確かめる
葉物に、玉ねぎに似たもの。
皮をむくと黄色い、芋のようなものもある。
「これは煮ると、やわらかくなる?」
「はい。崩れやすいので、あまり長く煮ない方がいいです」
「そうなのね。じゃあ、入れるのはあとにしましょう」
塩もある。
ただ、油の入った壺は、底が見えていた。
「油は、これだけ?」
「ええ。次の荷が届けば、あるかもしれませんが」
そのとき、肉を切っていた人が、白い脂身を脇の器へ放り込んだ。
「あら、それはどうするの?」
「捨てる。脂ばっかりで食いにくいからな」
「その脂のところ、少し使わせてもらえる?」
男の人が、器を見下ろす。
「これを?」
「細かく切って熱すると、脂が出るでしょう。それで、お肉と野菜を炒めたいの」
「なるほどな」
彼は脂身を台に戻し、包丁を動かし始めた。
桶の支度ができたところで、私は混ぜる道具を探した。木のへらでは、底まで届かない。
困っていると、水を運んできた人が、そばに立てかけてあったスコップに目を向けた。
「これじゃ駄目か?」
「あら…」
見せてもらった。
作ったばかりで、土を掘るために持ってきたものだという。
金物職人さんにも確かめ、よく洗ってから手に取った。
長い柄を握り、桶の底へ差し込んでみる。
「ええ、届くわ。ありがとう」
周りが、少し静かになった。
「…それで、混ぜるのか?」
「そうですよ。底が焦げないようにね」
給食室のへらより、少し重い。
でも、両手を置く位置を変えたら、動かせそうだった。
まずは脂身。
弱めの火で熱すると、じわじわと脂がにじみ出てきた。
そこへ肉を入れる。
じゅう、と音がして、さっきまでとは違う匂いが立った。
「野菜、こちらへお願いできます?」
「はい!」
切り終わった野菜が届く。
炒め合わせてから水を加えると、男の人が次の桶をそばに置いてくれた。
「もう一杯、要るか?」
「今はこれで大丈夫。あとで洗うのにも使うから、置いておいてもらえると助かるわ」
「わかった」
塩を入れ、火を調整してもらう。
誰かが持ってきた蓋を、桶の上に渡す。
少し隙間は空くけれど、何もないよりずっといい。
ようやく煮込み始めたところで、肩を一度、ゆっくり回した。
腰にも少し張りがある。
やっぱり、いつもの道具とは違うねえ。
「重いんだろ。それ、代わるぞ」
金物職人さんが蓋をずらし、スコップに手を伸ばした。
「ありがとう。底から、ゆっくり返すようにお願いね」
「こうか?」
「そうそう。お上手ねえ」
彼は桶の中を見ながら、もう一度混ぜた。
手が空いた私は、使い終わった包丁や台の上を片づけた。
若い女性が、切った芋を器にまとめて持ってくる。
「先に、こっちも用意しておきました」
「あら、ありがとう。ちょうど入れようと思っていたの」
彼女は嬉しそうに、桶のそばへ向かった。
湯気が立ち、野菜と肉の匂いが広がっていく。
気づくと、少し離れたところから子どもたちがこちらを見ていた。
「まだ?」
と、小さな声がした。
私は顔を上げた。
「もう少しよ。今、お芋がやわらかくなるのを待っているからね」
子どもはうなずき、隣の子に何かを伝えた。
その声を聞きながら、私は木のスプーンで煮汁をすくった。
少し冷まし、味をみる。
初めて使ったお肉と野菜。
でも、ちゃんと、おいしい。
芋にフォークを刺してみたらすっと入った。
「ええ、できましたよ」
そう言うと、そばにいた人たちが、いっせいに桶を覗き込んだ。
「器は、人数分ありますか?」
私が聞くと、若い女性が木箱を指した。
「そこに入っています。足りなければ、自分のを持っている人もいるので」
「ありがとう。じゃあ、こちらへ並べてもらえる?」
器を渡す人、よそう人、渡されたご飯を運ぶ人。少し場所を分けると、みんなすぐに動いてくれた。
「まず、小さい子と、こちらまで来るのが大変な方の分からお願いしましょうか」
案内してくれた男の人が、座っている人たちへ声をかける。
毛布にくるまっていた年配の女性には、若い人が器を運んでいった。
私は煮込みをよそいながら、並んでいる子どもたちを見た。
大きい子も、小さい子もいる。
抱っこされている子には、お母さんに量を聞き、やわらかくなった芋を小さく崩して入れた。
「熱いから、気をつけてね」
「うん」
両手で器を受け取った子が、そろそろと歩いていく。
ああ、そうそう。
汁物の日は、その歩き方になるのよねえ。
次に来たのは、さっき「まだ?」と聞いた子だった。器を差し出し、背伸びをして桶の中を見ている。
「待っていてくれて、ありがとう。お待たせしました」
受け取るなり、すぐ近くの木箱に座った。
スプーンを口へ運び、目を丸くする。
「おいしい」
小さな声だったけれど、ちゃんと聞こえた。
「そう。よかった」
それからは、スプーンを動かす音があちらこちらで聞こえ始めた。
「肉、入ってる」
「こっちの芋、食べてみな」
子どもたちの声に、大人の声も混じる。
私は次の器を受け取り、煮込みをよそった。
そのとき、胸のあたりが、ふわっと温かくなった。
花束をもらった時に少し似ている。
けれど、その温かさは胸にとどまらず、腕や背中までゆっくり広がっていった。
あら?火のそばに、長くいたからかしら。
若い女性にお玉を代わってもらい、列から離れたところにも食べていない人がいないか、見て回った。
お母さんの膝に顔を埋めていた子も、今は自分で器を持っている。
何も言わず、うつむいたまま食べていた。
口元にも、笑みはない。
「お口に合うかしら?」
声をかけると、その子は食べるのを止めて、こちらを見た。それから、小さくうなずく。
胸の中の温かさが、また少し増した。
表情は変わらないが不思議とわかった。
ああ、喜んでくれているんだねえ。
「そう。ゆっくり食べてね」
私はそれだけ言って、鍋のところへ戻った。
残りを確かめる。
あとから来た人の分を別の鍋に取り分けても、おかわりは出せそうだった。
「まだ食べていない方、いらっしゃいます?」
男の人が周りを見て、人数を確かめてくれた。
「こっちは全員もらった。向こうも大丈夫だ」
「ありがとう。じゃあ、作ってくれた皆さんも食べましょう」
若い女性が、少しためらった。
「私たちも、いいんですか?」
「当たり前じゃないの、ずっと働いていたんですもの。お腹が空いたでしょう?」
そう言うと、彼女のお腹が小さく鳴った。
近くにいた人が笑い、彼女も頬を赤くして笑った。その笑い声と一緒に、また、体の中が温かくなる。
私は桶のそばに置かれた器を取った。
さっきまで痛かった肩が、するりと動いた。
……あら?
試しに、腕を少し上げてみる。
上がる。
引っかかるような痛みがない。
腰に手を当て、ゆっくり背を伸ばした。
こちらも驚くほど楽だった。
「どうした?」
金物職人さんが、器を持ったまま私を見ていた。
「いえね。なんだか、肩と腰が軽くて」
「それ、俺もだ。朝から動きっぱなしだったんだが、これを食ったら、妙に力が戻ってきた」
彼は腕を曲げ伸ばしして、それから、器の中を見た。若い女性もうなずいて言った。
「私も、さっきまで足がだるかったのに…」
「温かいものが食べられたからかしらねえ?」
そう答えたけれど、私の肩は、温かいご飯だけで急に上がるようなものではなかった。
案内してくれた男の人が、私をじっと見た。
「あんた、魔力があるのか?」
「魔力?」
「ああ。さっき会ったときは感じなかったんだが…今は、近くにいるとわかる」
私は自分の手を見下ろした。
何も変わっていない。
長年使ってきた、皺のある手だ。
魔物に、よその世界に、今度は魔力。
今日はいろいろなことがあるねえ。
そのとき、服の裾がそっと引かれた。
さっきの、無言で食べていた子だった。
空になった器を、両手で持っている。
「おかわり?」
こくり、と頭が動いた。
胸から腕へ、温かさが流れる。
今度は、はっきり感じた。
「あるよ。お芋も入れようね」
器を受け取り、よそって返す。
その子は器の中を見て、足早にお母さんのところへ戻っていった。
私は、その背中を見送った。
「……喜んでくれると、魔力ってやつは増えるのかしら」
「魔力が?」
「そんな気がするんですよ。みんなが食べ始めてから、体がぽかぽかしてね」
男の人は、子どもたちと私を交互に見た。
「そんな魔力、初めて聞いたぞ」
「私は、魔力があるなんて初めて聞きましたよ」
「あんたの世界は魔法とかはなかったのかい?」
「ええ、魔法なんておとぎ話の中のものでしたよ」
「不思議だなぁ」
「ええ、不思議ですねえ」
でも、肩も腰も楽になって、みんな笑っている。今のところこの魔力というもので困ることはなさそうだ。
私は自分の分を器によそい、手伝ってくれた人たちの隣に座った。
「いただきます」
改めて食べてみると、肉の旨味がよく出ていた。芋もやわらかく、塩加減もちょうどいい。
「おいしくできましたねえ」
若い女性が、器から顔を上げた。
「こんなに早く、みんなの分ができるとは思いませんでした」
「みんな、手際がいいんですもの。助かっちゃった」
「それは、あんたが――」
男の人が何か言いかけたところで、鍋のそばから声がした。
「おかわり、いいか!」
「はい、どうぞ。まだありますよ」
返事をすると、彼は笑って、言いかけた言葉を飲み込んだ。
少し離れたところでは、食べ終わった子たちが話している。
さっきまでお母さんにくっついていた子も、隣の子に器の中を見せていた。
その声を聞きながら、私はもうひと口食べた。
「やっぱり、子どもが喜ぶ顔を見るのは嬉しいねえ」
「俺はもう、おっさんだぞ」
金物職人さんが言った。
空の器を持って、立ち上がりかけている。
「あんただって、子どもの頃はあったろう?」
彼は一度口を開け、それから、少し目をそらした。
「……そりゃ、あったけどな」
「おかわり?」
「もらう」
差し出された器を受け取ると、周りでまた笑い声が起こった。
帰る方法は、あるのかどうかもわからない。
明日の夜、自分がどこで寝ているのかも、見当がつかなかった。
それでも、みんなのためにご飯を作って、喜んでくれて、手伝ってくれる。重いものを持ってくれる人も、上手に野菜を切ってくれる人もいる。
木箱の上には、今日いただいた花束があった。
少し傾いていたので、手の空いた若い女性が直してくれた。
「ありがとうねえ」
彼女は笑って、また器を並べ始めた。
私は立ち上がり、残った食材を見た。
あの芋は、崩してとろみをつけてもおいしそうだ。朝なら、もう少し食べやすくしてもいいかもしれない。
今日で、大きな鍋をかき混ぜるのも最後だと思っていたのだけれど、どうやら、もう少し続くらしい。体も前より軽くなり、なんだかわくわくしてきた。
「それで、明日の朝は何人分かしら?」




