滝の向こうの美女は、千年も恋人を待っている
滝の向こうの美女は、千年も恋人を待っている
青渓村の外れには、鏡水滝と呼ばれる大きな滝がある。
百年も二百年も前から、村人はこう言い伝えていた。
――金環月食の夜、滝へ近づいてはならない。
――岩の上に美女が現れる。
――笛を吹く。
――見た者は魂を奪われる。
子どもの頃、わたしはその話が好きだった。
怖いからではない。
なぜか悲しかったからだ。
美女は何を吹いているのだろう。
誰に向かって吹いているのだろう。
村の老人たちは誰も答えなかった。
父に聞いても同じだった。
「誰か、見た人いるの?」
「いないよ。見てはいけないのだよ」
なぜ、見てはいけないのか、それを知りたかった。
でも、理由は誰も知らなかった。
そして十八になった年、金環月食の夜がやってきた。
月が黒い影に食われ、やがて黄金の輪となる日だ。
村中の戸が閉められ、灯りが消える。
虫の声まで消えたような静寂。
その中で、笛の音が聞こえた。
細く、遠くへ、胸の奥を直接撫でるような音だった。
なにかに恋焦がれるような音色。
わたしはたまらなかった。気づけば家を抜け出していた。
山道を走っているとき、思い出した。
――金環月食の夜、滝へ近づいてはならない。
――岩の上に美女が現れる。
――笛を吹く。
――見た者は魂を奪われる。
だが、そんなものはどうでもいい。
笛の音だけを追っていた。
やがて鏡水滝が見えた。
轟々と落ちる水。
月食の光を浴びて銀とも金ともつかぬ色に輝いている。
その前の黒い大岩の上に女がいた。
鏡のような湖面に女が映っていた。
白い衣に長い黒髪。
女は月を見上げながら笛を吹いていた。
人ではないほどに、美しい女だった。
その横顔には深い悲しみがあった。
自分のすべてを使って癒してやりたい悲しみだった。
笛の音が止まり、女が振り向く。
黄金色の瞳だった。
夜の月そのもののような。
「人の子か」
静かな声だった。
「はい」
「見てしまったのだな」
「……はい」
女は少し困ったように笑った。
その笑顔はあまりにも寂しかった。
「村の者は忘れたと思っていた」
「何をですか」
わたしが尋ねると、女は月を見上げた。
黄金の輪が空に浮かんでいる。
「わたしのことを」
風が吹いて、水面がゆれた。
滝しぶきが舞う。
女は静かに語り始めた。
大昔、女は月に住んでいた。
月の宮殿で、白い花々に囲まれて暮らしていた。
ある日、地上を見て、一人の男を見つけた。
薪を背負っていた。
貧しくて、不器用で誰よりも優しかった。
女はその男に恋をした。
月の民が決してしてはならない恋だった。
しかし、女は地上へ降りて、男と出会った。
話をして、手を握り、笑いあった。
季節はあっと言う間に過ぎた。
永遠を生きる女と百年も生きられぬ者。
女は男に永遠の命を与えたかった。
だが、その恋は許されなかった。
月の王は怒った。
女は罰を受けた。
女は月から追放されて、この滝の奥へ封じられた。
そして男は、滝のそばで女が戻るのを待ちながら老いた。
最後まで女を待ちながら、老いて、死んだ。
女はそこで言葉を切った。
わたしは何も言えなかった。
女と男の痛みを感じた。
「それで……笛を?」
女はうなずいた。
「月が恋しい」
空を見上げる。
「帰れぬ故郷だから、男と一緒に見上げたものだから」
今度は遠くを見るような目になった。
「そして、あの人も恋しい」
笛を抱きしめる。
「いつか帰ってくると思っている」
「死んだのに?」
思わず聞いてしまった。
女は微笑んだ。
「人は死ぬ。だが想いは死なぬ」
月光がその横顔を照らす。
「わたしは長く生きる。百年も千年も……だから待てる」
その声は穏やかだった。絶望ではなかった。
希望だった。
あり得ないほど長い時間の中で、なお失われない希望。
「いつか生まれ変わるかもしれない」と女はつぶやいた。
「いつかまた会えるかもしれない」と女は微笑んだ。
「だから笛を吹く」と女は空を見上げる。
「月へ」
「そして地上へ」
「帰る場所を忘れぬように」
その言葉を聞いた時。
わたしは村の言い伝えの意味を理解した。
魂を奪われるのではない。
こんな話を聞いて、こんな孤独を知れば、誰だって帰れなくなる。
この女を一人にしておけなくなる。
それが禁忌だったのだ。
女は再び笛を口に当てた。
「村長の息子。宇清」
「はい」
「もし村に子どもが生まれたら」
黄金の瞳がわたしを見る。
「笛の音が好きな子がいるかもしれぬ」
「その時は?」
「その時は教えてくれ」
女は笑った。
初めて見る優しい笑顔だった。
「わたしも会ってみたい」
その笑顔を見て、わたしは泣きそうになった。
女は恋人を待っている。
百年、千年、万年かもしれない。
それでもこの女は待てるだろう。
月を見て、男を思い出し、ただ一人で。
笛を吹き続けて待つだろう。
やがて夜明けが近づいた。
月食が終わる。
黄金の輪が消えていくにつれて、女の姿も薄れていく。
「帰る時間だな」と女が言った。
「そろそろですね」
「そうか」
女はうなずいた。
「また百年後に会おう」
冗談のように言ったが、わたしは本気でうなずいた。
「もしあの人に会ったら伝えてくれ」
「何をですか」
女は月を見上げた。
その顔は恋する娘そのものだった。
「わたしはまだ待っていると」
風が吹いて、滝しぶきが舞った。
そして岩の上には誰もいなかった。
ただ笛の音だけが残っていた。
月へ届くように。
どこか遠い場所にいる恋人へ届くように。
何百年もの間、一度も途切れたことのない想いを乗せて。




