自己の肯定、即ち思考
人は皆、生きる理由について考えるべきである。生きる理由なしに人は良く生きられない。また、それを自らの外に求めるのは愚かである。他人が語る生きる理由は所詮他人が生きるための理由である。そんなものに頼っては自らの人生が腐る。自己が肯定されるわけがない。ゆえに人は理由を考える必要がある。
生きる理由はどんな些細なことでもいい。よく考えて自分に残ったもの。楽しいことがあるから、他人といたいから。別に一つでなくても、時とともに変わりゆく理由でもいい。そうして理由ができると人はより高みへと昇る。楽しく生きるために必要なものを探索し、より人生に夢中になる。他人といるために、より多くと関わるために自らを磨き上げる。そうして積み上げた人生は己を自然と肯定する。内に眠る欲求に従い生きれば当然否定などできようはずもない。
他人に理由を求めたものは次第に己を失い自己を肯定できなくなる。なぜ生きているのかもわからず、他人から得た理由は自らの欲求を満たさない。だから己を空虚に感じる。他人はあくまで己の欲求を満たすものであり、依存するものではないと心にとどめておかなくてはならない。己の評価すら他人に投げ出したときすべては終わる。容姿、体重、身長、健康、金銭、学歴。そんなもので己を評価し他人と比べてはいけない。己の評価は内に見出すべきだ。世界は己を中心に回っているのだから。
あなたは年収1000万の他人を見て自らを惨めに感じるか?だとしたら愚かである。
あなたは良い容姿を持つ者を見て自らを惨めに感じるか?だとしたら愚かである。
あなたは身長が高いものを見て自らを惨めに感じるか?だとしたら愚かである。
身長が低いから不幸なのではない。年収が低いから不幸なのではない。醜いから不幸なのではない。自分の生きる意味を見つけずあいまいに生きるから、他人の目を、評価を、人生の軸とし己を惨めにするのだ。
人生について考えるということは己を己で見つめるということだ。そこに他者はなく孤独である。孤独とは恐ろしいものでもあるが、その先にはより良い人生があるものだ。
自己肯定感などというまやかしは、ただ不幸だと思い込み自分をいじめ慰めるための愚かなものである。自らのために当たり前に生きれば気にすることもない。




