42 ピアノソナタ8番「悲愴」 第2楽章
Ludwig van Beethoven 作
SIDE ヨハン
雷鳴が響いた瞬間、アンジェリクはセルゲイの魔力を感じ取り、皆の登場を予期してあの辺り一帯に結界を張った。
結界と言っても、聖職者が張るドーム型のものではなく、服のように個人を纏う結界だ。
セルゲイとアンジェリクは、それをシールドと呼んでいる。
通常の結界はドーム型で、張ったその内側だけを防御する。
けれど既にオロチと対戦している我らに、その手の結界は無意味だ。
だからこそ、団員一体一体に繊細な結界を一気に掛けたのだ。
この手の結界は、大賢者であるセルゲイが唯一できる芸当だ。否、だった。
けれどそれをアンジェリクがセルゲイに放つ。
その先に何が待ち受けているのかを、その瞬間に把握したセルゲイの怒りは凄まじいものがあった。
否、セルゲイだけでなく、フランツ、エリックの怒りの波動が容赦なく舞う。
柔らかな音色のカリンバで、優しい子守歌のような曲をセルゲイが弾いていた。
誰のために弾いているのかなど、向かう視線で火を見るよりも明らかだ。
フランツがアンジェリクを膝枕し、その前髪をそっとかき上げながら、ゆっくりと自身の魔力を分け与えていた。
深い眠りにつく少女を見下ろすその表情が、母性に満ち溢れていて妙に怖い。
そんなフランツの隣で、エリックがアンジェリクのダガーを改造している。
アンジェリクの成人祝いに、両親から贈られた、最強の金属オリカムクルで誂えたダガー。
そこに、ロベルトに魔道具を依頼したのだろう。
柄に宝石のような何かを嵌め込み、自ら空を斬り試調整をする。
この三人。単独行動、唯我独尊、我関せずなどなど、面倒見の悪い上官として名高い。
まぁ、ここにフレデリックも加わるのだが。
そのフレデリックも然りだが、天才と呼ばれる人間は、自分の物差しや単位が存在するのだろう。
けれど幼い頃から彼らにベッタリとくっつき離れないアンジェリクを愛おしみ、自分らの持てる全てを叩きこんでいる。
エリックは実の兄だが、他の二人はゲオルクに所縁や恩義がある。
それ故に、甲斐甲斐しくアンジェリクの私生活までをもカバーする姿は、まるで第二の両親だ。
そこに愛弟子という付加価値が加わるため、更に深い絆が結ばれているのだと思う。
今日のアンジェリクは、この三人が凝縮されたような戦術を熟した。
けれどそれは、色々な意味で異常事態だ。
アンジェリクが規格外なのは、入団前のあの聖都教会で出会った時から解っていた。
だがそれは聖属性魔法に限ってのことであり、他の属性は問題外だと思われていた。
けれど今日見た限り、多分私が炎の魔術を彼らのように教え込めば、使いこなしてしまう気がする。
「まだ目覚めなそう?」
フレデリックとルロイが、セルゲイを挟んで丸太に腰を下ろす。
そこで始まる、Wリックと竜王の小競り合い。
「カスタードを鼻の下に塗れば飛び起きるんじゃない?」
「鼻の下にクリームがついてるアンジェ……可愛…やろう!」
「ちょっと可愛いかもって思っちゃった自分が悔しい」
「なんで悔しいんだよ」
「フッ。思考がエリック回路だからじゃん?」
「あーねー。って、おい!」
そこへ、クロードが手で顔を仰ぎながらやってきた。
「ふぅ。ジョージとテクラが事情徴収してるけど、なんというか、凄いね彼女」
それが何を意味するかを存じ得ている彼らは、全員が大きな溜息を溢す。
同じチキュウからの転生者だ。ソフィアの動向は気になるのであろうルロイが、クロードに問う。
「で、大聖女に覚醒できたわけ?」
「目尻にホクロができているから、これが覚醒した証だと騒いでいたよ」
「何それ。単にホクロが覚醒しただけじゃん!」
「ソフィアは回復系は使えないが、防御系の聖属性魔法と探索が使えるんだ。どちらも自衛に有効だから九番隊に配属をしたんだけど」
「転生者だからそれなりのチートはあるんだろうね。僕ら同様に」
クロードの解説に答えながら、ルロイが未だ目覚めないアンジェリクを見た。
なんだかんだと言いながらも、心配しているのだろう。
「あ! そういえば、「ルロイさんがフェリクス様でしたのね~!」って騒いでたよ」
「はっ。気のせいだ。で、押し通す予定」
そこにフレデリックが加わり、更にフランツとセルゲイもが想いを口に出す。
「アンジェにも?」
「アンジェは気が付かないから無問題!」
「あれを見て、乗って、気づかないってどうなの?」
「なぜこのオバカに隠す必要があるのですか? この性格からして距離を置いたりしないでしょうに」
「逆だろ。喜びすぎて無茶ぶり言い出す未来しか見えない」
あーねー。
これでも一応王族なので、そのような言葉は発せないが。
結局、我らはグラニで飛ばし過ぎ、目的地から道を逸れてしまったらしい。
後続の本隊は、クロード指揮の元、バジリスク討伐をきっかりと果たしている。
オロチは完全にイレギュラーな討伐だった。
後続隊を出し抜き、ソフィアが先にやってきたのは探索を駆使したからなのだろう。
そこで漸く目の覚めたアンジェリクが、無言でフランツに抱き着き甘えていた。
否、噛みついていた……
「おなか減った! がるるるるるぅ!」
「痛っ! 起きた早々なんですかっ!」
◆◇◆◇◆◇◆
「アンジェリクおいで」
愛剣に炎を纏わせ、アンジェリクを促す。
「これをイメージして、ダガーに同じことができるか?」
「おお綺麗~! 団長が赤なら私は青い炎がいいな! んー、こうかな?」
ボっという着火音がし、宣言通りの青い炎がダガーを包む。
矢張り出来たか。と感慨深くある半面、呆気に取られることとなる。
「あちち、熱っ!」
周りが驚くも束の間。ルロイが駆け寄り叫ぶ。
「アンジェっ!」
「ルロイッ!」
何やら示し合わせた二人が、どこぞの民族舞踊のようなものをドンドコと踊りながら、手をフリフリ、アチチィアチィと繰り返しながら喚いている。
ルロイに至っては、燃えてるんだロカ~と確実に歌っているのだが。
チキュウの人間は、熱いと踊って歌う習性があるのだろうか?
否、きっと無い。あいつらだけだ。断言する。
「アンジェリク、音を泡にしなさい!」
「あ~そうじゃん、そうだった。燃えてるんだロカ~」
無意味だと本人も確実に解っているであろうが、手に息を吹きかけている。
なぜなら既に、火傷など治癒済みだからだ。
「痛みは消えたけど、なんかまだ手が熱い。ねぇセルゲイ隊長、保冷シート作って」
「なんだそれは」
「えー、冷たいジェル?」
「ジェルとはなんだ」
「えー、でんぷんとメントールと何だろ?」
そこにルロイが割って入り、仲良しちびっ子転生組が、チキュウのアイテムらしき道具の話を始めた。
「ホウ砂じゃない? スライム作るのに使った気がする」
「あ! なら、面倒だから本物のスライムから作ればいいじゃん!」
「メントールはどうすんのさ」
「ハッカ油じゃん?」
異世界の道具話など未知の領域だ。
さすれば当然ロベルトが、居ても立ってもいられず輪に加わった。
「ちょちょちょ、そこの転生組、そういう面白そうな話は私を混ぜてくださいよ!」
「あ、ロベルト隊長、良いところに! 水蒸気蒸留器ってありますか?」
「ありますよ、それで何を精油するのですか?」
「ミントだね」
「ミント~~ォ? あんな迷惑雑草ですか?」
逆にセルゲイが私の視線を感じて、輪から離脱しこちらへ歩み寄る。
私の云いたいことを察したのであろう。セルゲイが口を開く。
「アンジェリクは全属性に不適合だ。けれど全属性が使える。というか属性という概念がない」
セルゲイが静かに語るその意味は、正に異常事態を指す。
属性が適合しなければ、その属性魔法を発動することはできない。
けれどアンジェリクは不適合にも関わらず、発動することができるという。
だが、不適合者ゆえの短所もある。
基本的に、自分の持つ毒に耐性のない生き物はそういない。
毒とはまた違うが、私自身も炎を身に纏わせることができるが、アンジェリクのように熱がったりも燃えたりもしない。
これは自分の属性に耐性があるから成り立つ。
けれどアンジェリクは、自分で放った魔術に抵抗ができないという。
「だからまず先に、回復と並行して防御を叩きこんだんだが」
「あのシールドとか言う結界だな?」
「ん。あれは聖属性だけでは無理なんだ。四属性以上でないと発動できない」
基本的に聖属性持ちは、その属性にだけ特化する。
だから、回復系と攻撃系の魔術を唱えられる聖職者は皆無だ。
逆に魔術師の場合、数属性持ちだとしても回復系を唱えることができない。
正し、三属性以上の属性持ちで、その全ての属性を極めた者は、回復系をも操る聖騎士と覚醒する。
カラヤン大公の側近、カールがそれだ。
さらにセルゲイは聖騎士を超え、五属性を極めた大賢者だ。
カラヤン大公が引退した今、世界最高峰の魔導騎士でもある。
フレデリックも数属性持ちだったはずだが、魔術よりも剣の道に走り、剣神となった。
私は炎。フランツは風の一属性に特化し、マスター化している。
そしてエリックも氷の一属性特化なはずだ。
けれど、どうにも魔力を隠したがるエリックは、ロベルトの魔道具のお陰だと嘯く。
まぁ、あのローレン一族だ。闇あたりも習得しているような気もするが……
「なるほど。で、アンジェリクには可能なわけだな?」
「あぁ。更に、アンジェリクは想像を形にすることができる。形と言っても物体ではなく物質なのだが」
そこで孰れは話さざるを得ない事柄を、彼らに告げた。
「最近、騎士団に大聖女がいるとの噂がたっているそうでな……否定はしているのだが、アンジェリクが大聖女だというならば、陛下に報告しない訳にはいかない……」
いつの間にか、年長者の隊長たちが全員集まっていた。
さながら此処は、屋外隊長会議と化す。
「あのオバカは、大聖女じゃありませんよ」
「なぜそう言い切れる」
「歴代の大聖女よりも、圧倒的に能力が上だからです」
「ならば勇者か?」
「いえ。セルゲイも言いましたが、想像を形にできる能力だなど、思いつくのは……」
「創造神か?!」
「だけど、アンジェリクちゃんは、物体を造り出すことができないじゃない?」
「しかも創造神が……全不適合であのようになるものか? アチアチとかよぉ」
「……。ないな。あれは大聖女でもなきゃ、女神なわけもない」
「だろう? いいんじゃねーのか? 騎士団員のアンジェリク。で」
不意に、カリンバのゆったりとした曲が始まった。
勿論奏でているのはアンジェリクだ。
「広範囲の回復をさせますので、クロードをお借りしますよ」
そんなアンジェリクに指示を出すのだろう。
フランツが立ち上がり、暇を告げる。
そして名を呼ばれたクロードも席を外した。
「ねぇ、考えてたんだけど、『大聖女』を探せば良い話なのでは?」
「なるほど。居たな、覚醒したらしい大聖女候補が」
「あーねー」
あ、言っちゃった……
王族なのに……




