37 アヴェ・マリア
Giulio Caccini 作
SIDE フレデリック
「ア~~~~ヴェ~~~マ~リ~~~ィィ~ア~~~」
アンジェが、祖父に歌の指導を受けていた。
意味は良く分からないけれど、歌詞が『アヴェマリア』だけの曲だ。
それは讃美歌というジャンルで、チキューの女神を讃える歌らしい。
さらにこの名の讃美歌は、作曲者の違う数曲があり、今アンジェが歌っているのはカッチーノのアヴェマリアと言う。
この間は、シューなんとかのアヴェマリアを歌っていた。
どれも甲乙付け難いけれど、俺はこのカッチーニのマリアが一番好きだ。
だけどアンジェは、アユのマリアが好きらしい。
「それは愛すべき人がいるマリアであって讃美歌じゃないよね?」
とかなんとか、ルロイが俺には分からないツッコミを入れ、互いにニヤリと笑い、頷きながら親指を立てていた。
この一連の動作は『オヤクソク』と言うらしい。覚えた。
聖歌なら我が国にもある。
けれど、ここまで透明で美しい調べは無いと言い切れる。
声楽だけでなく、彼らの世界の音楽は、本当に素晴らしかったのだろうと心からそう思う。
「とても良くなってきたよアンジェ!」
祖父の褒め方が、声楽とピアノでは雲泥だ。
ピアノだと、ブラボー、ファンタスティック、アメージング、ワンダフルなどの言葉が必ず飛び出す。
けれど歌では、毎度こんな感じだ。
それもそのはず。アンジェは声楽などやったことのない初心者だった。
だからこのソプラノの高音域が出ず、最初はガラスを引っ搔いたような声を出していた。
そんなアンジェだったが、元々音感はある。というか、絶対音感の持ち主だ。
ゆえに今は、音を外すことなく、歌い上げることができるまでになっている。
それでも祖父にとっては、素晴らしいまでには至らないのだろう。
俺はアンジェの声が好きだし、この曲を聴くと胸をぎゅっと鷲掴みされたような気持ちになる。
はにかみながら歌う横顔も好きだし、ピアノを弾く眉間に皺を寄せた顔も好きだし、俺を見つけた時の涙袋がキュッと盛り上がる笑顔が好きだし、俺の名を呼ぶ色んなトーンの声も好きだし……
でも最近、アンジェは俺を呼ばない。
それどころか、目が合っても即逸らされる。
苛々する。
だから、神を讃える歌を脳裏にリピートさせて遣り過ごす。
あぁ、アヴェマリア――
◆◇◆◇◆◇◆
「申し訳ありません、父が早まって……あの、フレデリック?」
苛々する。
話が通じない。
そして鬱陶しい……
フランツのアンジェを見る顔を見てからというもの、深く真っ暗な穴に落ちてしまったような気分が続いている。
なぜ穴に落ちたのか、なぜ這い上がれないのか、考えても答えが見つからず、未だに浮上できない。
こういう時はアンジェのピアノを聴けば、気分爽快爆睡できるのに、この女がそれすらも奪った。
そうとしか思えない。
大体、騎士団は家名の力を使ってはいけないルールがある。
だから貴族の団員は、家名を名乗らずファーストネームだけを告げるという暗黙の了解がある。
それだけに、俺をファーストネームで呼ぶのは仕方ない。
だが、俺に付ける敬称は『様』ではなく『隊長』であるべきだ。
様をつけて呼ぶのは貴族のそれであり、それならば、俺は彼女に名呼びを許すつもりは一切ない。
だから様付けを止めてくれと、今、頼んだ。
なのになぜ俺は、今、呼び捨てにされたんだ?
俺は、彼女の名を呼んだことなど一度もない。
何度か名前を聴いた気もするが、不必要なものを覚えるのは無駄だ。
ルロイが前に『コーリツチュー』と言っていたが、俺もかなりのソレだと自負する。
それなのに、だ。王宮の舞踏会で婚約披露?
冗談じゃない。
しかもそれを聴いた時の、アンジェの俺を見るあの蔑んだような瞳……
何もかもオカシイ。
祖父が、俺と彼女のために曲を書いた?
いや、そもそもスコアは、アンジェに渡すよう祖父から頼まれたはず。
なのになぜ、祖父が彼女と弾けと指示を出したことになっているんだ?
そして俺はいつ、アンジェとのアンサンブルを断った?
いや、待て。俺の部屋で、ピアノを練習?
解除呪文を知っているから、結界は問題ないのだと勝手に部屋に入っていた。
驚愕しながら彼女を追いだし、すぐさま団長に話を通して、ロベルトに物理的な鍵をかけることのできる魔道具を作ってもらった。
兄であるという九番隊のジュリオにも会い、注意を促した。
それでも何かあると色々面倒だし怖い。
だからその間、俺は侯爵家のタウンハウスで寝泊まりをしていたし、彼女とアンサンブルなどするつもりもないから、一度たりとも練習などしていない。
なのにアンジェは言った。彼女が部屋にいたから、と。
ゾッとする。ピアノ部屋だけとはいえ、あれこれ触られていそうで気持ちが悪い。
なぜ解除呪文を知っているんだ?
俺が教えたと彼女は言うが、そんな記憶は一切ない。
いや、それよりも何よりも、俺は追い出したんだ。
二度と入らないでくれと言い、追い出した。
物理的な鍵も作った。
なのになぜ、待っていてほしいと俺が頼み、鍵をこの女に渡したことになっているんだ!
「フレデリック待って! 私たちの婚約発表の曲を練習しないと」
ダメだ。限界だ――
左の親指で鍔を押し上げ、鯉口を切ったところで、突如現れた男にその手を掴まれた。
「おいおい、廊下で抜刀はヤバイだろ。しかも女相手に」
声を潜めて耳打ちされた言葉に、青褪めた。
そうだ、今俺は目の前にいるこの女性を斬ろうとした……
「どう甚振ってやろうかと思っていたけど、面白いものが見れたよ」
いつもの調子とは全く異なる、静かな囁きにゾクリとした。
けれど俺にそう耳打ちすると、打って変わった明るい声で彼女に向って話し出す。
「やぁ、初めまして。僕のシュガーアンジェがお世話になっているようで」
「エ、エリック様! お初にお目に掛かります、わたくしカレ」
「おっと、ここは団内だから、貴族のマナーは逆にマナー違反になっちゃうよ」
「も、申し訳ありません。つい、癖で……あのエリック様は」
「あー、それもだ。僕は貴族じゃないから様もいらないし、様呼びも、団内ではマナー違反だよ」
「そ、それは、でも、いきなり呼び捨てなんて、その恥ずかしくて」
「あはははっ! 君、面白いことを言うね。僕はこれでも隊長職を授かっているからさ、敬称は『隊長』でお願いするよ」
そうか。俺もエリックのようにそう言えば良かったのか。
日頃から女性とは距離を置いて生きていた為、長く話すことをせず、簡潔に物言いをしすぎたのだと知った。
「さて、それで君はなぜそのような服で、このような場所にいるの?」
「それは婚約発表に向けて大公閣下の指示で、フレデリックと曲の練習をするためです」
「そうなんだ、それは知らなかったよ。でも、大公閣下も知らなかったみたいだけど」
「そんなはずはありません! 私を応援してくれる大公閣下の催しなのですよ!」
「ふ~ん。でも陛下も、そのような舞踏会を開く予定はないとのことだけど」
彼女が端から眺め見ていても、異常な程の瞬きを繰り返す。
そのたびに、金色の鱗粉のような物質が放たれる。
だがそれは、放った相手に届くことなく、すぐさま消えた。
そこで思い出す。セルゲイがアンジェの訓練だと言って、騎士団敷地全てに何かの魔術をかけていたことを……
「実は私……アンジェリクさんとソフィアさんに嫌がらせをされていて……」
突然、彼女が泣き出し、百は優に超える瞬きをしながら、言ってはイケない人間に言ってはイケない言葉を吐き出した。
アンジェのことになると平静でいられなくなるエリックは、鼻に皺をよせて心底莫迦にした口調で返答する。
「はぁ? 君、大丈夫?」
そして、人差し指でこめかみ辺りをトントンと叩く。
頭は大丈夫か?との物言いに、流石の彼女も気づいたようだ。
「なっ! 隊長とはいえ貴方こそ男爵令嬢の私に不敬ですよ!」
今度は人左飛指をこめかみ辺りでクルクルと回しながら、全く動じることなく、エリックの話は続く。
「君がやらかしちゃったことってさ、
1、陛下が婚約発表の舞踏会を王宮で開くと言い張る不敬。
2、大公閣下が企画し、指示をだしたと言い張る不敬。
3、ビューロ公爵にまで虚言妄想話を押し付けた不敬。
4、婚約などしてもいないのに妄想でシュリフェ侯爵家を巻き込む不敬。
5、最後に、僕のアンジェを悪者にした不敬。
これだけ重なると、投獄どころか死刑だよ。特に五番」
「なっ! わたくしを脅迫なさるのですか!」
「脅迫? そんな面倒なことを僕はしないよ」
一瞬にして、端麗な顔を能面のように冷ややかに固めたエリックが、深く掠れた声で囁いた。
そして、一歩また一歩っと追い詰めるように彼女へと近づき、耳元まで屈んで言う。
「知っているんだろ? 僕は暗殺専門だからね……」
「ひっ」
「今後、君の妄想に僕のアンジェを巻き込んだら……解っているね?」
ところがそこで、本気になったこの男を止められる唯一のストッパーが、竜をお供にやってきた。
「お兄ちゃん?」
「マイ、ビューティフォースイートハニー!」
「はいはい、で、何してんの? 何だか周りのみんなが寒そうにしてるよ?」
俺はこんなだけれど、アンジェリクは今日も平常運転だ。
血の気が引き震えるギャラリーを見て、寒いって言いきっちゃった。夏なのに。
「そんなちょっとポンコツなアンジェが大好きだ~!」
「えへへぇ」
「や、それ、褒めてないよね?」
ルロイがエリックにツッコミを入れているが、アンジェは照れてはにかんでいる。
そこで彼女からアンジェを隠すよう抱き締め乍ら、エリックが指を鳴らした。
途端、忽如として彼女が消えた。
まるでエリックの影に吸い込まれるように。
闇の魔術……
「うぉぉ! エリックやべぇ!」
「え? あ、あれ? 今そこに誰かいなかった?」
ルロイが騒ぎ立て、アンジェが戸惑う。
けれど鼻息を荒くした伯爵令嬢が現れ、アンジェの疑問は打ち消させた。
「ア、アンジェリク! わたくし、色々思い出しましたの! 思い出しましたの!!」
「うぉ? ソフィアさん、な、なにをでしょう?」
アンジェとルロイ、そして彼女が何やらギャイギャイ話し出す。
そこで漸く息苦しさから開放されたが、その反面に襲ってくる恥辱。
手で顔を覆いながら、情けなさをエリックへ吐露した。
「はぁぁぁぁ。格好悪い俺……。イイトコ一つもない。情けない……」
「お前、その状態で討伐に出たら死ぬぞ」
「解ってる。解ってるけど出口が見えない……」
「何を悩んでんだ、らしくない」
そうだ。何を悩んでるんだろう。
いや、でも悩んでるんだ。出口の無い、真っ暗な穴だと思うほど。
じゃあ何を悩んでるんだ?
「だからぁ、何に悩んでるのかがわからないんだよ!」
「嘘だろ、そこからかよ!?」
だがそこで、伯爵令嬢に何かを言われたらしいルロイが、竜の魔力を駄々洩れさせはじめた。
「ルロイ待て待て待て待て!」
「ルロイ、爪、つめつめ! ヤバイヤバイヤバイって!」
竜の魔力覇気に中てられ、あちらこちらから誰かが倒れる音がする。
慌ててエリックがアンジェに指示を出すのだが……
「メイプルシュガースイートハニー、大広間のピアノ弾いて!」
「エリック、なんかもうそれ、ただの甘味料じゃない? アンジェのアの字も入ってないじゃん」




