36 リベルタンゴ
Astor Piazzolla 作
「この曲ってバイオリンとピアノというより、チェロとバンドネオンなイメージでした」
「まぁそうだね。ヨーヨーが広めたと言っても過言じゃない曲だからね」
ヴォルフ様の言うヨーヨーとは玩具ではなく、前世での世界的チェリストであるヨーヨー様のことだ。
そして私は、ジャズのアレンジがどうにも不得手である。
余り携わったことのないジャンルだから、分らないというのが正確かも。
クラシックにも勿論アレンジはあるのだけれど、即興性はなく、基本は楽譜通りだ。
だからジャズ特有の独特な間とかリズムとか、ほぼ即興だからこそ神が降りてきた感覚なんだと思う。
ヴォルフ様のスコアは、かなりヴォルフ色にアレンジされたものだ。
だから楽譜通りに弾けば問題はないのだけれど、イレギュラーが起きた時に対応できない。
ことセルゲイ隊長は、羽目を外すのが得意だ。
セッション相手に試練を与えるかの如く、無茶ぶりを押し付けてくる。
タンゴにジャズのアレンジを加えられたら、我が上司は出来るが私は対応出来ない。
そこがまたもどかしい。否、悔しい。
なんだかんだフレデリックとは、五年くらいアンサンブルをやっているから、擦り合わせたキャリアがある。
大公邸で合奏していると、セルゲイ隊長が加わることもあるが、我が上司の実力は未知数だ。
そしてフレデリックの部屋には彼女がいるのだと思う。
そう、ヒロインさんがピアノの練習をしているのだ。
防音結界が張られていても、ピアノの音だけは感じ取ってしまう。
バイオリンの音までは感知できないが、あの曲は明らかに『愛の喜び』だ。
なので私はピアノを弾くことができずにいる。
ホールのグランドピアノには防音結界が張られていないため、音が駄々洩れで練習には不向きだ。
だから手持ち無沙汰でイライラするわ、ピアノ禁断症状でイライラするわ、アレンジが難しくてイライラするわ、そんなこんなでヴォルフ様の指導を受けに大公邸へやってきた。
「アンジェ、そこはもっとappassionatoで」
「うむ。苦手意識から機械的になりすぎているね。いいかい、思い描いて。タンゴの踊り手がここにいる。彼らはこのリフを頼りに踊る。だからリフを壊すアレンジは入らない。如何に美しく踊らさせられるかを掴むんだ」
「あぁ、やっぱりここに居たんだ。フランツは隊舎にいるのに、ナリタさんがいなかったからさ」
「あれ? 練習はいいの?」
「練習?」
「うん、だってフレデリックの部屋に、ヒロインさんが居たから」
「えぇ? いつ?!」
驚愕の表情を浮かべるフレデリックに、胡乱の目を向ける。
白々しいったらありゃしないですよね!
毎晩毎晩遅くまで、微かにピアノの音が聞こえてくるんだっつうの!
「おやおや何の話をしているんだい? ヒロインさんとは?」
「あれぇ? 大公のお膳立て企画で指示なんでしょ?」
ルロイが何やら甘い飲み物片手に現れ、ヴォルフ様考案の旨を伝えている。
え、何それ。私飲んだことないのですが、どこに行けばもらえますか?
「んん? 私がなんだい?」
「え? 愛の挨拶って曲を、ヒロインとフレデリックに合奏させるってさぁ」
「わ、私がかい?」
なんとなくマスオさんチックに、ちょっと裏返った声でヴォルフ様が問う。
そんなヴォルフ様をスルーして、今度はフレデリックにルロイが話を振った。
「で、アンジェの相手にはなれないからって、フレデリックが断ったんでしょ?」
「え? いつ俺が断ったの?」
「はぁ? だって、それでフランツがアンジェの相手になったんだよ」
ルロイの表情が、なんとなく般若じみてきた。
眉間に深く刻まれる皺と、赤く光る目と、心なしか角が見えるのは私だけでしょうか?
「毎日毎日、フレデリックの部屋のあのアップライトであいつが練習しているから、アンジェは練習不足だし」
「待ってよ、毎日って何?」
「はぁ? フレデリックが毎日待っててくれってあいつに頼んだんだろ!」
「フレデリック? それはどういうことでしょう」
見学していたリリ様が、溜まりかねた様子で語気を強めてフレデリックに歩み寄る。
けれどそこへ、更に語気の鋭いアルフレート様がやってきた。
「フレデリック! 一体どういうことなんだっ!」
ルロイよりも確実に鬼と化したアルフレート様は、息を切らせたまま語勢を強めて続ける。
「次の王宮舞踏会で、お前はグノー家の令嬢と二人で、義父上が作った曲を披露すると聞いたぞ!」
「なっ……そんな話、俺は寝耳に水で……」
「グノーが宮廷で、それはそれは意気揚々と誰彼に話していたぞ!」
珍しく仮面を被ることを止めたリリ様まで、荒く言葉を放つ。
「貴方理解っているの? そのような行為は、二人の仲を公表するに等しいのですよ!」
「お前はアンジェを捨て、あの、あんな、グノー家と縁を結ぶ気なのか! 許さんぞ!」
……。
よく分からないけれど、私は捨てられるのでしょうか?
手指が震えてきたのですが、これはピアノが弾きたい禁断症状ですよね?
「へぇ、まぁ、アレだ、いわゆる婚約発表みたいなもん?」
先程から、苛々して堪らない。
こういう時はあれだ、心を無にして悟りを開け!
「あー、なるほど。それは大イベントだ。いつの間にか婚約するほど仲良くなったんなりねぇ」
ピアノの音が機械的だから、喋る言葉も機械的になってしまう。
そのうち心も機械になって、ちょんまげが生えてくるなりよ。
「毎日お前の部屋に通って、遅くまで帰らないと有名だそうじゃないか」
「いや、それは俺も今初めて聴……」
「あー、それは本当なりね」
「アンジェ違うっ!」
「アンジェ、そういう君も噂になっているんだよ」
「はぇ?」
「同日の舞踏会で、ビューロ公爵とその最愛の姫君が曲を披露し、愚息のペアとどちらが優秀かと競うのだとか」
「ほぉ!」
「ほぉ、じゃなくてね? その最愛の姫君はアンジェのことだと言われているんだよ」
そこまでアルフレート様に言われて、私の顔を覗き込むルロイが言った。
「アンジェ~。その顔、フランツに失礼」
おっと、心頭滅却しても涼しくなれなかったようだ。
いかんいかん。ちゃんと真実を伝えなければ。
「いやだって、私は当日までの練習伴奏役で、本番はフランツ隊長とセルゲイ隊長のアンサンブルですよ?」
「お待ちになって。今、我が愚息の名が聞こえた気がするのだけれど」
ナディア様が、落ち着きを払った優雅なしぐさで会話に参加する。
なので隠すことなく事実を告げた。
「はい。ビューロ公爵邸で、フランツ隊長とセルゲイ隊長と三人で練習をしています」
けれどそこでフレデリックが話に割って入った。
「三人? フランツと二人切りじゃなくて? ていうか、愛しの姫君ってセルゲイなの?」
「ひ、姫じゃないじゃん? 色々。でも、うん。いつも三人だよ?」
だからそう答えてから、なぜそのようなことを聴くのかと首をこてりと横に倒す。
明らかに安堵の表情を浮かべて、フレデリックが溜息を吐いた。
「そんな噂は全く聞かないが、移動はもしかして空間移動かい?」
「そうです。フランツ隊長の執務室とビューロ公爵邸が魔法陣で繋がっているので、そこから行き来しています。それでえっと、それを構築したのがセルゲイ隊長なんで、転送するときはセルゲイ隊長も必ず一緒です」
魔道具と異なり、魔法陣の空間移動は術を使用する。
つまりそれが使用できる人間と同伴していなければ、移動は出来ないということだ。
上司も私もその術を使えない。よって、セルゲイ隊長に掴まって移動する。
「あれれぇ? なんだかおかしな雲行きになってきちゃったりしちゃったり……?」
「だなぁ、なんだかとんでもないお家騒動に発展か?」
不意に魔法陣が現れ、それと同時にセルゲイ隊長がやってきた。
ナディア様が歩み寄り、呑気な様子のセルゲイ隊長へ促した。
「セルゲイ、貴方ちゃんと事の経緯を説明してくださいな」
「経緯も何も、団長始め俺たちが、アンジェを王宮や宮廷なんかに披露するわけがない。それこそゲオルク隊長に殺されるわ」
その場にいる全員が、なぜかホッと安堵の息を漏らす。
え? なんで? なんでそこにパパンがでてくるの?
「大体、俺やフランツが、噂にのぼるような下手を打つわけがないだろ?」
「な~るほど、ワープなんかもそのためね?」
そこでセルゲイ隊長が、ルロイに肯定のウインクをする。
さらにルロイがほくそ笑みながら、心底愉快そうに予想を告げた。
「だけどその男爵も阿保だよね~。今頃、誰よりも怒らせたらヤバイやつが、寝首をかくよう静かに待ち受けてるんじゃないの?」
誰もが同一人物を想像したのだろう。
ごくりと唾を飲み込む音が響く。
「え、誰?」
と聞き返す私の言葉をルロイは無視して話を続けた。
「当然、フレデリックのところにも形相でやってくるだろうけどぉ」
「ということで、こっちは何の問題もなし。そっちは知らんけど」
「まぁそうだよね~。フレデリックも良い大人なんだし、そのままお付き合いしてみたら~」
「「「冗談じゃない!!!」」」
侯爵家の方々が同時にハモっておられますが、もう話は終わったとばかりに、セルゲイ隊長が話を強引に変えた。
「祖父さん、アンジェのタンゴは聞いた?」
「ん? あ、あぁ」
「どうも委縮した音しか鳴らないんだよなぁ。だからソロの面白みが全くない」
久々に手ひどく酷評されましたよ、転生後初かも。
でも実際にその通りだから、ぐうの音もでませんけれど。
「リフを崩さず、その枠の中で自由に弾きゃいいって言ってるんだけどなぁ」
「そうなんだけど、この三-三-二拍子がどうにも捕まえられないんだもん。大体セルゲイ隊長が毎回リフを変形させるから」
「だからぁ、お前は難しく考えすぎなんだって。ノリと勢いで弾けって」
不貞腐れ気味に口を尖らせ文句を吐き出せば、合点がいったとばかりにヴォルフ様が笑いだした。
「はははっ。なるほど、難しくさせたのはコイツだね、アンジェ」
「は? なんで俺!?」
「毎回違った旋律をノリと勢いでぶち込んできたんだろ」
正解だったので、大きく何度もうなずいた。
さらにヴォルフ様が予想を告げるから、ずっと頷きながら捲し立てる。
「その掛け合いが、ビューロ公爵はできるんだね?」
「それはもう阿吽の呼吸で、夫婦か! ってレベルで。あ、違った姫君だったぁ」
「あははっ。これは相当な強敵だな。聴いてみたいねぇ、彼の演奏を」
ヴォルフ様は、そこでなぜか心配そうにフレデリックを見た。
釣られて私もフレデリックを見た。
ご両親に怒られ、項垂れる姿が見える。
視線を感じたのか、ふいにフレデリックがこちらを振り返り目が合った。
だけど今日はなぜか視線が絡むことを避け、私から意図的に目を逸らす。
「アンジェ……」
わからない。わからないけど、私を呼ぶその声を無視した――




