2主よ、人の望みの喜びよ
Johann.S.Bach 作
『目覚めた瞬間、全てを思い出した。
あぁ、なぜこんなにも大切なことを忘れてしまっていたのだろう……』
仰向けのまま両手を目の前まで挙げ、その小さな手を眺め見る。
ザラつき豆だらけな手指はいわゆる剣ダコで、それは今代が騎士爵の子な証であった。
アンジェリク・ローレン。
王国騎士団、第十騎士隊隊長・ゲオルク・ローレンの子。
元騎士団員の母であるアヴァと、歳の離れた兄エリックの四人家族だ。
僅かに青みがかった空色鼠の銀髪と、パライバトルマリンを嵌め込んだようなネオンブルーの瞳。
体格の良い両親の遺伝子からするととても小柄であり、鍛えている割に筋肉もほとんどない。
誰彼をも魅了する容姿ではあるものの、そんなもの騎士の子女には意味がなかった。
騎士爵とは、その名の通り騎士階級に由来する栄誉称号で、世襲権を持たない準貴族である。
なので領地はなく、王都に広々とした邸宅を与えられる。
前世で言うところの、二十三区外・首都圏の一等地に豪邸がもらえる。といった具合だ。
けれどその邸宅地も世襲できないため、騎士爵の子女たちは騎士になるよう幼少より鍛えられる。
騎士爵を叙任されるには、王国騎士団に入団すれば良い。
だがそれは爵位を与えられることからも分かるように、かなりの難関であり倍率も高い。
つまりそんな難関を勝ち抜いたエリート軍団ということだ。
王国騎士団は十隊に分かれており、十人の隊長と副隊長、その下に各隊百名ほどの隊員、そしてその全てを取りまとめる騎士団長で構成される。
十歳で入団試験の受験資格が与えられるが、その年齢で受かった者は未だおらず、最年少合格者は十二歳だと言う。
大半が王都の騎士学校を卒業する十五歳で試験を受け、それでも何度か不合格になる。
そして兄のエリックは既にその難関を突破し、数年前に入団を終えて居る。
それでも騎士という危険と隣り合わせな職業柄、我が家の騎士爵継続は安泰と言い切れない。
だから兄のスペアとして、数年後の入団試験を受けることが義務と化している。
そして兄に稽古を付けてもらううち、思い切り頭に打撃を受けてしまった次第である。
ヒリヒリとする額に手を当てた時、息を飲む音の後、少年の声が掛けられた。
「アンジェ!」
深く燻されたような紺鼠色の髪に、柔らかな浅葱鼠の瞳。
角度によって深みを増すその瞳が、アンジェを覗き込みながら不安気に揺れていた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい……」
「何を言うんだ。謝るべきは僕の方でマイスイートアンジェは一切悪くなんてないんだよ」
そう言うが早いかアンジェリクの手を取り、その甲に唇を落として大きく嘆息する。
既にお分かりだろうが、エリックは自他共に認める、正真正銘のシスコンである。
さらに、騎士団合格を果たした実力の持ち主だ。
だから年の離れた愛しい妹に対して、寸止めができないはずがない。
それなのに、エリックがアンジェの頭へ一撃を入れてしまったのはなぜか?
音が聴こえたのだ。
有るはずもないピアノの音が、身体を取り囲むように突然大音量で鳴り響き出したが為、流石のエリックも対応できなかった。
そう、あるわけがない。
今世は前世よりも、数百年ほど文明が遅れた世界だった。
移動手段は馬車であり、電気やガスなどというものも無い。
その代わりに前世ではなかった生活魔術が発達しており、火も水も風も魔道具を使った。
また、魔物・魔獣も居る。
前世では架空のファンタジー的な存在であったドラゴンやスライムなども、今世では普通に存在した。
ゆえに騎士団は、他国との諍いを主とする対人間の隊と、魔物魔獣を討伐する隊に分かれている。
それでも父ゲオルクが率いる第十騎士隊は、国境警備の国防隊として配置されており、王国に攻め入る他国の人間と王国に入り込む魔物の討伐も兼ねた部隊だ。
だから(公には)滅多に、父が邸宅へ帰宅することがなかった。
いわゆる単身赴任というやつだ。
けれど母もまた元騎士団員だったため、父の(公の)不在は当然だと割り切っている。
よって家庭不和もなく、立派に我が家を守って居た。
きっと後で思い出すはず。
『公には』
大事です。公と書く言い訳。
逆に兄エリックは、設備の整った騎士団寮には住まず、毎日ちゃんと帰宅する。
何番隊に所属しているのかも、どんな任務に就いているのかも機密だと言って教えてくれないけれど。
そんなこんなで当然だが、両親ともに騎士であるローレン家にピアノなど有るはずがない。
有るのは屋室内外の訓練場と、無造作に樽へ突っ込まれた使い古しの剣だけだ。
そこでアンジェリクは小遣いで一枚板を買い、その木を彫った。
前世の記憶を思い出してからは、体に染み付いたピアノの全てを手繰り寄せるように懸命に彫った。
そして触れても凹んではくれないが、寸分違わぬ大きさの鍵盤もどきが出来上がった。
ピアノの音は、耳が、指が、覚えている。
こう弾けば、こう奏でられる。
きっと今なら夜の女王ではなく、楽しげなワルツを奏でられる気がした。
だから寝る暇を惜しんで、板ピアノを弾いた。
脳内に響き渡る美しいピアノの音色。
けれど板を叩けば叩くほど欲が出て、本物に触れ、恋しい音が聴きたいと願った。
そんな元気のないアンジェリクを心配したエリックが、彼女を抱き上げ、互いの額を合わせながら問う。
そこでどうにもならない想いを、大好きな兄へ漏らした。
「ピアノが弾きたいの……」
エリックはアンジェの陰る瞳を覗き込みながら数秒思案したのち、閃いたとばかりに言い出した。
「教会になら、似たような楽器があるんじゃないかな?」
そんなエリックの言葉にハッとした。
(オルガンか! そうだよ、そうだ! 教会といえばオルガンじゃん!)
◆◇◆◇◆◇◆
「チェ、チェンバロさまだぁーーー!」
金色に縁取られた響板に、美しい絵が描かれた蓋とゆったりとしたカーブを描く猫足。
華美な装飾を施された、二段鍵盤楽器がそこに有った。
余談だが、同じ鍵盤楽器でも、ピアノとチェンバロは似て非なるものだ。
弦を打つピアノと弦を弾くチェンバロ。
大きなカテゴリで分けるとすれば、ピアノは打楽器に近く、チェンバロはギターなどと同じ撥弦楽器となる。
因みにオルガンもまた鍵盤楽器ではあるが、こちらも上記のどちらとも異なる管楽器だ。
さらに因みにチェレスタも以下同文の楽器で有る。
前世の音大時代に、研究課題としてチェンバロを弾いたことがある。
その程度の知識しかないが、それでも鍵盤楽器に今世でも出会えたことに感謝した。
引き寄せられるようにフラフラと近づき、頬ずりしたいのを堪え、チェンバロから放たれているであろう匂いを吸い込む。
鼻の穴を広げて深呼吸を繰り返す姿は、変態加減満点だ。
聖女さまに許可を経て、そっとチェンバロに触れた。
ピアノよりも軽い、弦を弾く音がポロンと鳴った。
「くぅぅぅぅ〜〜〜〜っ」
背中を丸め、ジタバタと足踏みを繰り返しながら久々に聴くその音色に興奮する。
そんなアンジェリクを見て優しく微笑むエリックは、アンジェリクの前髪を掻き揚げ、額に口付け囁く。
「許可は得ているよ。思い切り弾いてごらん」
更紗の中で、チェンバロ曲といえばバッハ様だった。
さらに教会カンタータのコラールであるこの曲を選んだ。
得意とは言い難いチェンバロで、どれほどぶりかも分からないほどの時を経て奏でるには、最適な選択であったはずだ。
けれど今思えば、これが神の導きだったのではないかと思う。
聖女もエリックも、驚きに目を見張っていた。
気を取り直した聖女が、アンジェリクに問う。
「ア、ア、アンジェちゃん…どこでチェンバロを習ったの?」
「チェンバロは習ってません。それに鍵盤に触れたのが久しぶりだから下手でした」
「久しぶり?」
怪訝な顔で問い返す聖女の言葉を跳ねのけるように、エリックがアンジェリクを抱き上げ回り出す。
「僕には音楽の知識が無いからどう褒めて良いのか分からない。それでも、我がスイートハニーが奏でるその音色で心に潤いを感じたよ」
「お兄ちゃんっ!」
その兄妹の姿は、礼拝堂天井画のようだった。
「こ、この美しい兄妹絵図を絵画にして教会の天井に飾りたい……」
聖女が二人を拝みながら呟くが、それを遮るようにアンジェリクが言い出した。
「でも、やっぱりピアノが弾きたいなぁ」
「それならアンジェも一緒に王都へ行く?」
「あ! そうですね! 王都の教会ならピアノがあるかもしれません!」
聖女はナイスアイデアだと喜んで送り出してくださいましたが、これがエリックの工作だと知るのは、かなり後になってからなのであった。




