1(後)ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 「葬送」
Fryderyk.F.Chopin 作
運命の時が来た――
セシル様を生み出した、国際ピアノコンクールに出場するため、開催国である欧州へ飛ぶ。
万を期して挑んだ夢の舞台で、日本人初の快挙となるファイナルまで漕ぎ着けた。
ファイナル出場者は十名。
全員が他のコンクールやメディアで見知る、つわものだ。
そこにはいつも私と比較される、フランチェスカ・フープも居る。
私の『夜の女王』に対する、彼女の二つ名は『妖精姫』だ。
長くふわふわとウエーブするストロベリーブロンドに、煌めくアースアイ。
淡い色のドレスに身を包み、音を奏でるその姿は、紛れもなく妖精だと思う。
うむ。めっちゃ可愛い。
漆黒と淡髪。
ストレートロングにウエーブロング。
ダークドレスにパステルドレス。
あらゆるものが対極なため、こういった要素は比較対象として持ち上げやすいのだろう。
だからファイナルが決まった時のニュースは、『女王と姫、因縁の対決!』だなどと紙面を飾った。
けれど私と彼女に因縁など微塵もない。
言葉を交わしたことすら一度もないのだから。
課題曲を次々と熟し、拍手を受ける。
衣擦れの音、咳の音、そんな微量な音ですら、緊張から心を乱す音に代わる。
顔が熱い。指が震える。
それでもひとたび鍵盤へ触れれば、自分だけの世界が訪れ、何も怖くなくなった。
ピアノソナタ第二番、変ロ短調 作品三十五番。
叙情的で激しく、甘美的で麗しい、そんな二つの主題が混ざり合った独創的な曲。
第二主題が思うように奏でられず、苦戦を強いられた曲でもある。
最後の和音を弾き終え、そっと息を吐く。
終わった。私の挑戦が今、終わった。
そこで自分だけの世界が閉じ、現実がやってくる。大きな大きな喝采を伴った現実が――
準優勝だった。
妖精姫ことフランチェスカが、夥しいフラッシュを浴びながら、美しい涙を讃え乍ら表彰される横で、茫然と拍手する。
それでも前を向き、脳裏が敗因をぐるぐる探し続ける。
私は一方的にどうにもならない憤りを打つけていただけで、相棒と相思相愛じゃなかったから。
そうだ。私の原点はセシル様だ。
悔しかった。負けたことにではなく、セシル様のようにピアノを愛してあげられなかったことに。
セシル様のように、聞く者皆を幸せにすることができなかったことに。
堪らなく、我が相棒に会いたくなった。
日本で待っている、私の相棒に会いに行こう。
何度も何度も、セシル様のようにモーツァルト様を弾こう。
逸る心は送迎を拒み、足取り軽く異国の道を走る。
背後から、急激に加速し迫る車に気づかないまま
◆◇◆◇◆◇◆
大きな衝撃と共に宙を舞い、痛みすら感じることなく地に叩き落ちる。
そこで目にした最後の記憶は、なぜか妖精姫フランチェスカの歪み嗤う顔だった。
あぁ、ピアノの神様、セシルさま……
ごめんなさい。
こんなにも恵まれた環境でピアノに触れられていたのに。
ごめんなさい。
ずっとずっと気がつけなくて。
もし生まれ変わることができたのなら、どうかまたピアノを弾けますように。
ピアニストになれなくて構わない。
けれど今度こそは間違わず、ピアノを愛し、セシル様のように、皆を幸せにする弾き手になると誓います……
こうして藤井更紗の世界は、敬愛するショパン様の故郷にて幕を閉じた――




