10 クライスレリアーナ 作品16の第7曲
R.A.Schumann 作
人払いをさせた大公閣下は、静かに語り始めた。
「私はね、召喚者なんだよ。自宅でピアノを弾いていたら、いきなりピアノと一緒にこの世界へ来てしまったんだ」
「ピアノと一緒にですか? あのピアノと?」
「そう。あのピアノ」
そう言いながら相棒を見る。
「私の婚約者がピアニストでね。あれはその彼女のピアノなんだ」
「え?」
私に婚約者が?
否、違う。
ベヒシュが我が相棒になる前は、セシル様のピアノだ。
つまりそれは……(※プロローグ参照)
「大好きな可愛いピアニストがいてね。彼女のことを動画で知ったんだ。ご両親が成長の一旦として誇らしげにSNSへ投稿していた。で、二人で一目惚れ」
そう言って私にウインクをする。
どうでもいいが、白髪イケオジのウインクは破壊力がある。
おじさま萌え。
「黒髪黒目の華奢な素晴らしい美しさだったのさ!」
黒髪のピアニスト……アリス様かしらローラ様かしら……
「だけどその夢は叶わなかったんだ。彼女は若くして死んでしまったから」
「そうだったんですね」
「起伏の激しい曲ってあるじゃない? ありったけの怒りを思い切りぶつけてくるようなさ」
「あー、はい」
「彼女はその手の曲を弾かせたら右に出るものはいなかったんだよ。だから付いた二つ名があって」
嫌な予感がする。
「…まさか夜の女王とか……」
「おお! アンジェも知ってる? サラサフジー」
一瞬考えてしまいましたが、それはまごうことなく前世のワタクシですね?
藤井更紗だから。
ヤダそんな外国人っぽい発音で、そんな呼び方したら、逆さ富士みたいじゃん。やだやだ!
けれど大公閣下のお話はどこまでも続く。
「長い黒髪が激情に揺れて、その横顔はまるで面のようでさ。なんだっけ、ほら、あ! ハンニャ~!」
「あ?」
思わず大公閣下相手に鋭いツッコミを入れてしまったけど、不敬で捕縛されたりしないですよね?
ていうか、何この羞恥プレイ。
もう穴があったら埋まって出て来たくないくらい聞きたくないんですが、最後の般若の呼び方が、猫みたいで可愛かったのでもうちょっと聞いてあげても良いですよ。
「画面を通さない出会いが別れの日だったんだよ…彼女はその日、事故で亡くなったんだ」
あぁ、とても嬉しい。私の死を惜しんでくださる他人がいたことに。
ネガティブなピアノしか弾いてこれなかった私の音を、好きだったと褒めてくださる方がいたことに。
「で! 彼女が亡くなった後、ご両親からピアノを返却してもらったんだ。彼女とサラサの形見だからね」
閣下がそうやって大切にしてくれたから、こうやって世界も時も何もかもを超えて相棒に出会えた。
この喜びと感謝はどう言葉に表しても足りないと思う。
何やら私を見ながら時を止め、考え事をしていた閣下が、はたと気づいたように言い出した。
「アンジェ、クライスレリアーナの第七曲を弾いてくれるかい」
「シューマン様の?」
すると閣下はなぜかこう断定する。
「うん。サラサが得意な曲だったんだ」
閣下の言う彼女が、『サラサフジー』を指すのなら、はっきり言おう。得意じゃございません。
こういう早弾き技巧曲は盛り上がるからと、主催者側から宴曲指定されることが多かったんですよ、単に。
まぁ、ショパン様やベートーベン様、そしてトラウマナンバーワンなリスト様の技巧曲も多く指定されましたけれど。
でも今の練習不足かつ十歳な指では、ミスタッチだらけで聴けたものじゃないと思われ……
ロベルト・シューマン作、全八曲からなるピアノ幻想曲集のクライスレリアーナ。
愛する人への想いを募らせた曲であり、正確なタッチと描写を求められるため、演奏家の力量をそのまま鏡のように映し出す恐ろしい曲で有名だ。
その中でも第七曲は、激しいアルペッジョの下降音型が繰り返される。
何度も言いますが、このちっさなおててで、満足に弾けるわけがないんだっつうの!
「マゼッパって言われなかっただけ、有難いと思ってよ」
「うっ、マゼッパやだぁ……」
「でしょ?」
イケオジだけど少年のような、揶揄う瞳の閣下に無茶振りを言い渡されました。
が、がんばります……




