旅立ちの扉と最初の朝
助けを求める一人の老人の、切実な願い。
創造神という途方もない存在を前に、俺の心は決まっていた。
それは介護福祉士として、一人の人間として、あまりにも自然な反応だった。
「分かりました」
俺は真っ直ぐに神の瞳を見つめ返し、深く頷いた。
「ですが、お願いされたからやるのではありません。目の前に助けを必要としている方がいる。だから、俺がやりたいんです。させてください」
俺の言葉に、神は深淵のような瞳をわずかに見開いて、虚を突かれたような顔をした。
そして、何かを噛みしめるようにゆっくりと瞬きをすると、ふっと口元を緩め、静かに頷いた。
こうして、神域の黄昏の図書館で、創造神の介護――俺の最後の仕事が始まった。
◇
どれほどの時間が過ぎたのか、この黄昏の世界では時間の感覚が曖昧だった。
俺はまず、神の話をじっくりと聞くことから始めた。
世界の始まり、星々を創り、生命を育んだ時の喜び。
自らが創った者たちが知恵をつけ、文明を築いていく様を見守る楽しさ。
壮大な創世の物語は、やがて永い時の流れの中で、少しずつ孤独の色を帯びていく。
神を敬う者はいても、対等に話をする者はいない。
誰からも忘れられ、ただ世界を維持するためだけに摩耗していく、永劫の孤独。
それは、壮大な叙事詩から、誰にも届かない老人の愚痴へと変わっていった。
俺は、ただひたすらに耳を傾けた。
相槌を打ち、時に質問を投げかけ、神の言葉と、その奥にある感情に寄り添い続けた。
介護の基本――傾聴と受容。
それは、相手が神であっても変わらなかった。
「……ふむ。お主は、聞き上手だな」
ある時、ぽつりと神が呟いた。
最初は途切れ途切れだった言葉は、いつしか堰を切ったように溢れ出し、神の表情から険しさが少しずつ消えていくのを、俺は感じていた。
対話の合間には、身体のケアも行った。
「少し失礼します。楽にしてください」
そう断りを入れ、神の肩に触れる。
永劫の時を独りで支えてきたその身体は、まるで石のように凝り固まっていた。
俺は介護士として培った知識と技術のすべてを注ぎ込み、ゆっくりと神の身体をほぐしていく。
筋肉の流れを確かめ、的確にツボを捉え、固着した関節を慎重に動かしていく。
「ん……むぅ……」
最初は驚いていた神も、次第にその心地よさに身を委ねるようになり、やがて言葉にならない安堵のため息を漏らすようになった。
そんな穏やかな日々が続いていたある日、マッサージを終えて一息ついていると、神が不意に口を開いた。
「相川陽よ。お主のような男が、このまま魂だけで終わってしまうのは、あまりに惜しい」
「え?」
「わしが創った別の世界で、もう一度、生きてみてはどうだ? 新しい肉体と共に、新たな人生を授けよう。お主さえ、それを望むのであれば」
思いもよらない提案に、俺は言葉を失った。
新しい人生。
それは、一度死んだ俺にとって、あまりにも実感の湧かない言葉だった。
だが、もし本当にそれが許されるのなら――。
「……もし、本当に生きられるというのなら。その世界のことを、知っておきたいです」
俺の答えを聞くと、神は満足そうに頷いた。
その日から、俺の日常に新しい習慣が加わった。
神の相手をする合間に、この黄昏の図書館の膨大な書物を読み漁るのだ。
神に異世界の言語を基礎から教わり、歴史、地理、文化、そしてそこに住まう様々な種族についての知識を、スポンジが水を吸うように吸収していった。
そして、旅立ちの時は来た。
俺との日々によって、神の表情には出会った時のような険しさは無く、穏やかな光が戻っていた。
図書館全体も、気のせいか以前よりずっと明るく感じられる。
「お主には、心から感謝している。この礼だ。受け取ってほしい」
神がそう言うと、俺の身体が淡い光に包まれた。
「お主の優しさと技術に、ふさわしい形を与えよう。一つは、他者を癒す願いの形、癒やしの手。一つは、他者を理解する心の形、共感。そしてもう一つは……より多くの者を救いたいと願う、お主の献身の形、分身だ」
温かい光が身体に満ちていく。
力が、俺という人間の本質に、新しい名前を与えられたようだった。
神はにこやかに続ける。
「新たな世界で夢を追うには、頑健な肉体が必要だろう。人生で最も希望に満ち、気力も体力も充実していた頃の姿が良い」
神が指を鳴らすと、目の前に静かな水鏡が現れた。
水鏡に映っていたのは、病にやつれた四十三歳の俺ではない。
黒々とした髪、肌には張りがあり、瞳には力が宿っている。二十代半ばの、若々しい自分の姿だった。
「これは……」
俺が驚いていると、目の前に光り輝く扉が現れた。
旅立ちの時が来たのだと、直感で理解した。
「達者でな、友よ」
すっかり元気を取り戻した神は、穏やかな笑顔で俺を見送った。
いつの間にか、俺たちは介護者と利用者ではなく、友になっていた。
「お主の歩む道が、優しさで満ちていますように」
「こちらこそ、本当に……ありがとうございました」
俺は、深く、深く頭を下げた。
そして、扉へと向かおうとして……ふと足を止め、神様を振り返った。
「あの、神様。もし、またお辛い時や、誰か話し相手が欲しくなった時は……いつでも俺を呼んでください。どんな場所にいても、駆けつけますから」
それは、介護士としてでは無く、俺の心からの言葉だった。
俺の言葉に、神は一瞬きょとんとした後、嬉しそうに目を細めて、くつくつと喉の奥で笑った。
「ははは、ありがとう、友よ。その言葉だけで、もう幾千年かは健やかでいられそうだ。だが、そうだな……」
神は悪戯っぽく片目をつむいだ。
「案ずるな。お主が向こうの世界で創るであろう……そう、陽だまりのような温かい場所に、ふらりと顔を出すかもしれんぞ。ただの散歩好きの爺さんとしてな」
その言葉の真意は、まだ俺には分からなかった。
だが、その優しい冗談が、俺の心を温かくした。
「ええ。いつでも、お待ちしています」
俺も笑顔で応え、今度こそ、光の扉へと向き直った。
扉の向こう側からは、生命の息吹に満ちた、温かい風が吹いてくる。
俺は期待と少しの不安を胸に、新たな世界へと、力強い一歩を踏み出した。
◇
光に包まれる感覚が薄れていく。
代わりに、湿り気を帯びた土の匂い、頬を優しく撫でる涼やかな風、どこか遠くで響く知らない鳥のさえずりといった、五感の情報が洪水のように意識へと流れ込んできた。
俺――相川陽は、ゆっくりと瞼を開ける。
視界に広がっていたのは、鬱蒼と茂る木々の緑と、その隙間から見える白み始めた空だった。
そして、その空には、大きな月と、それに寄り添うような小さな月の、大小二つが浮かんでいた。
ここが、神様の言っていた「新しい世界」なのだと、頭ではなく魂で理解した。
ゆっくりと、地面に手をついて身体を起こす。
病床ではあれほど重く、他人の身体のように感じられた手足が、今は嘘のように軽く、意のままに動いた。
ただそれだけのことに、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
「……動く、な」
ぽつりと呟き、立ち上がる。
ふと、自分が着ている服が、病院で着ていた寝間着ではないことに気づいた。
簡素だが丈夫そうなシャツとズボン、そして革のブーツ。
動きやすい旅人の服装だ。
そして足元には、同じように革で作られた背嚢が一つ、静かに置かれていた。
まずは状況を把握しなければ。
喉がカラカラに乾いていることに気づき、耳を澄ます。
近くから聞こえる、か細いせせらぎの音を頼りに、おぼつかない足取りで歩き始めた。
少し歩くと、木々の開けた場所に、陽光を弾いてきらめく小さな泉があった。
ためらうことなくその泉に膝をつき、両手で水をすくう。
指の隙間から零れ落ちていく透明な雫。
自分の意思で、こうして水をすくうという当たり前の行為が、今は奇跡のように感じられた。
ゆっくりと水を口に運ぶ。
ひんやりとした命の水が喉を潤していく感覚に、俺は思わず目を見開いた。
(ああ……生きているんだ、俺は……)
自由に動く身体がある。
五感が、世界を鮮明に伝えてくる。
その一つ一つが、とてつもなく愛おしかった。
渇きが癒え、ふと顔を上げると、穏やかな水面に一人の青年が映っていた。
病にやつれた四十代の男ではない。
肌には張りがあり、黒々とした髪は艶やかで、その瞳には力が宿っている。
神様の所で一度見てはいたものの、この世界の陽光の下で見る自分の姿は、より一層の現実味を帯びていた。
(中身は四十三歳のおっさんなんだがな……)
意識と肉体の大きなギャップに、思わず苦笑が漏れた。
泉のほとりで一息つき、俺は持ってきた背嚢をゆっくりと開けた。
中には、替えの服が数着と、ずしりと重い革袋、そして一枚の羊皮紙が入っていた。
革袋の口を開けると、見慣れない意匠が刻まれた、金、銀、銅の硬貨が数枚ずつ入っている。
(これが、交易共通硬貨……通称『交貨』か)
神様の世界で学んだ知識だ。
当座の生活費に困らないだけの額はあるだろう。
神様の細やかな心遣いに、胸が温かくなる。
次に、羊皮紙のメモを広げた。
そこには、少し癖のある、だが優しい文字が並んでいた。
『中には着替えと当座の金を入れておいた。身体も、新しい世界で動きやすいように少しばかり丈夫にしておいたぞ。この森を抜ければ、すぐに街がある。簡単な地図も添えておくから、それを頼りにするといい。新しい人生、お主らしく、楽しんでくれ』
羊皮紙の隅には、簡単な森の出口と、そこから街へと続く道が描かれている。
そして、文面の最後には、こう追伸があった。
『追伸。名前には気をつけるように、な』
「名前……?」
どういう意味だろうか。
首を傾げたが、今は考えても仕方がない。
神様の忠告として、心にしっかりと留めておこう。
俺は性分なのか、頭の中の情報を整理し、これからの短期目標を組み立てる。
『情報収集』『安全確保』『生活基盤の確立』
そのために、まずはこの地図が示す街を目指す。
決意を新たに、俺は力強く森の中を歩き始めた。
神様が「少しばかり丈夫にしておいた」と言っていた身体の能力は、まさに驚異的だった。
疲れという感覚がほとんどなく、まるで獣のように軽い身のこなしで、森の中の障害物をひらりひらりと越えていく。
道中、見たこともない色鮮やかなキノコや、発光する苔、不思議な鳴き声の小動物に驚かされながらも、着実に前へと進んでいった。
数時間ほど歩いただろうか。
不意に視界が開け、木々の切れ間から、陽光を反射して輝く巨大な壁が見えた。
「……街だ」
思わず、安堵の声が漏れる。
遠目にも分かるほどの巨大な城壁と、その内側にそびえるいくつもの尖塔。
間違いなく、人が築いた文明の証だ。
目的地が見えたことで、足取りはさらに軽くなった。
やがて森を完全に抜けると、きれいに整備された石畳の街道に出た。
そこでは、ちらほらと他の旅人や、山のような荷を積んだ荷馬車の姿が見える。
俺は他の旅人たちの邪魔にならないよう道の端を歩きながら、ついに街の巨大な正門にたどり着いた。
見上げるほどに巨大な石造りの門。
その両脇では、物々しい鎧に身を包んだ屈強な衛兵が見張りに立っている。
そして何より、俺の目を釘付けにしたのは、その門を行き交う人々の姿だった。
(すごい……本当に、いるんだな)
人間だけではない。
ピンと立った獣の耳に、ふさふさの尻尾を生やした男。
すらりと伸びた尖った耳を持つ、美しい女。
小柄だが屈強な体つきをした、豊かな髭の男。
神様の世界で本を読んで知識としては知っていたが、獣人、エルフ、ドワーフといった様々な種族が、ごく当たり前のように人間と肩を並べて歩き、言葉を交わしている。
その光景は、俺が本当に異世界に来たのだという事実を、何よりも雄弁に物語っていた。
圧倒されながらも、俺は人の流れに乗って門をくぐり、近くにいた衛兵に声をかけた。
「すみません、この街の名前を教えていただけますか?」
声をかけられた衛兵は、俺の顔をちらりと見ると、少し面倒くさそうに、だが親切に答えてくれた。
「ん? ああ、ここは商業都市エアストだ。旅人さんかい? 何か困ったことがあったら、広場の先にある冒険者ギルドに行くといい」
「エアスト……ありがとうございます」
これから始まる、新しい生活。
期待と少しの不安を胸に、俺は活気に満ちた人々の喧騒の中へと、その第一歩を踏み出した。




