2. 絶望の始まり ~呪われた身体と贖罪の痛み~
アレクシスが目を覚ましたのは、見慣れた石の天井の下だった。
いや、「見慣れた」というのは正確ではない。この天井を見上げるのは、いつも妹に暴力を振るった後、征服者のような満足感に浸りながら立ち去る時だけだったのだから。
薄暗い。窓から差し込む光は、鉄格子に切り刻まれて、床に哀しい縞模様を描いている。
「……なんだ、これは」
声が違う。自分の声ではない。か細く、掠れた、まるで長い間使われていなかった楽器のような声。
起き上がろうとして、アレクシスは凍りついた。
腕が、細い。いや、細いなどという言葉では表現できない。骨と皮だけの、枯れ枝のような腕。青黒い打撲の痕が、まるで呪いの紋様のように手首に残っている。
そして何より恐ろしいのは、この圧倒的な無力感だった。まるで全身を鉛で満たされたような、身動き一つ取るのも億劫な倦怠感。
「嘘だろ……」
震える手で顔に触れる。小さな顎、頬骨の浮き出た輪郭、そして肩まで伸びた長い髪。絡まり、艶を失った髪が、指の間からするりと落ちる。
「リリアナ……? 俺が、リリアナに……?」
その瞬間、重い扉が乱暴に開かれた。錆びた蝶番が、耳障りな悲鳴を上げる。
「おい、忌み子! いつまで寝てやがる!」
粗野な使用人――グスタフ。下級使用人の中でも特に品のない、髭面の大男だ。その顔に浮かぶ嫌悪と侮蔑の表情に、アレクシスの中で何かが弾けた。
「グスタフ……貴様……!」
怒りが全身を駆け巡る。この下賤な男が、自分を見下している。自分を――公爵家の長男であるアレクシス・フォン・ローゼンベルクを!
グスタフは、パンと水を床に投げつけた。硬いパンは埃まみれの石床を転がり、水の入った木の器は勢いよく倒れ、中身の大半が冷たい床に広がっていく。
「さっさと食え。お前みたいな穀潰しに、これ以上はやらねぇからな」
「貴様ああぁぁ!」
アレクシスは立ち上がろうとした。この無礼な下郎を、今すぐ叩きのめしてやる。いつものように拳を振り上げ、その醜い顔面を――――。
だが、身体が動かない。
立ち上がることすらできない。痩せ細った脚は震えるばかりで、まるで生まれたての子鹿のように頼りない。それでも怒りに任せて身体を起こそうとした時だった。
グスタフの太い脚が、容赦なくアレクシスの腹を蹴り飛ばした。
ぐほっ!
息が詰まる。内臓が押し潰されるような激痛。アレクシスは床に転がり、胃液を吐き出した。
「へっ、忌み子の分際で生意気なんだよ」
グスタフは鼻を鳴らし、唾を吐きかけた。それは見事にアレクシスの頬に当たり、生温かい感触が不快に肌を濡らす。
「大人しくしてろ。でなきゃ、もっと痛い目に遭わせてやる」
重い扉が閉まる。鉄の音が、墓標のように響いた。
アレクシスは床に這いつくばったまま、震えていた。
屈辱。
こんな屈辱があるか。下級使用人に蹴られ、唾を吐かれ、それでも何もできない。
「くそ……くそっ! くそおおおぉぉぉ!」
拳で床を叩く。だが、その拳はあまりにも軽く、力なく、ただ自分の手を痛めるだけだった。
これが、リリアナの現実。
魔力を持たず、身体も弱く、誰からも蔑まれ、虐げられる日々。反撃することも、逃げることもできない、絶対的な弱者の立場。
そして突然、全身を稲妻のような激痛が貫いた。
「ぐあああぁぁぁ!」
骨という骨が軋む。内臓が炎に包まれたように熱い。血管を溶岩が流れているかのような、想像を絶する苦痛。
頭の中に、謎の声が響く。
『運命への介入には、代償を――』
「ふざけるな! ふざけるなああぁぁ!」
アレクシスは絶叫した。怒りと痛みと屈辱が入り混じった、魂の慟哭。
「なぜだ! なぜ俺がこんな目に! 俺は選ばれし者だ! 公爵家の長男だ! 最強の魔力を持つ騎士だ!」
だが、いくら叫んでも、現実は変わらない。
今の自分は、忌み子リリアナ。
誰からも愛されず、誰からも必要とされず、ただ生きているだけで疎まれる存在。
「ちくしょう……ちくしょおおぉぉ……!」
涙が溢れた。それは怒りの涙か、悔しさの涙か、それとも――――。
床に散らばったパンを見つめる。カビの生えた、犬も食わないような代物。こぼれた水は、もう石の隙間に吸い込まれて、取り戻すことはできない。
喉が渇いている。腹が減っている。でも、プライドが許さない。こんなものを――――。
だが、身体は正直だった。震える手が、勝手にパンへと伸びる。
「やめろ……やめろ!」
自分に言い聞かせる。だが、生存本能には逆らえない。
硬いパンを口に運ぶ。歯が立たないほど硬く、カビの味が口いっぱいに広がる。それでも、飲み込まなければ生きていけない。
惨めだった。
これほどまでに惨めな気持ちを、今まで味わったことがあっただろうか。
「リリアナ……お前は……」
十一年間。
妹は、こんな地獄を十一年間も――――。
アレクシスは、パンを握りしめたまま、声を殺して泣いた。怒りと屈辱と、そして初めて芽生えた「理解」の感情に、心が引き裂かれそうだった。