序章
8月15日はある人物の誕生日であり、この国が敗北した日でもある。
2週間前の8月1日に24の誕生日を迎えること無くこの世を去った人物------撃墜王 羽鳥文彦。
太平洋戦争末期に活躍したエースパイロットで著者の実祖父である。
羽鳥は太平洋戦争開戦後に実戦にたった若手であったが、最終階級は大尉から二階級特進し中佐となっている。その為、羽鳥の墓には羽鳥文彦中佐と記されている。
この著書を執筆するにあたり、祖父の知り合いや戦友たちと会う機会を頂き羽鳥文彦という一人の男について知ることが出来た。
羽鳥文彦が亡くなったのは8月1日になっているが、正式なことは分かっていない。羽鳥は1日の出陣から未帰還となりその後の消息が一切分かっていないのだ。最後に羽鳥の姿を見たのは列機であった許斐飛曹長(現.旅客機パイロット)で、「我が隊長、羽鳥大尉が乗っていた機体の片翼から煙が出ていた。援護に向かおうとしたが、隊長が拳を振り上げ帰れと言っている様子であった為、戦闘を継続した」と、証言をしている。なので、羽鳥が撃墜されたのか現在では不明なままになってしまっている。だが、無線にて羽鳥が左機銃筒内爆発と報告しているため、機材トラブルにあっていたことは確かだ。
最期が不明な人ほど浪漫というものがあると私は考える。例えば源義経や織田信長など死体が無い偉人たちは、その生き様をタラレバで語ることが出来る。私は別に祖父のことを英雄として見ようとは微塵にも思っていないが、死に際が不明な人物ほど人を引き付けて離さないものがあるのではないかと考える。
あの時代、特攻で亡くなった思われていた人が数年後に帰ってくるといった事はよくあり親戚一同、数年は皆淡い期待を持っていたようだが、いつしか期待も無くなり戦友会との交流も一切取らなくなったようだ。
私が戦友会の方たちに連絡をとった際には、まるで私自身が芸能人にでもなったのではと思うほど多くの祖父の知り合いたちに囲まれ涙ぐまれる方も中にはいたが、羽鳥文彦直系の子孫がいることを知らなかったものたちもいたようで私自身のことを今誕生したかのように盛大にお祝いしてくれたことは記憶に鮮やかに残っている。
特に羽鳥が最期に所属していた部隊の井上玄太(故)、田上和馬(故)は数回しか会うことが叶わなかったが、羽鳥とその家族のことをずっと気にかけてくれていたことが分かり、とてもありがたかった。部下たちをわが子や弟たちのように見ていたことが2人との会話の中で垣間みて、羽鳥は上司に恵まれたのだなと感じた。
話は戻して、羽鳥文彦について後ほど掘りさげていくが彼が生まれたのは1921(大正10)8月15日、生まれは愛知県名古屋市昭和区で、家は江戸時代から続く名古屋城の城下町に構えた呉服屋で、当時では珍しい木造三階建ての家で次男として誕生した。
白粉を塗ったような白い肌をしており、幼少の頃から外を走り回り日焼けをすれば肌は赤くなり風呂に入ると痛いと泣き叫んでいたようだ。小さい頃から外で遊ぶことを好み、一つ下の妹田波琴子(旧羽鳥)の手を引いてよく木登りや川遊びをしていた。家の近くには市役所や県警本部、陸軍の駐屯地があり、大人達に可愛がってもらっていたようだ。その中で羽鳥が憧れていたのは警察官で、将来は警察官になることを夢みていたようだ。
羽鳥家本家にいる頃はそれなりに裕福な暮らしをしていたが、父たちが衝突する事態が発生し次男であった羽鳥一蔵は羽鳥たち家族を連れて熱田区へと引っ越して行った。羽鳥の人生は熱田区へ行ってからの方が長く、余談ではあるが、本家は名古屋大空襲の際に焼失してしまいその後、家の跡地に三女の百合子が家族と共に羽鳥家を継いでおり、熱田の羽鳥も過ごした家は改修工事がされ次女の琴子が住んでいる。
熱田区へ行ってから羽鳥の遊びは熱田神宮であったようだ。羽鳥の幼馴染の所崎斐蔵曰く、当時、周辺を縄張りにしていたガキ大将を引っ越してきた初日に潰してしまい、羽鳥本人は不本意だったようだが自動的に熱田区周辺の縄張りのトップになっていたようだ。
引っ越してきてすぐにトップに立つなんてどこのヤンキー漫画の主人公かと思うが、れっきとした私の祖父である。羽鳥は周りに比べ小柄な方で、幼少期は苦労することも多かったようだが、運動神経や頭がよく恵まれなかった身体を補う形で羽鳥は成長していったようだ。
羽鳥は中学の頃、文学の虜になる。それまで外で走り回ることが好きで、妹を連れて川に飛び込んだりして遊んでいた羽鳥が外に遊ぶより家にこもり本を永遠に読んでいた時期があったそうだ。その頃から兵学校へ入学するまでの間、兄妹たちの話では日記をつけていたそうだが部隊移動で本土を離れる前に燃やされたと言われている。もし残っていたら羽鳥文彦という人物像をより詳しく知れるいい資料だったのにと悔やまれる。
羽鳥は中学の頃に文学を通じて多くの友人を手に入れることが出来た。文学倶楽部まで設立するほどのめり込んでおり、級友たちはあの羽鳥が軍人になるとは思わなかったと言うほど、羽鳥は軍人向けな人物ではなかった。教師などが転職だったのではないかと級友や部下だった方たちに言われるほど人に教えることに長けていたそうだ。
だが、羽鳥の夢は教師ではなく、この頃も警察官と幼少の頃の夢をまだ追いかけていたようだ。羽鳥が進路で目ざしていたのは東京帝国大学の法学部で教師たちも羽鳥なら余裕で行けるであろうと言われていたそうだが、羽鳥がその門を叩くことは無かった。
羽鳥は家庭の金銭面を見た時、自分は大学に行かなくていいから妹たちにもっと教育をさせてやって欲しいと母親についぞ言っていたらしい。妹たちがその事を知ったのは戦後の羽鳥の一周忌のときで、今でも兄である羽鳥に感謝しているようだ。
特に1番下であった百合子は羽鳥からの仕送りもあり女学院に行くことが出来、兄妹の中では1番の高学歴は彼女となる。彼女は今でも「私の尊敬し憧れの人は兄の羽鳥文彦ただ1人です」と、胸を張って答えてくれた。
羽鳥は金銭面の考慮と妹たちのことを考え軍人をめざしたのである。決めてから行動に移すのがとても早く、次の日には士官の勉強に取り掛かり陸海両方を受験した。陸の方は身体検査で引っかかり失格だったが、海は受かり兵学校へとすすむことができた。陸でなぜ身体検査に引っかかったのか分からず皆首を傾げたが、兵学校に受かり長期休みで帰ってきた羽鳥の白い軍服姿に憧れを抱く少年たちも多かったと聞く。羽鳥の兄妹たちはとても似合っており役者のようだったとまで言っていた。羽鳥の軍服効果かは分からないが翌年からの熱田市の少年たちの兵学校受験率が例年より膨れ上がったという。
だが、まさか白い軍服に身を包み同郷たちと昔変わらず接していた羽鳥が、後に撃墜王と呼ばれるほどの存在になろうとは当時を振り返っても誰も予想をしていなかったという。皆、何かしら国のために励んでいるのだろうとは思っていたが、活躍が新聞に載るような大物になった時は近所の人達にとって英雄のような存在だったようだ。羽鳥自身はそのことを知ることは無かったが、当時を知っている人達に羽鳥の名を出すと文彦の親族かと聞かれるほど、羽鳥は印象に残っているようだ。
兵学校へ行った羽鳥は伝統の自己紹介で躓いていたようだ。東北や九州のような訛りの強いところの人達よりは障害は少なかったようだが、羽鳥の致命的なところが当時は声が小さかったそうだ。通る声をしていたのだが声量が小さく、とても苦労したそうである。最初の頃はたとえ聞こえていても声量が無いと無視されることが多かったようだが、羽鳥自身も声量の重要さは分かっていたから喉が潰れそうなほど声を出して1学年の時に喉を痛めて声が出なかったこともあったそうだ。羽鳥自身の悩みの種でもあったようだが部隊へ配属された頃、特に南に行ってからは元来の通る声を活用し、どれだけ遠くにいても羽鳥の声ははっきりと聞こえていたと部下たちが語っている。
同期の近藤曰く「初めて会った時は声の小さな場違いな優等生かと思っていたが、実際は我が強く不器用な奴で誰よりも軍人だった」
羽鳥が晩年のような姿になったのは飛行学生になってからで、兵学校での姿しか知らないものたちは大尉になった羽鳥に会うと皆驚いたと言っている。ヤンチャな部下を従える羽鳥は部下たちにとても慕われており、当時問題児と言われていた人物ほど羽鳥を崇拝する傾向があり、上層部がわざわざ問題児を羽鳥の下に置くこともあったようだ。
羽鳥を特に崇拝していたと言われるのは撃墜王の岡部大誠だ。誰が聞いても岡部と羽鳥は互いを信頼し合い、作戦を立てる際に悩むと経験豊富の岡部に相談する姿もあったという。
そんな羽鳥がこの世から姿を消したのは8月1日の晴天の日であった。
羽鳥文彦が一体どのような人物だったのか、彼は一体どのように撃墜王と呼ばれ部下たちからも尊敬されていたのか。この著書には身内だからこそ集めることができた資料も数多く存在する。どうかこの著書によって羽鳥文彦を知る人がより増えてくれたら嬉しい。