5. 宿屋にて
「あ、花子ちゃんおはよ~。」
「お、おはようございます。」
宿屋の階段を下り、食堂に向かうとアデルとフィリーが先にいて地図を覗き込んでいた。花子がちらりとアデルの様子をうかがうと、それに気づいたアデルも「おはよう」と返してくれた。どうやら挨拶くらいならフィリーに許可しているらしい。花子は急いで2人のいる机に着くと3人で朝食を食べ始めた。
「アデルさん、な~に花子ちゃんのことじっと見つめてるんですか?」
フィリーがにやにやとアデルを茶化したがアデルは全く相手にしなかった。アデルに見られていることに全く気付かなかった花子はびくりとして固まった。
「あ、あの......。」
花子が困ったようにアデルを見ると、真っすぐに目が合って見つめあう形になった。
「食べ方、綺麗になったな。」
花子は一瞬自分が何を言われているのかわからず、理解できた瞬間、顔から火が吹くかと思った。
「は、はい。」
「あー、確かに。つい2、3日前まではフォークを使うのに難儀してましたねぇ~。けど花子ちゃんの歳くらいならこんなものじゃないですか?普段大人びて見えるだけで。」
フィリーはさして興味もなさそうだが、アデルと初めて一緒に食事をした時の花子のことを知らないからそんなことを言えるのだ。花子がいた場所では花子はカトラリーはおろか、食事ができることがまず稀で、食べ物も常に奪い合いだった為、普通に食事をする方法等など知らなかった。周りにいた人間も花子と食べ方に違いはなかった。花子はアデルと自分の食べ方の違いに気づいてから必死にアデルの真似をしていた。その成果が出ていることに胸の奥に喜びが沸き上がってくる。
「というか、花子ちゃんって何歳なんですか?」
「......知らん。」
「えぇ~、薄情過ぎません?」
アデルも流石に良くなかったと思ったのか気まずそうな顔をしている。
「ほ~ら、花子ちゃんに聞いてみてくださいよ。俺が話しかけたらあなた怒るでしょ?」
フィリーが囃し立てたことによりアデルの機嫌は一気に急降した。慌てた花子は聞かれる前に自分から答えることにした。
「き、9歳です!」
「何?」
アデルは先ほどまでの怒りを忘れて心底驚いた顔で花子を見つめてきた。無理もない、花子の体は普通の9歳よりもあまりに小柄だったのだから。碌な栄養と睡眠を得られなかったせいで体の成長が止まっていたのだ。
「え、本当に?」
「4、5歳くらいだと思っていた。」
「ご、ごめんなさい......。」
花子は二人の視線がいたたまれなくなって体と縮こませた。
「すぐに謝るな。」
「ご、ごめっ、あ、え、うう。」
花子はここ数日アデルに繰り返し言われていることを忘れてまた誤ってしまった。自分が悪いと思っていないのに謝るな、何度も謝るな、そんな謝罪に価値はない、と昨日も言われたばかりだったのに。花子は泣きたくなったが、ここで泣いたら更にアデルを困らせてしまう。ぐっと眉間に力を入れるとフィリーが助け舟を出してくれた。
「あーあーあーあー、またそんな言い方して。昨日から俺何度も言ってますよね?子供相手に言い方がきつ過ぎますって、この数日でアデルさんが口下手なのはよく、それはよ~くわかりましたけど、もう少しあなたも改善する姿勢を見せたほうがいいですよ~。軍人相手の指導じゃないんですから。」
アデルは面白くなさそうに鼻を鳴らすとフィリーの皿に残ってた最後の肉を奪って食べた。
「あぁー!俺の肉!!あなたいったい何歳ですか!?せっかく楽しみにとっておいたのに、花子ちゃんよりあなたの方がよっぽど子供じゃないですか!返せ、俺の肉ー!」
フィリーがアデルの頬を掴んで全力で非難を伝えたかいもなく、アデルはあっけなく肉を飲み込み、それを見せつけるかのようにカパッと口を開いた。
「無理だ、すでに飲み込んだ。」
アデルが得意げに微笑むと、フィリーは思いっきりアデルの腹を殴った。
「うぐっ。お、まえっ。」
「表出ろこの野郎、肉の恨み、晴らさせてもらう。」
「上等だ。」
二人して取っ組み合いが始まり、花子はどうすればいいのかわからずおろおろしていた。涙はとっくに引っ込み、どうにかしなければとそれだけを考えていた。原因は花子なのだから。
「や、やめて、二人とも。」
花子は頑張って声を出したが二人には全く届いていない。
「や、やめ......」
「いい加減にしなさいっ!!!!!うちの宿で朝っぱらから騒ぎを起こすんじゃないよ!いい年した男がこんな小さな女の子ほっぽって何をしてんだい。」
花子はあまりの大音声にビクッと肩を震わせた。アデルもフィリーも驚いて動きを止め、花子の後ろを凝視した。そこには物凄い形相の恰幅のいいご婦人が菜切り包丁を持って立っていた。ご婦人は菜切り包丁をアデルとフィリーに突きつけながら一気にまくし立てた。
「そこに直れ!いいかい、確かに今は閑散期だからお客は少ないがそれでも泊ってるのはあんたたちだけじゃないんだ。それに周りを見てごらん。今は食糧難でどこも苦しい中やってんだ、あんたたちがこぼした食糧でその日の命を繋げる奴だっているんだ。あんたらの身なりからしてこれまで何不自由なく育ってきた口だろう。あんたが投げたそのワインを作るのにどれだけの手間がかかってるかわかってんのかい。一粒一粒ぶどうの身を茎から外して発行させて果汁を絞って、、、あんたたちはその行動で農民全員を侮辱したんだ。そんな奴らにいつまでもうちの宿にいる資格はないよ!さっさと出てお行き。大体、こんなに小さな女の子の前でやることじゃないだろう!可哀そうに、こんなにおびえて、あんたたち......まさか人攫いじゃないだろうね!ちょっとサラ!今すぐダンの野郎呼んできな!こんな人でなしどもお役人に突き出してくれるわ!!」
突然人攫い扱いされたフィリーは慌てて弁明を始める。
「ちょっと待ってくださいよ!俺たち人さらいじゃないし、確かにワインの瓶を投げて割ったのは悪かったけど、もう空だったし、食事もすべて食べ終えてました。食べ物を無駄になんてしていません!」
対してアデルの方は心底申し訳なかったというような顔で宿の女将に補償を持ちかけた。
「……騒いで悪かった。この娘は俺の連れだ。騒いでしまった詫びがしたい。これで足りるだろうか。」
そういってアデルが取り出したのは一枚の金貨だった。女将は一瞬ぎょっとしたもののすぐに気を取り直して二人を睨みつけた。
「そこの与太助、あんた自分が騒いだことは棚に上げて人の上げ足ばかりとってそれでも男かい?細かいことをうじうじと、そんなんじゃ女に身ぐるみ剝がされて捨てられるよ。」
「なっ。」
与太助呼ばわりされたフィリーは何を言われているのか理解できず口歩開いたまま固まってしまった。女将はなかなか的確にフィリーのことを言い当てている。アデルはどうやら必死に笑いをこらえているようだ。口角を下げているがぴくぴくしている。ここ数日一緒に過ごしたことでアデルの表情の変化が大分読めるようになってきた。そうして油断しているうちに女将の矛先はアデルに向けられた。
「そっちのデカ男!」
「デカ......。」
「あんたは高いところから人を見降ろして恥ずかしくないの!?少しはしゃがんだらどうだい。さっきから聞いていればお嬢ちゃんに対しても大層上から目線ででかい態度をとって、このすっとこどっこい!」
花子は女将の言い様に一瞬で頭に血が上った。フィリーのことはどうでもいいが、アデルに対する侮辱は許容できない。いくら花子を庇う言葉だとしても、そんなことはこれっぽっちも望んでない。花子はこれまでどんな理不尽にも侮辱にも暴力にも何も感じず、粛々と嵐が過ぎ去るのを待っているだけだったがどうにもアデルのこととなるとそうはいかないらしい。花子は思い切り女将を睨むが、女将はフィリーとアデルを見ていて花子に気づいていない。花子はそっと傍にあったナイフを拾いあげた。ナイフを握りしめ女将の喉元を狙った時、アデルの声に動きを止めた。
「花子。」
花子は名前を呼ばれただけなのに一気に血の気が引いた。いつものアデルじゃない。花子はナイフを取り落とし、そろそろとアデルに視線を向けた。するとアデルが凍えるような視線で花子を見ていた。花子は急いでアデルの元に駆け寄り、謝ろうとしたが花子が動くより先にアデルの方が花子に近づき抱き上げた。花子はいつもならひどく安心する腕の中にいるのに、今に限っては生きた心地がしなかった。
花子の行動を全く見ていなかった女将はアデルに抱き上げられた花子の様子を見て不信感をさらに募らせたらしい。
「あ、あんたやっぱり人攫い......。」
「女将、正義感を持つのは良いが、分を超えた行動は慎むべきだ。この娘は俺の連れだ。」
アデルが声に威圧を滲ませながら女将を見つめると、女将はごくりと唾を飲み込んだ。どうやらアデルのことが怖いらしい。花子も、今のアデルはとても怖いので女将がこれ以上無用な発言をしないように心から願った。そんな緊迫した空気を破ったのはフィリーの気の抜けるような声だった。
「なんと美しい!」
花子達3人は咄嗟に声のした方に視線を向けると、フィリーが一人の少女の手を取って跪いていた。
「サラ!」
女将が慌てたようにサラと呼ばれた少女の方に駆け寄って、少女を口説き始めたフィリーから引きはがす。
呆気に取られてその様子を見つめていると、アデルの声が降ってきた。
「花子、後で話がある。」
「.......はい。」