唐菖蒲
深夜、北風が頬を撫でる。
澄んだ空気が鼻を突き、それまでぼんやりとしていた思考が徐々に明瞭になっていき、目的を思い出す。
(日記を取りにいかねえと)
やけに重い足を無理やり持ち上げ、学校への道を辿り始める。
俺には一人の恋人がいる。
彼女は俺には勿体ないくらいの美人で、考え事をしている横顔が可愛くて、ふとした時に見せる笑顔が眩しい本当に素敵な子だ。
ただ一つの問題があった。
学校では出来損ないで邪魔者の俺とは違って、彼女は優等生だった。
不良と付き合うなんて、あの鬱陶しい教師どもはもちろん、周りだっていい顔はしないだろう。
そんなわけで表立って付き合うわけにもいかない。そんな中で彼女からの提案で始めたのが、交換日記だった。
最初は乗り気ではなかった。日記なんて書いたことがねえから、何を書いたらいいのかなんて分からねえし、初めて書いたそれを恋人に見せるというのだから、恥ずかしいやら、緊張やらがごちゃまぜになったのを今でもよく覚えている。
しかし、いざ始めてみるとなんだかんだ楽しかった。
バレないように日記を受け渡す方法を彼女と考えるのも。受け渡しの時のある種のスリルも。なにより日記の中で彼女の新たな一面が見られるのが、嬉しかった。
ただ今日は日記を学校に忘れてしまった。
彼女は優しいから日記を忘れてしまったことも、謝れば少し困ったように笑いながら許してくれるだろう。
恋人としてそんな顔をさせたくはない。
そう思い立ち深夜に学校に向かったはずだ。
「はぁ……学校までの道って……こんな、複雑だったか?」
ここ最近は学校にちゃんと通っていたのだが、道中少し迷ってしまった。
確かに勉強は嫌いだし、賢いとは言えないが、毎日通っていた道を忘れるほど馬鹿じゃない、と思いたいんだが。
それに迷ったとは言っても、十分も歩いたわけじゃないのにこの異様な疲労感……
(まあ後で考えればいいか)
フェンスに空いた穴に這うようにして学校へと入る。
立ち上がり服をはたいていると、遠目に本館の窓で明かりが動いているのが見える。あの規則的な動きからして警備員だろう。
以前夜に学校で遊んだ時には会わなかったが、まあ、たまたまだろう。
(見つかったら面倒だから気を付けねぇとな)
それに今警備員がいるのは本館の二階だ。
俺の教室は別館にあるし、さっさと日記を回収すれば会うことはないだろう。
何事もなく教室の前にたどり着けた。
廊下の窓から警備員の位置を確認してみるが、まだ本館の三階のようだ。
教室のドアに手をかけたところで、そういえば鍵が掛かってるんじゃないか?という考えがよぎる。
しかし、意外なことにガララッという音を響かせドアは開く。
ざる警備すぎて心配になるが、今回においてはラッキーだった。
早速、日記の隠し場所を物色しようとすると、タッタッと足音が聞こえだす。
(警備員?いや来るのが早すぎだろ!とりあえず隠れねぇと)
ドアを音が出ないように素早く閉め、ロッカーに飛び込む。
ロッカーの扉を閉めるとまだ生乾きの雑巾が鼻先に触れ、少し臭うが背に腹は代えられない。
隠れてから十秒もしないうちに警備員が教室へやってきた。
「この辺りから音がしたはずだが……それにしてもまた閉め忘れか」
警備員は鍵が開いていることを呆れながら机の下を懐中電灯で確認している。
徐々にこちらに近づきながら。
(終わった)
机の下以外に隠れる場所なんてロッカーくらいだ。
ああ、深夜学校に忍び込むって謹慎くらいで済むだろうか?それくらいならいいが、最悪退学か?外でも彼女は会ってくれるだろうか?
次々と不安が湧いてくるなか警備員がロッカーに手をかけようとしたところで
「こちら……。……願う。……ぞ」
警備員の左肩についていた無線機からだった。静かな校舎だがその声はよく聞き取れない。
警備員は踵を返し話し出す。
「こちら。白浜。どうした?……はあ?またあのじじいが?……了解。一度見回ってみる」
そのまま鍵も閉めることなく小走りでどこかに去って行ってしまった。
「はぁ……」
安堵から詰まっていた息を吐きだす。
一人じゃないのかよとか思うところは色々あったが、まずは日記を探すのが先だ。
だが、隠し場所を手で隅々までまさぐってみるがそれらしい感触はない。
携帯もないし夜の学校では目視で探すのも難しいだろう。
というかえらく埃が積もっている。
隠し場所にしてからは俺と彼女で掃除したはずなんだが。
ここにも、家にもないなら、あとは机の中だろうか。
(こんなところに置いた覚えはないんだが)
机の中の教科書一式とともに引っ張り出して確認しようとするが、よく見えないので月明りで照らされた窓際へと運び教科書を見ると
「誰だ?こいつ……」
そこには全く知らない名前が書かれていた。
学校近くの公園のブランコに腰を掛け、風にあおられながら考える。
あれからいくつかの席の教科書を見てみたが、俺の名前どころか、知っている名前すらなかった。
クラスが違うのかとも思ったが、他の教室は鍵が掛かっていたので、それは確かめようがなかった。
ただそれ以上に、日記をなくしてしまった。
彼女は優しいから、また書けばいいと、笑って許してくれるだろう。
謝る前からそんな様子が想像出来てしまう。そんな自分が酷く浅ましくて、酷く惨めに思えた。
「情けねぇ」
ぽつりと口から漏れた言葉が頭の中で反芻する。
バチンと俺は強く俺を殴る。
(馬鹿が)
まだ学校と家を探しただけだ。学校だって教室が違うだけかもしれない。帰宅途中に落とした可能性もある。探してない場所なんて腐るほどあるだろうが。
その程度でうじうじと悩んで、何が許してくれるだろうだ。大体、突然物が消えるわけないだろうが。この世のどこかにあるに決まってんだろ。
ウジウジ悩むのは全部探してからだ。
「とりあえず、家から探しなおすか」
改めて決意を固め立ち上がった時だった。
「いたぁぁ!!」
声とともに凄まじい衝撃が腹部に伝わる。何とか踏ん張れはしたが、ゴキっと嫌な音が響く。
「いったああ!!」
「なに?おじいちゃんも私のこと探してたの?」
腹部の方を見ると人のことを急におじいちゃんだのと呼ぶ失礼な少女が顔を埋めていた。
「はぁ??誰だよお前!!」
「え?ボケが治ったんじゃないの?」
顔を上げた少女の顔は彼女によく似ていた。
もう一度、今度は二人でブランコに腰を掛け、徐々に思いだしてきた記憶を整理する。
「つまり俺……というか儂はボケて深夜徘徊してた老人ってことか」
自分で言っててめちゃくちゃショックだ。よくよく見れば儂、薄着だし、手とかしわっしわだし。で孫に探されてたと。
(未来の儂情けなさすぎる)
「ホント大変なんだからね。不法侵入しまくるし。まあ大体行先決まってるから、見つけやすいんだけどさ」
「老いてからも家族に迷惑をかけるとは申し訳ない……」
「日記が日記がーってうわ言みたいによく言ってるし」
「そうだ日記!日記を探すために儂は……」
「はいこれ。家の倉庫にあったよ」
手渡されたノートは少し黒ずんでおり、貼ってあるステッカーもはがれかけている。
だが間違いなく俺と彼女の日記だった。
「ありがとう……」
「なに?泣いてんの??あのぶきっちょのおじいちゃんが??ウケるんだけど」
「泣いてないわ!」
少し目に結露しただけだ。
「ま、いいからいいから。帰るよ」
そういうと少女は手を差し出してきた。
「まだそんな年じゃない」
儂はもう忘れぬように固く手を握った。