009.身代わりの愛
ある三日月の夜、蛍が琵琶を弾いていた。一音一音、響きを確認するように弾く。秋の夜長で風はなく、それほど寒くなかった。蛍はわざと決まった曲は弾かず、心の赴くままに弾き遊んでいた。
俺は蛍の琵琶を聴きながら黙って座っていた。女房たちはそれぞれの持ち場で休んだり談笑したりしてくつろいでいる。俺の肩をポンとたたく人がいて、俺は少し横にずれた。光は俺の横に腰を下ろして、やはり琵琶を弾く蛍の背を見ていた。
「すー兄、やる?」
「いいの?」
蛍に琵琶を勧められて俺は嬉しくなって受け取った。琵琶の音好きなんだよなあ。ベェン、ベェンと弾くと寂しい秋野に身まで溶けてしまいそうに思える。俺は同じ節ばかりを繰り返し奏でた。色恋に向く音色じゃないけれど。身に沁みていつまでも聴いていたい音だった。
「帰んなくていーの?」
「どこに?」
「二條にさ。可愛い人がいるんだろ」
蛍に言われると光は大きなため息をついた。蛍は俺と入れ替わりに光の横に座っている。
「耳が早えな」
「お前みたいな超有名人の動向はひかりの速さで伝わんだよ」
俺は琵琶を弾く手をとめて光を見た。二條というのは光の自邸の二條院のことかな。可愛い人というのは女性だろうか。光が女性を自邸に迎えた……。
「葵さんとは気い合ってなかったもんな」
蛍は光を責める様子は無かった。
「女じゃねえよ。親のない子を育ててるだけさ」
「育ててどーすんの」
「きいてどうすんだよ」
「その子の人生は、幸せになんの」
蛍はあぐらの脚に肘をつき、口を押さえて前を見ていた。光も前方を見ながら話す。
「幸せになるよ。俺が育てんだから」
「そう」
蛍はそれだけ言うと黙ってしまった。俺は気の利いた曲ひとつ弾けずに。ベェン、ベェンと低い音だけが秋の庭に響く。
「誰かの代わりに愛されるってのが幸せか」
「どういう意味?」
「誰かの代わりに愛されて、自分を見る目の中にその人の面影を探されて。それがお前の考える幸せか」
今度は光が黙ってしまって。長い時が流れた。
「どんなに似てたって同じ人間はいねえよ。代わりにはならない」
俺は去年亡くした人のことを言っているのかと思った。似た人を愛すというのは父上譲りなのかな。
「常に目の前にいる人だけを愛してるよ。代わりで満たされるならこんなに苦労してない」
光は席を立つと蛍に背を向けた。
「お前、知らねーぞ」
蛍は前を向いたまま言い放った。
「次の御子が男なら父上は必ず春宮にしようとする。譲位してすー兄の御世が来る。今までのようには行かねーぞ。ほんの僅かな失敗でも足をすくわれる」
お前、野垂れ死ぬかもしれねえぞと蛍は言った。
「大げさだな」
光は無理に笑みを作ると
「その時は兄貴に頼るさ」
軽く手をふって去ってしまった。俺が光を殺すんだろうか。俺は即位するのが怖い気がして仕方なかった。祖父右大臣や母の横暴を俺は止められるのだろうか。帝の座にいるだけの人間にどれほどの力があるのか。俺の命が意に沿わなければ「頭のおかしい帝」として後見でも付けられるのがオチだろう。皆がついてこなければ王など飾りにすぎない。
「楽しかった?」
「うん。ありがとう」
蛍に琵琶を返すと俺は現実に引き戻されてしまった。藤壺さんの身ごもった子は男子なのだろうか。父上の御世はいつまで続くのか……。平らかな出産を望みながら、俺の心は複雑に揺れていた。
朱雀:桐壺帝の子。光の3歳上。のちの朱雀帝。朱雀院。
光:桐壺帝の子。朱雀の弟。
蛍:桐壺帝の子。朱雀、光の弟。のちの蛍兵部卿宮。
藤壺女御:桐壺更衣に似ていることから入内した。光の5歳上。のちの中宮。
紫:藤壺女御の姪。10歳から光に引き取られ養育された。光の8歳下。
弘徽殿女御:朱雀の母。右大臣の娘。桐壺更衣とその子である光を憎んでいる。
葵:左大臣の娘。光の妻。光の4歳上。