001.申し訳ありませんでした
春風がさっと御簾を吹き渡って、爽やかな午後だった。俺は「絶対似合うから」と女房に太鼓判を押された深紅の衣で身じろぎもせず座りながら、その人を待っていた。緊張、する。きっと怒っている。でも態度に表すような人じゃない。だからこそ、申し訳なくて仕方ない。
母の目を逃れて光る君をお招きするのは大変だった。母は俺と光る君が付き合うことをとても嫌う。俺は三歳下で、母違いの弟であるこの人とちゃんと話したことがなかった。光る君に会いたいという文も、また違う異母弟である蛍に頼んで取り次いでもらった。本当は俺のほうから光る君の所へ出向くべきだけれど、そう目立つことをすると母がカンカンに怒って光る君に害が及ぶかもしれないので、ずっとできなかった。
サラサラと軽い衣擦れの音がして誰かが歩いてくるのがわかった。ふたりいる。来たのかな。俺は目を閉じて深呼吸した。人払いはしてあるけれど。やっぱり緊張する。
「すー兄、おまたせー」
蛍は立ったままいつもの気さくな調子で御簾をちょっと持ち上げると、俺に目配せした。
「入っていい?」
「うん」
「光もどーぞー」
蛍が持ち上げる御簾をすこしかがんで避けると、光る君は入ってこられた。背が高い。はっとするほど美しくて、しばし息をのむ。遠目からお見かけしたことはあったけれど、間近で見るとすごい迫力だった。抗いがたい吸引力をもった輝きで、「光る君」というのは本当に言葉通りなんだと悟った。
「お忙しいのに、お呼びだてしてすみません」
「いえ」
光る君は俺の前に、臣下のように目を伏せて座られた。蛍もその横で、興味津々といった様子で俺たちを見ている。俺は高い座から下りると、二人と同じ床に座り直した。
「今日は、その……どうしてもお話したいことがあって」
光る君は春宮である俺が座を下りて近づいたのが意外だったのか、俺をじっと見つめられた。三歳下という感じはしなくて。綺麗だけれど落ち着いた、大人の顔をされていた。
「お母様のこと、本当に、申し訳ありませんでした」
俺は床に手をつくと、下げられる限り頭を下げた。結っていない髪が垂れて床につく。
「そんな。どうかお顔を上げて下さい」
光る君は驚いて腰を浮かすと、俺に手を差し伸べてくれた。
「母のしたことは許されないことで、お詫びのしようもありません」
頭を下げながら、悲しくて仕方なかった。母にも優しい所はあるのに。どうしてあんな酷いことをしてしまったのだろう。
「貴方のせいじゃないですよ」
光る君は優しくて、俺を慰めてくれた。
「母は身体が弱かった。仕方なかったんです」
悲しかった。俺は、もう誰にも死んでほしくなかった。
「俺、出家しようと思うんです」
「えっ」
「何?!」
おもむろにこう切り出すと、今までのやり取りをニヤニヤしながら見ていた蛍までもが驚いて立ち上がった。
「俺がいなくなればあなたが春宮になれます。その方が父上もお喜びになるし、この国のためにも良い気がして」
事あるごとに光る君と比べられても俺は苦じゃなかった。彼のほうが全てにおいて優れている。御所の人は皆そう噂したし、俺自身もそのことは良くわかっていた。
「いくら春宮様の仰せでも。それはいけません」
光る君はしばらく黙っておられたが、やがて落ち着いた口調で仰った。優しいのに有無を言わせぬ響きだった。
「俺を臣下にするのは父上がお決めになったことで、春宮様とはいえそれを覆すのはよくありません。それにそんなことをされては、今まで可愛い息子を帝にしようと頑張ってきた弘徽殿さんの努力が水の泡じゃないですか。それは可哀想です」
光る君が母のことを気遣って下さるので、俺は驚いてその目を見つめた。綺麗な深い瞳で。
「母の死も無駄になりますしね。今度こそ俺が殺されかねません」
光る君は悪戯っぽく目を細めて、俺を見つめて下さる。
「そうか……」
俺はなんて浅はかだったのだろうと気づいて嘆息した。
「すみません。俺、自分のことしか考えてなくて」
「いえ。お気持ちだけありがたく頂戴します」
すごいなあ。格が違うんだ。俺は自分が恥ずかしくなって目を伏せた。出家してこの場から去ればラクになれると思っていた。遺された人のことをちゃんと考えていなかった。
「もっともらしいこと言ってるけど、光はただ帝になりたくないだけだよ。帝なんてお人形みたいに良い子にしてなきゃいけないし、自由に出歩けないしさー」
蛍がホッとしたようにその場に座ると冗談めかして言うので、場の空気が和んだ。
「お前だってそうだろ」
「そりゃそうだよ。地位も高くて金に困らない親王が俺の天職だからねー」
蛍はフフンと得意げに鼻を高くする。
「すー兄が全部引き受けてくれてるから俺たち遊べるわけで。いつもありがとね」
「そんなこと」
蛍にお礼を言われて俺はちょっと照れた。
「すー兄は雅だし優しいし、帝に適任だと思うよ。魑魅魍魎の跋扈する洛中へは出てこないほうがいいって。厳しい競争社会だからさー」
「お前褒めるフリしてちょいちょいけなすよな」
「だって俺とすー兄は仲良いし」
光る君は蛍の脇腹を肘で小突いた。蛍も負けじと応戦している。二人は歳も近いせいか、特別仲が良いみたいだ。
「こっちこそありがとね。蛍がいなかったら、今日こうしてお会いできてなかったと思う」
「お安い御用だよー」
俺が蛍にお礼を言うと、蛍は白い歯を見せてニッと笑ってくれた。
「あの、俺も兄貴って呼んでもいいですか」
蛍とじゃれ合っていた光る君が突然そう仰るので、俺は一瞬キョトンとしてしまった。
「蛍だけの兄貴にしとくのももったいないんで」
「はい、どうぞ。朱雀でもなんでも」
俺はコクっとうなずいて、ちょっと嬉しかった。
「この局で俺の味方になってくれそうな子も見つけとくんで。文も直接下さい」
「はい」
直接文のやり取りをしてくれるんだ。俺は感激して。この優しい弟と仲良くなれたことが純粋に嬉しかった。
朱雀:桐壺帝の子。光の3歳上。のちの朱雀帝、朱雀院。
光:桐壺帝の子。朱雀の弟。
蛍:桐壺帝の子。朱雀、光の弟。のちの蛍兵部卿宮。
桐壺更衣:光の母。弘徽殿女御の嫉妬を買い早世。
弘徽殿女御:朱雀の母。右大臣の娘。桐壺更衣とその子である光を憎んでいる。